第7話 りんごの行方
本来湧いていいはずの怒りは湧いてこなかった。代わりに、虚しさと、初めて会った時の彼の笑顔……
そう、笑顔。にっかりと笑った顔を思い出して、ついでにもらった物のことも思い出した。スマホケースに挟み込んでおいた名刺を取り出して、裏返してみる。
『8/5~9/30』
もう、十月に入っている。すっかり忘れていた。どうしよう――
再び途方に暮れていると、カフェのドアが開いた。マスターが顔を出して、私の手の中の名刺に気付く。裏返しているので、彼には表側が見えているはずだ。
「ああ、なんだ。コージ君の」
「えっ」
「彼は期間限定だったから、すまないねぇ。客としてはそのうち来ると思うんだが」
「え、いえ。あの……そう、ですか。約束してきたのにいないから、びっくりしちゃって。電話にも出てくれないので、次に会ったら、バカヤローって言っといてください」
「約束?」
話し始めたら、なんだかムカムカとしてきたので、ケーキの箱をマスターに差し出した。
「リクエストされて作ったんですけど、良かったら召し上がってください」
にっこりと笑ってやれば、マスターはちょっと驚いてから笑い出した。
「あー。なんか行違ってるようだね。約束があったのかい? ちょっと入って待ってるといいよ」
「え?」
不思議に思いながらも、マスターについて店に入る。カウンターの端を示され、レモン水を出してくれて、彼は奥へと引っ込んでいった。
どういうことだかさっぱり解らない。
しばらくして戻ってきたマスターは、カウンターの中でグラス拭きなんかを始めてしまった。
注文とかした方がいいのかな?
メニューを眺めている間に、ドアベルがガランと大きな音を立てた。入ってくる気配のないその客を振り返ると、気まずそうな瞳とかち合う。こいこいと手招きされてマスターを窺えば、にっこりと微笑んで頷かれた。
お礼を言って席を立つ。
「――どういうことですか?」
不機嫌が滲むのは、しょうがない。外に出ると、東雲さんは「いやぁ……」と頭を掻いた。そのまま私を促して、カフェの隣の入り口からビルの中へと入って行く。
「すっかり、言ったと思い込んでて?」
「何をですか? 電話にも出ないし」
「スマホは家に忘れてきたんだ……っていうか、置いてきた? 邪魔を入れたくなかったっていうか……」
後半のごにょごにょしたところはよく聞き取れなかった。
どうでもよかったので、聞き返すことはしない。
東雲さんはエレベーターで二階に向かい、奥側のドアを開ける。
「仕事部屋、というか、監禁室っていうか。あんまり人を呼べるとこでもないんだが……まあ、コーヒーくらいは淹れられるし、旨いのが良けりゃ、下から出前してもらう」
一歩立ち入って、息が止まった。
壁一面ぎっしりと詰まった本棚に、大きめの机が一つ。ノートパソコンが一台乗っていて、机の半分くらいは紙類だった。窓際にはプリンター。机の前には応接用のテーブルとソファがあって、そこに座れとジェスチャーされる。
言う通りにしてみれば、既視感。本棚に打ちっぱなしのコンクリートの壁、そして、ドア。あの動画に映っていた景色だ!
「……電話、ないのにどうやって……」
もう少し部屋を見回してみれば、机の上の紙類に半分埋もれて受話器が置いてあった。
「下のカフェの子機。電波届くから内線代わりに貸してもらってる。修羅場中は立ち上がる暇もねぇ」
そう言いながら、彼は机の上の一枚の紙を取り上げた。
「これ……新刊でカットした部分をうまい具合に纏めたもんなんだけど……手付金代わりに、ならないか?」
A4用紙一枚分の『西雲 空』の未発表SS?!
もやっとした気分もふっとんで、私は勢いよく立ち上がり、それに飛びついた。
あ、と思った時は遅かった。東雲さんの手は高く上げられ、私は彼の胸に飛び込む形に。
「契約成立な?
にっかりと笑う姿に、少々の敗北感を感じつつも、私は仕方なく……うん。仕方なく頷いたのだった。
# 迷子と林檎 おわり #
迷子と林檎 ながる @nagal
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