第零章

【書籍発売記念特別編】鬼は外、鬼は内 (前編)

 中学校生活も残りわずかとなった三月。

 県内高校の入試を終えた前野亜瑚は、市内のホテルに一泊してから、父親の車で村へ帰ってきた。まだ雪のうっすら残る道を速度を弱めながら家の前の道にさしかかる。駐車場で、兄の一春かずはるが、娘で亜瑚の姪っ子にあたる星麗南せれなを抱きかかえて待っているのが見えた。そのとなりに、幼なじみの舘座鬼たてざき知景ちかげもいる。

「ただいま、星麗南」

 車を降りるなり、亜瑚は一春の腕に抱かれておとなしくしている星麗南に駆け寄り、白いほっぺたをぷにぷにとつついた。

「亜瑚ー、知景もぷにってしてー」

「なんでやねん」

 知景のあざといお願いに笑って突っ込みを入れながら、頬を軽くつねっておく。

「ちぃちゃん、私が帰るの待っててくれたん? 脚大丈夫?」

 知景は生まれつき足腰が弱いので、たまに歩くのがしんどいときがある。だが「全然平気」とその場でくるくると回転するステップを見る分には、今日は調子が良さそうだ。白いダッフルコートの裾から覗く細い脚も、同じぐらい白い。

「亜瑚、試験どうだった? 難しかったぁ?」

「微妙ー」

 適当な返し。高校入試を受けないため世の中の中学三年生と比べてのんびりとした日々を送る知景のことは、少し羨ましく思えてしまう。

「それよりお土産。ミスド買ってきたよ」

「やったぁ」

「とりあえず寒いから家入ろ」


 居間には亜瑚と知景しかいなくてがらんとしていた。一春たちはさっきお昼ご飯を食べてしまったところらしいので、ふたりでこたつに入ってドーナツの箱を開けた。どこにでもある有名な全国チェーンのドーナツだが、いちばん近い店舗まで車で二時間半かかるため、こういう機会でもなければ滅多にいただくことができない。今日は父が入試のご褒美にと立ち寄って買ってくれたのだった。

「亜瑚も成美も村からいなくなってしまったら、ちょっと寂しいな。知景はいったいなにして遊べばいいんやろ」

 フレンチクルーラーを手に取りながら、知景がぼやいた。村で同い年の三人の女の子のうち、瀬尾成美はすでに全寮制の高校への進学が決まっている。亜瑚も高校に合格すれば、春からひとり暮らしだ。中学卒業をきっかけに村を出る人は多いが、知景は身体が弱いので、進学も就職もせずに実家で家事手伝いをして暮らすことになっている。知景も本音のところでは亜瑚と同じ高校に行きたいと言っていたけれど、母の時子が首を縦に振らず、実現しなかったのだ。時子は娘のこととなると、やや過保護だった。

 ――こんな山奥の村、大自然以外なにもないし、そりゃあ寂しいはずだよね。

 オールドファッションを咀嚼しながら、亜瑚はさきほど知景のことを羨ましく思ってしまったことを反省した。それから知景がひとりでもできそうな暇つぶしを考えて、一春と知景はテレビゲームが好きで、よく一緒に遊んでいたことを思い出す。

「ゲームならいっぱいあるやん。ひとりでやるのに飽きたら、一兄かずにいに遊んでもらえばいいし」

「いつまでも一兄ちゃんには遊んでもらえへんよ。だって麻友さんも、せっちゃんもおるし」

「それもそうやね」

 知景の言うことはもっともだった。一春とその妻の麻友まゆの娘である星麗南は、この前二歳になったばかりでまだまだ手がかかる。よその子と遊んでいる暇はあまりなさそうだった。

「ちぃちゃん、一兄が結婚しちゃって寂しい?」

 あっというまにひとつ目のドーナツの最後のひと口を口に運ぼうとしている知景に向かって、亜瑚はふと尋ねてみた。知景は物心ついた頃から一春のことを一兄ちゃんと呼んで、慕っていたから、もしかしたらそういう気持ちも少しはあったんじゃないだろうかと思ったのだ。

 しかしもぐもぐしながら返ってきたのは、

「ううん、もう一兄ちゃんは子どもじゃないんやなぁってかんじー」

 という軽い返事だった。知景にはこういう少し天然なところがある。

「たしかに」

 亜瑚はあやうく吹き出してしまうところだった。


「私も高校行ってひとり暮らししたら寂しいなと思ってて。なんか新しい趣味ないかなって、いま開拓中」

 ふたつ目のドーナツに手を伸ばしながら、今度は亜瑚のほうからそう切り出した。ただこれは、あまり本気ではなかった。高校生活は部活も勉強も、想像するだけで楽しくて忙しそうだったからだ。ほかになにかをする暇があるのかどうか。けれど知景は、それを聞いてすぐに、なにか閃いたように、手を叩いた。

「じゃあ、またやったら? ラジオ」

「ああ、そういえばむかしやってたね、ラジオごっこ……」

 小学生の頃、FMラジオの真似をして自分でつくった台本を読んで録音したり、合間にオーディオプレイヤーでリクエストされた曲を流したりする遊びが、亜瑚のなかではブームだった。とはいえあれは知景が毎回おたよりを書いてくれて、そばで聞いていてくれたから成り立っていたわけであって、ひとりきりでパーソナリティを務める自信もモチベーションもまったくない。

「亜瑚は将来ナレーターになりたいんやんな。そしたらきっといい練習になるよ。知景もネットつながるから、どっか動画サイトに公開してくれたら聞けるし」

「でもなー……それって結局はひとりでやるんやろ? 楽しいかな?」

 あまり魅力を感じない亜瑚に対し、知景はやけに乗り気だ。

「それなら怖い話して」

「怖い話?」

 唐突だったので亜瑚は少し戸惑った。でもそういえば、知景はむかしから妙にホラーゲームが好きだったりするところがある。そこだけは自分と趣味が合わない。

「うん、そう。亜瑚が怪談の朗読をするの。絶対おもしろいやろ?」

 知景は目をキラキラさせてこちらを見てくる。

「そうかなぁ。ていうか、なんで怪談なの?」

「亜瑚の声って、怖い話するのに向いてそうやから」

「なにそれ。暗いってこと?」

「キレイってこと」

 綺麗な声が怪談を語るのに向いているという知景の主張はどうなんだろうと思いつつ、褒められるとまんざらでもないのが正直な気持ちだった。幼い頃から、声は母親似だとよく親戚に言われたもので、母の声が好きだった亜瑚は、それが密かに誇らしかったのだ。

「ためしに読んでみてよ。怪談」

 二個ずつドーナツを食べ終わったあと、並んでこたつに潜ってごろごろしながら、ふたりは亜瑚のスマホを使って怪談のサイトを漁り始めた。

「このお話がいい」と言って知景が差し出してきたページは黒い背景に白い文字で、だらだらと横書きの文章が書いてある。スクロールさせていくと、同じページの最下部でそのエピソードは完結していた。亜瑚はこういうのにあまり詳しくはないけれど、どうやら投稿者が実際に体験した怪談のようだ。

「【鬼のお面】」

 タイトルを声に出して読むと、知景がくすくすと笑った。

「いいねいいね〜」

「もぅ、茶化さんといてよ」

 ひとしきりふざけ合ったあと、亜瑚は咳払いをすると、きちんと座り直して、知らないだれかが体験したという、その話を、読み始めた。

「これは私がまだ小学生のときのこと。節分の日の出来事です――


 ***


 節分の夜って『鬼は外、福は内』の掛け声とともに、家の中から外に向かって、豆を撒く習慣があるじゃないですか。


 我が家もむかし、子どもの頃は毎年恒例でそれをやってまして。

 その年の節分の日も、そうでした。父が仕事から帰宅すると、豆撒き大会が玄関ではじまりました。たたきに下りた父が、スーパーで豆を買ったときついてきた厚紙の鬼のお面を被って、うおーっとかがおーっとか唸り声を上げながら襲ってくる真似をして、私と妹は父に向かって、豆を撒く役回りでした。

『鬼は〜外、福は〜内』

 と、私たちが唱えて豆を投げつければ、

『う、うわぁ〜』

 と父は、わざとらしくやられた声を出しました。

『鬼は〜外、福は〜内』

 私が手につかんだありったけの豆を、父に向かって容赦なくぶつけていたときでした。


 ばん、


 と玄関のドアをたたくような音がして、私は肩をびくっと震わせました。とっさに、妹をだきしめていました。

 一瞬、その場は緊迫した静寂につつまれました。

 けれどもさすがに父は落ち着いていました。「ちょっといまやめとけ」と私たちを手で制したあと、ゆっくりと玄関の扉に近づき、おそるおそるドアノブを回し、少し開けて隙間から外を覗きました。

 父はしばらく様子をうかがっていましたが、やがてそっと扉を閉め、鍵をしっかりとかけてから、落ち着いた声で私たちに言いました。

『大丈夫、なんでもない。風で木がドアに当たったんだ』


 節分の日の豆を撒く行為に、幸福を内へ招き入れ、災いを外へ追い出すという意味合いがあることは、子どもながらに私も理解していました。

 だからそのあと再開したとき、私はよりいっそうの祈りを込めて、『鬼は〜外!』と声を張り上げ豆を投げました。


 ところが。豆撒きイベントも終わり、家族が寝静まった、その日の深夜のことです。


 二階の子供部屋で寝ていた私は、不意に、ピンポーン、という家のインターホンの音で目を覚ましました。

 こんな夜中にだれだろう、なんだろう、と気になりました。が、なぜか両親も妹もまったく起きる気配がありません。

 ピンポーン

 ふたたび呼び鈴が鳴りました。

 しかたなく私は、ひとりで一階へ下りることにしました。

 いま思えば不思議なのですが、どういうわけか迷うことなく、吸い寄せられるようにして玄関へ近づいていました。

 まださっきの豆撒きの残骸が、たたきのところどころに落ちている、散らかった玄関。

 その向こう、一部すりガラスになった扉の向こうに、ぼんやりと黒いなにものかの影が見えました。

 その瞬間、低くかすれた小さな声が聞こえました。


『鬼は〜内』


 ――え?

 と思った私は、そこではっと我にかえりました。とたんに、自分がものすごい恐怖を感じてがたがた震えていることに気づいたのです。


『鬼は〜内……鬼は〜内……鬼は〜内……鬼は〜内……』


 抑揚のないどろっとした声が、ずっと一定の感覚で繰り返していました。

 私はもう、わけがわからなくなって、とりあえずそのへんに落ちていた豆を拾って、『鬼はぁぁぁぁぁぁぁぁ外ぉ!』と叫びながら、扉に向かって投げました。その瞬間、


 ばん!


 と扉が大きく開きました。

 そして、そこに立っていたなにものかの姿も同時にあらわになりました。


 ――鬼の面でした。


 厚紙でつくったちゃちなものじゃありません。

 茹で上がったタコのような真っ赤な肌に、凄まじい怒りの形相を湛えた、木彫りの鬼面。

 正真正銘、ほんものの鬼だ……と思いました。

 私は次の瞬間、ありったけの叫び声を上げて助けを求めながら家の奥へ逃げ込んでいました。

 背後では、

『鬼は〜内、鬼は〜内、鬼は〜内、鬼は〜内』

 と繰り返す不気味な声が鳴り響いています。

 いまにも捕まるんじゃないかと、恐怖に頭のなかを埋め尽くされながら、二階への階段を駆け上がったときでした。

『おいどうした、大丈夫か』

 という声がしました。

 なにごとかと、父が様子を見に来てくれたのです。

 涙で顔をぐちゃぐちゃにしたまま、私は父の胸に飛びつきました。そして階下を指指差して、一心不乱に訴えました。

『鬼が、鬼がぁ……そこに』

『悪い夢でも見たんだろ』

『ほんとにいたんだよ、鬼のお面が……』

 しかし、父に抱きかかえられるようにしてふたたび玄関に戻ってみると、鬼の面は影も形も見当たらなくなっていました。

 ただ、父がかけたはずの扉の鍵はたしかに開いていて――」


 ***


 ばん!







【後編へ続く】

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