第3話 信号はりんご色

 ぺろりと平らげて満足そうな少年に、もう一杯ジュースを入れてあげる。

 おしぼりで口を拭いてあげていたら、東雲さんが戻ってきた。


「コウキ、妹にもアップルパイ持っていくか?」

「これ? ……おいしいけど……リンゴだけど……」


 じっと皿を見下ろしてから、コウキ君は首を横に振った。


「ちゃんと、リンゴじゃなきゃ!」

「そうかぁ。な、ちょっと、リュックの中見せてもらえるか? 下ろしてもいいんだぞ?」

「……だめ!!」


 ずっと背負いっぱなしのリュックに伸ばされた手を慌てて避けて、コウキ君は椅子から飛び降りる。


「だいじなものはいってるの!」

「見るだけなんだけどなぁ」

「ダメったらダメ!」


 真剣に逃げるコウキ君と、意地悪な笑みでわざとゆっくり追いかけまわす東雲さん。なんだかなぁ。もう。

 やめなさいよ、と止めようとして、入り口のベルの音に顔を向けた。


「あづぅい! 航路こーじ、アイスコーヒー! ……って、あら?」


 額に汗して入ってきた東雲さんの従姉妹、「くるみさん」が足元をすり抜ける子供に驚いて目を丸くした。


「あっ! 馬鹿! おいっ、捕まえろ!」

「え? なに?!」


 捕まえろと言っても、もうコウキ君はそこにはいない。くるみさんには何のことかもわからないだろう。焦った声の東雲さんがポケットからスマホを取り出すのを横目に見ながら、何をしてるんだと私は彼を追いかけた。お母さんの所へ帰るならいいのだけど、たぶん、彼はまだりんごを探してるし、来た道を覚えていない。闇雲に飛び出して、事故にでもあったら……!


「コウキ君! 待って!」


 慌ててその場から飛びのくくるみさんに、視線だけで挨拶して店を飛び出す。右と左を確認するけれど、小さな体はすぐには見つからなかった。渡ってきた横断歩道の方には見当たらない。反対……と、通行人の間に目を凝らす。リュックと同じ青い色が見えて、確かめる前に走り出した。


「コウキ君!」


 呼んでも青色はちょこまかと人の間を縫っていく。半分くらい距離を詰めたところで、次の交差点の信号が赤になった。追いつける! と、思ったものの、目指す青いリュックは止まらなかった。動き出す車に肝を冷やす。


「待って――」


 立ち止まる人たちを追い抜いて、私も交差点に飛び出そうとする。


「――あんたもだよ!!」


 けたたましいクラクションの音と共に、突然後ろから腕を引かれて身体ごと少し上を向いた。目の前を大型トラックが横切って、風がスカートを巻き上げる。咄嗟に掴まれてない方の手で押さえたけど、当然バランスなど保てるはずもなく、勢いのまま後ろへと倒れ込んで、誰かに抱き留められた。

 ほんのり、コーヒーの香り。


「あー……。間に合わないかと思った……」

「し……しの、のめ……さ」


 ようやく状況を理解して、心臓がばくばくと打ち始める。もう一歩出ていれば、あのトラックに引っ掛けられていたかもしれない。


「あ、あり……ありがと……」


 うんうんと頷いた東雲さんは、小さく息をついた。


「焦んのもわかるけど、ちゃんと周りも見ろ。全力ダッシュなんて久しぶりにしたわ」


 体を起こされ、少し見上げた東雲さんは肩をすくめていて。でも、そんなに焦っていた様子はない。息は少し上がっているけど、いつものように飄々としている。


「まだまだ余裕そうですけど」

「んなわけないだろ。膝が笑ってるわ」


 指差すので見下ろしてみる。わざとらしく膝をカクカクされても、余計に信憑性がなくなるだけなんだけど。

 ありがたみが薄れるなぁ。もう。

 なんと返したものかと呆れながら視線を戻せば、気付いた東雲さんが口を尖らせた。


「なんだよ。その顔。ほんとだって。なんでみんな俺を信じないかなぁ。ほら」


 言いながら、今度は私の頭に手を伸ばして、そのまま彼の胸に押し付けた。

 びっくりした、その鼻先で、ほんのりコーヒーの香り。


「早すぎて、止まりそうだろ?」


 ものすごく近くで響いた彼の声に重なって、どっどっどって振動が伝わる。

 確かに、そう、だけど……

 自分の心臓も、何故か段々同じリズムになっていくようで、顔が熱くなる。

 あれ。ちょっと待って。違うよね? これは、そういうドキドキじゃない、はず。ほら、私は、コウキ君を追いかけて……

 バッと東雲さんを押しやるようにして、我に返る。


「あ、やべ。セクハラだってまた怒られる」


 私はその声をできるだけ無視して、振り返った。


「コウキ君!」


 けれど、横断歩道の先に、もう青いリュックはどこにも見えなかったのだった。



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