【書籍発売記念特別編】鬼は外、鬼は内 (後編)


 ばん!


 突然、なにかが背後の、裏庭へと続くガラス扉を叩いたような音がした。ひっと短い悲鳴とともに文を読むのを中断した亜瑚は、そのまま勢いよく後ろを振り返る。だが目隠しの障子戸が締め切られているので、外の様子は見えない。

 おそるおそる、知景のほうに顔を向けた。

「ねえ、いまの――」

 しかし知景は、まったくおどろいたようすもなく、

「なんでもないよ。大丈夫」

 と微笑んだ。

「だってこの話、聞いたらその人んとこに鬼が来るかもしれないって。ほら、下のほうに書いてある」

「そんなのウソに決まってるやん。亜瑚は怖がりやね」

「でも――」

「鬼なんて、いないよ。それにあれは、夜にしか来ないから」

 澄んだ抑揚のない声が、亜瑚を黙らせた。こちらを向いた知景の眼差しに、氷を当てられたかのように首筋が冷えるのを感じた。それは普段の知景が見せる、あどけない表情とはまるで違った。吸い込まれるように深く黒く、内に秘められた感情は読み取れない。その瞳に縫い止められたように、亜瑚は身動きを忘れていた。

 ――鬼なんていない? どうしてそんなにはっきりと言うの? 夜にしか来ない? 「いない」のに? ……どういうこと?

 しばらく見つめ合ったまま、さきほどの知景の発言が、頭の中を巡る。質問したくて口を開きかけるが、どうしても声が出なかった。

 困惑する亜瑚を見て、知景の形の良い唇が三日月形に反る。

「大丈夫だってば、亜瑚」

 そう言ってこたつから這い出すと、ゆっくりと立ち上がって障子戸に歩み寄り、大きく開け放つ。

 裏庭の畑が、眼前に広がる。冬のあいだは野菜を作っていないため雑草が伸び、ところどころ薄く雪が残っている。その向こうに、一頭の野生動物がすくっと立っているのが見えた。

「ほら、ただの鹿だよ。きっと最近少しあったかくなったから、巣穴から出てきたのね」

 痩せてくたびれた毛並みをした鹿は、こちらの声と視線に気づいたようで、耳をぴくりと動かした。少しのあいだつぶらな瞳はじっとこちらを見据えていたが、やがて慌てたように生垣を飛び越えて、山のほうへと逃げ去っていった。

「あーもう、びっくりしたぁ」

 物音の正体がわかって、亜瑚はほっと胸を撫で下ろした。ついでにこたつに脚を入れたまま寝そべって天井を仰ぐ。私ってほんとうにビビりだな。自分にあきれてため息が出る。鹿より臆病かも。いざとなったら知景がいちばん落ち着き払っていた。

「亜瑚の声に寄ってきたのかもね」

「私の声には鹿寄せの能力があったのか……ってそんなわけないやん」

 気の抜けきった声で下手な乗り突っ込みをすると、となりで知景がけらけらと笑うのが聞こえた。それはもう、どこも変わりのないいつもの幼なじみの笑い声だった。

「でもこれはほんと、亜瑚怖い話読むのうまかったよ。自分で読むよりも想像できたし、夢中で聴き入ってしまったもん。絶対朗読やってほしい。知景、毎日聞くよ!」

「毎日は無理」


 いつも暗くなる前に家に帰りたいと知景が言い出すのがお決まりのパターンで、この日も亜瑚は帰り道を送っていくことにした。

 三月の風はまだまだ顔に当たると冷たい。

「さっきのお話ね、鬼は外、福は内、って言うけどね」

 田んぼの畦道を歩きながら知景は話し出す。さきほどの亜瑚の朗読した「鬼の面」の話についての感想を述べたいようだ。歩調をゆっくりに合わせながら、うん、と亜瑚は相槌を打って続きをうながした。

「あの子は鬼さんに豆を投げつけて、外へ追い払おうとしてしまったから、逆に恨まれて襲われたんだと知景は思うの」

「いや鬼のお面つけてる人が夜中にピンポンしてくるとか怖すぎるし、絶対不審者。っていうか不法侵入者やもん、追い払って当然じゃない?」

「『鬼は外』って、よそものは仲間はずれにするのに、『福は内』って、幸せだけは自分のものにしようとしたんよ? 鬼さんにも、うちに入りたい理由があったかもしれんのに」

 知景はどうやら、鬼面の繰り返していた「鬼は内」という気味の悪い台詞を、「自分を家に入れてくれ」という願いとして受け取ったらしい。なぜか投稿者の振る舞いを非難していた。

「理由ってなによ?」

「うーん、わからんけど。トイレ貸してください……とか?」

 どうあがいても平和的解釈しか導き出さない知景の思考回路に、亜瑚は今度こそ吹き出してしまった。

「ちぃちゃんって、むかしから変に怖いもの知らずやんね。私はホントに自分ちに鬼のお面被った不審者が来たら、投稿主と同じような行動を取るかな」

「ええ〜、そう? そうかなぁ」

「優しすぎるねん、ほんまに。ちぃちゃんは」

 思い返せば小学生の頃、男の子にいじわるで髪を引っ張られたときも、知景は「長い髪の毛がほしかったんやね。いっぱいあるからちょっとあげるよ」とためらいなく自身の髪にハサミを入れていた。(これは成美が全力で阻止した。)そんな恐れ知らずのお人好しがもしも鬼に行き遭ったら……少し心配になるが、同時にじわじわと可笑しさも込み上げてくる。この子なら、お茶菓子を出して鬼をおもてなしした挙句、鬼の身の上話を聞いたりなんかして、最後にはそこそこ仲良くなってしまうのではないだろうか。

「私、怪談朗読やってみようかな」

 いつのまにか、舘座鬼家の大きな古い民宿の建物の前まで来ていた。亜瑚はそれまで頭の中で巡らせていた考えを口にした。それを聞いて知景は、顔をぱっと輝かせる。

「えっ、ほんと!?」

「うん。声に出して読むの自体はけっこう楽しいし、怖い話の耐性つけたいし」

 正直、ひとりで暮らすのに部屋にひとりきりで怪談を読み語るのなんて、ただの苦行である。続くかどうかわからない。しかし知景を差し置いていつまでもビビりなのは子どもっぽくて情けないし、なによりこうして親友が喜ぶ顔を見ていると、やる気が湧かないこともない。

「やった、やった! 知景、とっても楽しみにしてるから。がんばれがんばれあーこ!」

 知景は亜瑚の手を取って、ぴょんぴょんと飛び跳ねた。普段の動きがゆっくりな知景が、跳ね回っているところを見るのはかなりめずらしい。よほど嬉しかったようだ。

「落ち着いて、ちぃちゃん。足痛くなるって」

 と、亜瑚のほうがあわてて止めに入る始末だった。

「じゃ、また明日学校でな、朝、迎えに行く」

「うん、試験お疲れ様ね」

 ばいばい、と手を振り合って、玄関に続く階段を上がっていく知景の後ろ姿を見守っていた。

 そのときだった。

 矢庭に、さあっと冷たい風がふたりのあいだを駆け抜けていった。かと思えばその刹那、そんなわけあるはずがないのに、風に靡く知景の艶やかな黒髪が、遥か遠くに感じられた。

 生まれたときからずっと一緒の幼なじみ。知らないことなどなにもないほど、お互いを知り尽くしている親友同士。知景がフレンチクルーラーを好きなことも、知っているから選んだのだ。

 だけどさっき、吸い込まれそうな漆黒の瞳で亜瑚を射抜いて「鬼はいない」と断じた知景は、まるで見知らぬ人のようだった。

 そのことが不意に思い出されて、得体の知れない身震いが起きる。

「ちぃちゃん」

 思わず、大きな声で呼びかけていた。

 玄関の引き扉に手をかけたまま、知景がゆっくりと振り返る。


 ――鬼なんて、いないよ。それにあれは、夜にしか来ないから。


 冷たく静謐な声が一瞬、脳裏をかすめていく。けれど。

「なぁにー?」

 小首を傾げて問いかけてくるのは、ただいたずらっぽい笑みを浮かべた幼なじみだった。あまりにも見慣れたその顔を見ていると、鬼なんていないというあの言葉の意味を深く考えること自体が、無益なことのような気がした。ただ単純にちぃちゃんは、私を安心させたかっただけなのだ。うん、きっとそう。

「なんでもなーい。呼んだだけ。また明日な」

 知景にほっと微笑みかけながら、亜瑚はもう一度手を振った。


 もうひとつ、思い出したことがある。うんと幼い頃……あれはたしか、夏休みだっただろうか。亜瑚が知景の部屋に泊まったことがあった。

 その深夜、亜瑚はある恐ろしい体験をした。

 知景の部屋で起きたことは、いまだに現実かどうかもわからない。夢だった可能性もある。でもものすごく怖かったというのはよく覚えている。

 なにしろせっかく大好きな知景の部屋なのに、もう二度と上がりたくないと思ったほどなのだから。

 そんな記憶の奥底に眠る体験が、なぜいま急になって頭に浮かんだのかというと、あの夜、知景がさっきの見知らぬ人のような声を出したのを思い出したからだ。

 でも亜瑚が震え上がるほど怖い思いをした翌朝も、知景はけろりとしていて、そんなの覚えていないと言った。だから知景のあれは寝言だったのかもしれない。ただ、知らないことなんてなにもないほどよく知る知景のことのうち、あの日のことだけはいまだに謎だ。きっと永遠に、謎のままだろう。

 あのお泊まりの夜の出来事も、いつか実話怪談として語ろうか。語れるほどに、怪談朗読に慣れることができればいいけれど。それとも自分の口から語ってしまえば、案外平気なものかもしれない。


 そんなことを考えつつ、亜瑚は家路を急いだ。


 *


 西側へ連なる山端の向こうへと、すっかり陽が落ちきったあと。薄暗い家のなかを進み、知景は、やがてあらわれた二階への狭い階段を上った。

 階段を上り切ったその先には、窓もない長い廊下が続いている。月の光すら差し込まない深い闇だ。

 闇の端に足を浸しながら、幼なじみの亜瑚と成美のことを思う。

 春が来れば、大切な同い年の友人たちは、村を離れて、広い外の世界へと出て行く。そうしたらとうとう、独りぼっちだ。たまに彼女たちが村へ帰ってくるのを、この奥でじっと待つ、退屈な日々が始まる。


 ――ずっと待っているからね。ここで。


 長い廊下の先にある、自室の襖を引き開ける。

 夜の帳が下りたあとは、一晩この部屋に、独りで篭りきりとなる。


「鬼は外、鬼は内……」

 部屋の敷居をまたぐとき、だれにともなくひっそりとつぶやいた。

「私ね、いつの日にかこの場所にも鬼が来ないかなって、ほんの少しだけ思って待ってるんよ」


 鬼が連れてくるのは、「幸福」だけではないかもしれない。やっぱり「災い」なのかもしれない。けれど、間違いなく退屈しのぎにはなるだろう。それに知景は、なにも「怖い」とは思わないのだ。


「だからもしいつか【鬼】が来ても、私は追い払わないことにするね」


 ぉ……お……おぉ……


 向こう側で、黒々とした影がじっとこちらをうかがっている。その暗澹とした気配を感じながら、知景は襖をぴたりと閉じた。




【了】

第一章へ続く

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鬼妃秘記(キヒヒキ) 鉈手璃彩子 @natadeco2

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