第4話 星空願う守り石(4)
砕ける。砕けると、紬は言った。あまりに突拍子のない話だ。信憑性にも欠ける。しかし大切にしている物が壊れると聞かされて穏やかでいられる人間などいないだろう。困惑から苛立ちへ。機嫌を下降させた瑠璃が眉間に皺を寄せた。
「身代わり守りを知っているかい? 持ち主に起こる厄災を代わりに引き受けるというお守りだ。その代償に割れたり、砕けたりする」
「それがネックレスと何の関係が?」
「お嬢さんのラピスラズリも守り石の一種だ。これを身に付けてから不運に見舞われる数が減ったと言っていただろう? ずっと君を守っていた」
瑠璃が受けるはずだった不運はラピスラズリが引き受けていたのだと紬は告げる。瑠璃自身もネックレスのおかげだと信じてきたが、他人に言われると途端に胡散臭く聞こえるから不思議だ。
「このラピスラズリは加護の力がとても弱くなっている。いつ砕けてもおかしくないほどに」
「で、でもさっき傷とかはないって」
「物理的に目立つ傷はないという話しさ」
紬は手に取って傷の有無を確認していたし、阿近はカラスから回収した時の汚れを落としてくれたはず。彼らは触れているではないか。なのに瑠璃だけは駄目だという。それが不公平に思えて、眉間の皺が更に深くなる。
「加護の対象ではない私や阿近君が触れるのは問題無い。誰の為の加護なのか考えてみるといい。祖母君が健やかであれと願いを込めたのは君の為だろう?」
「……私の、為」
「そうだ。しかしだからこそ、このラピスラズリは君の手に戻った時、再び君を守ろうとする」
砕けるとはそういうことだと言って、紬はトレーを瑠璃の前に差し出した。
「信じるも信じないも自由。受け取るか否かを決めるのは君自身だよ、瑠璃君」
瑠璃の前にはトレーに乗せられたネックレス。ラピスラズリは失くす前と変わらず美しい。瑠璃の為の願いが込められた、彼女の為だけの星空だ。砕けそうになっているなんて俄には信じられない。だというのにどうしてか手を伸ばすことはできなくて、中途半端に指先を彷徨わせたまま瑠璃はただただ見つめていた。
「――そういえば、さっきの問いに答えてもらってなかったね」
不意に届いた紬の声は決して大きくはなかったが、沈黙の中では張り詰めた糸を弾くように瑠璃の耳にはよく響いた。ネックレスしか見えていなかった視界が広がり、無意識に詰めていた息がゆっくりと漏れていく。思っている以上に緊張していたのだと知った。
「祖母君から貰ったことと、厄除けのお守りであること。君にとってより大切なのはどちらかな?」
「さっきも言ったけど、おばあちゃんから貰った大切なお守りです。どっちも何もないじゃないですか。同じことでしょ?」
「ふむ。言い方を変えようか」
信じるか否かは瑠璃次第などと、根拠のない話で不安を呼び込んだ張本人である紬からの、追い打ちをかけるような問い掛けは的を射ない。理解できない事ばかりが重なって、思わず声が刺々しくなるのは仕方がないだろう。しかし紬は瑠璃のそんな態度も全く意に介さず問答を続けた。
「君がそのお守りを大切にするのは、身に付けていると不運が遠ざかるからかい? 仮に祖母君から貰ったのが何の加護もないただのネックレスだった場合、それでも大切にするかい?」
「そんなの! 大切にするに決まってるじゃないですか!」
「何故?」
「何故って……。おばあちゃんがくれたんだから当たり前でしょ! 大好きなおばあちゃんが、泣いてた私の為に用意してくれた。もしも嫌な事が減ったのが思い込みでしかなかったとしても、おばあちゃんが私を心配してくれたのは本当だった。そんなおばあちゃんの気持ちが私は嬉しい」
きっぱりと言い切った瑠璃を見て、紬はクスクスと肩を揺らしている。ほら、答えは出ているだろう。頬杖を付いて、確信したように口角を上げる。金茶の瞳が瑠璃の胸中を見透かすように真っ直ぐに射抜いていた。ネックレスを見つめて悶々と悩むだけだった思考が、吐露したことで少しずつ晴れていくようだ。
「物というのはね、どれだけ大切にしてもいつかは壊れるものだ。それは不慮の事故かもしれないし、素材や構造の寿命かもしれない」
紬が一度口を閉ざしたそのタイミングを見計らったように、瑠璃の目の前に湯呑みが置かれ、椅子が寄せられた。いつの間にか阿近が用意してきたらしい。ふわりと湯気が揺れて、芳しい緑茶の香りが鼻先に届く。勧められるままに一口含めば緑茶特有の苦みとふくよかな甘みが口内に広がった。懐かしい。祖母がよく緑茶を淹れてくれて一緒に茶菓子を食べた日々を思い出す。
「壊れたからといって、そこにある想いまで消えて無くなりはしないだろう? そりゃあ思い出す為のツールは減るし、目に見える形で想いを証明する術は無くなるが、だからといって忘れてはいけない。――大切なのは想い。物とはあくまで想いを伝える代弁者だ」
茶を一口含んでゆったりとした間を作りながら、紬は更に言葉を紡ぐ。
「けれど壊れることに悲しみが伴うのも自然なこと。傾けた想いが大きいほど喪失の悲しみが大きくなるのもまた自然なことだ。だからその時は素直に悲しんでいい」
人の大切にしている物に対し壊れるなどと巫山戯た物言いをしたことに一度は腹が立ったものの、いつの間にか瑠璃の心は凪いでいる。それもまた、彼の言葉によるものだった。
何故ラピスラズリだったのか。安全を願うだけなら近所の神社のお守りを買うだけでもよかったはずだ。けれど祖母は子供に与えるには高価すぎるラピスラズリを選んだ。守り石であり、彼女と同じ瑠璃の名を持つ石を。一体どれほどの願いがネックレスには込められていたのだろう。改めて込められた想いを自覚し、胸がいっぱいになる。不安はもう、無かった。
「私は……、ネックレスが壊れることよりも此処で手放す方が嫌。もしもこの先本当に壊れてしまったとしても、守ってくれてありがとうってちゃんと伝えたいから」
「嗚呼、それはさぞ喜ぶだろう」
そっと瞳を伏せて、紬は穏やかに笑う。それはこの短時間で抱いた彼へのイメージとは少々異なる意外な表情で思わず面食らったが、結局は瑠璃も釣られてへらりと笑う。先程まで躊躇していた指先が嘘のようにネックレスへと伸びて、今度はあっさりと彼女の手の中に帰ってきた。そっと労うように撫でれば心做しか星空の輝きが増したような気がして、堪らず両手で包んで抱き締める。少しだけ視界が滲んだが、それは気付かぬふりだ。
「そういえば、その湯呑みだけれど」
唐突な話題の転換に繋がりが見えず、瑠璃は疑問符を浮かべた。この先は手持ち無沙汰のよもやま話だから身構える必要はない。茶飲みに付き合ってくれと紬はぬるくなり始めた湯呑みを傾けた。確かに瑠璃の湯呑みにも茶はまだ残っている。
「それは一度割れたものだと気付いていたかな?」
「え?」
慌てて湯呑みを確認するが漏れている箇所はどこにもないし、欠けてもいない。紅葉が描かれたごく普通の湯呑みだ。手のひらの上でクルリと湯呑みを回して気付いたのは、金色の線が走っていること。紅葉の枝かと思っていたが、よくよく見ると後から付け足したかのように柄の上を横切っている。
「金継ぎという手法で繋ぎ直した。湯呑みとして問題なく使えるし、独特な美しさもある」
「これ、割れちゃったんですか? 本当に?」
「おや、そんなに素晴らしい仕上がりだったかな? 金継ぎの魅力は、同じ割れ方をするなど有り得ないから二つとして同じ物がないことだ。かえって特別感のある湯呑みになっているだろう?」
問われた瑠璃は目線の高さまで持ち上げてまじまじと観察する。要は接着剤でくっ付けたという話なのだろうが、手法次第でこんなにも印象が変わるものなのか。感心のあまり間の抜けた声が漏れた。
「すごい……。割れたのに普通に使えるなんて不思議な感じ」
一気に茶を飲み干して、自由になった湯呑みを更にくるくると回す。行儀が悪いと咎められても仕方がないのに紬は何も言わない。呑気に茶を啜り、おかわりを要求している。彼の湯呑みに茶が残っている以上、もう暫く茶飲みは続くのだろう。だからよもやま話などと言いながらやんわりと提示された壊れたその先の可能性を、瑠璃はじっと見つめ続けた。
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