迷子と林檎
ながる
第1話 りんごりんご
りんご りんご。
どこにあるか、ぼくしってるよ。
えっとね、いつもおやつをかってくれるとこ!
くるときに、くるまのまどからみえたもん。
オレンジのかんばん、ちゃんとおぼえてる!
# # #
隣町に通うのは、もう終わりになると思ってたんだけどな。
アップルパイを焼くのも、もうしばらくはしないと。
午前中に焼き上げたアップルパイは、電車の中でもバターの香りをふりまいていた。お昼は奢ってもらおうと目論んだので、自分のお腹が鳴りそうになる。
勝手知ったる駅を出て、通い慣れた道を進む。別れた彼氏とよく待ち合わせをした、レトロな喫茶店(店名もレトロという)を通り越して、次の交差点を左に入れば、目的地のカフェが見えてくる。
結局ここにも週一くらいで通ってしまっていた。
残暑の日差し厳しい中、信号待ちをしていると、手に提げた紙袋をじっと覗き込む小さな頭が目に入った。
その頭は信号が変わっても動き出す気配を感じさせなかった。小学校にはまだ上がっていないだろう。ちょうど私の手の高さと同じくらいに頭があるので、動き出せばぶつかってしまいそうだ。
「……信号、変わったよ?」
話しかけてみれば、その子は驚いたように顔を上げた。
ファスナーにライダーのキーホルダーがついた、青いリュックを背負った男の子。キリリとした濃い眉毛にくりくりと丸い目。はつらつとした印象とは反対の、柔らかでさらりとした髪。彼は私を見上げてぽかんと口を開けると、そのまま固まってしまった。
最近は、あまり話しかけると不審者だと通報されかねない。にこりと笑って、そのまま歩き出した。同じく信号待ちをしていた人々が一斉に流れ出す。生地は薄いけれど、やっぱりロングスカートは外では暑いもので、大股でついつい早足になってしまう。
『カフェ Sky』のcloseの札がかかっているドアに手をかけたところで、パタパタと誰かが駆け寄る気配がした……が、気のせいだったようだ。
振り返れば、腕に上着をかけたサラリーマンが早足で通り過ぎていく。
店の前の花壇の縁に、カラスが一羽、首を傾げてこちらを窺っていた。都会のカラスは頭がいいから、ぼんやりしていると、手にしたコンビニ袋を奪い取られたりもするので要注意だ。
カラスと視線を合わせたまま、紙袋を少し身体の影に入るようにしてドアを押し開けた。
冷房の冷えて乾いた空気が頬を撫でて心地いい。
「来たよー。あつーい」
「おーぅ。ごくろうさ……ん?」
緊張感のない声を出した東雲さんが、カウンターの向こうで立ち上がって、何故かその視線が私を通り越して後ろへと注がれた。何事? と振り返っても、特に何もない。
「何ですかもう。意味深なことしないでくださ……」
「いや、それ」
反対に首を回してようやく、私は手にした紙袋を覗き込む少年を視認することができた。ちょこまかと動き回る彼は小さすぎて、私の死角に入り込んでいたようだ。
「ねえ、これ、りんご?」
「テリちゃんの子? 弟? 甥っ子、ちゅーのもありか?」
「いっぺんに喋んないで」
どれに答えようか一瞬悩んで、とりあえずしゃがみこんで少年に視線を合わせる。
「君ひとり? お父さんかお母さん、一緒じゃなかった? これが気になってついてきちゃったのかな……」
「ぼくね、りんごをかいにいくの!」
「えっと……おつかい、ってことかな?」
ありゃりゃと苦笑する。
アップルパイを入れた箱には、出来心でリンゴのシールを貼っていた。それで中身がりんごだと思ったのかもしれない。
「これはね、りんごじゃないんだ。りんごのケーキっていうか……どこに買いに行くつもりだったの?」
首を傾げる少年に、前途多難だと乾いた笑いが出る。
「えっとね、ママがおやつかってくれるんだ。くるまでみたよ。オレンジのかんばん」
正直、喫茶店よりこちら側はそれほど詳しくない。東雲さんを仰げば、彼も少し困り顔をしていた。
「オレンジの看板のスーパーは、子供の足じゃちょっと遠いな……案内の看板だけ見たのかもな」
そんな場所へ子供一人でおつかいに出すとは思えない。
「どこから来たの? おうちは……遠い?」
「あっち! ママとばあばとくるまできたの! そんでね、いもうとにりんごをたべさせてあげるんだ!」
少年が指差したのはカフェの出入り口で。
東雲さんは「こりゃだめだ」と暢気に笑い声をあげた。
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