第3話 冷やし中華は好物だと思い出した

 べたついた汗や汚れをシャワーで流し終えた環流は、波未が用意してくれた上下の運動着に身を包み、案内された畳の部屋にお邪魔する。

 流石に下着はまた同じグレーの海パンを履いているが。汚いのは重々承知だ。


 環流の後に、波未も体を流していたのでその姿はシャツに緩めのボトムスというラフな格好に変わっていた。


「よかった、着れたみたいだね」

「ああ、複雑だけどな……」


 借りた運動着は学校指定の体操服なのだろう、左胸のあたりに「芦水」と記された名札がアイロンで貼られている。

 しかし、女性の服が着れてしまうというのは幸か不幸か……。

 海パン一丁から解放されたことは喜ばしいことだが、その代わりが女性の、しかも同じ年ごろの波未の服が着れてしまうことというのは虚しい気がする。


 波未の身体が太っているからとか、女性にしては背が高いとかいうわけではなく、むしろ波未はすらっとした細身の身体であり、背もそこまで高いわけではない。

 問題なのは環流の方で、もともと痩せ気味だったと思われる体形に、どのくらいかは分からないがしばらく食べ物を口にしていなかったせいで腹回りが引っ込んでしまっていたのだ。


 身長に関しても、環流は百六十五センチほどしかなく波未と比べても少し高い程度で、冷静に考えれば波未の服が着れるのも納得なのだが、それでももやもやはしてしまう。

 特に、足が短いせいで短パンの裾が膝を若干隠してしまっているのがどうにも悔しい。


「あとでちゃんとした洋服探してくるから我慢してよ」

「いや、文句があるわけではないんだけどな。それより、お前はいいのか? 男に服なんか貸して」

「家の中に変態がうろついてるみたいになるよりはまし」


 どうやら苦肉の策だったらしい。

 波未自身が上半身裸の男に耐性がないというよりかは、家の内観にふさわしくない姿をしてほしくないという気持ちのほうが強そうだった。


 それもそのはずで、そよ風が通っていく、さわやかな気分にさせてくれる木造の部屋で海パンでいるほうがいたたまれなく思いそうなのだから、それを視界に入れるのだって同じだろう。


 複雑な思いで借りた体操着だったが、一ついいこともあった。

 服にしみ込んだ香りがとても甘い匂いで、これが目の前の可愛らしい少女のものだと思うと得した気分になれる。

 ここまでしてくれるだけで十分得はしているのだけれど、それとはちょっと違うベクトルのものだ。


 すんすんともっと素敵な匂いを取り込もうとすると、脳天を手刀で叩かれ、咎められた。


「結局、変態は変態なんだね」

「すいません……」


 藍色の瞳をジトっとさせる波未。

 よくないことをしているという自覚はあったので、環流は素直に頭を下げた。

 まったく、と軽くため息をついた波未は畳の上に敷かれた座布団を指さして、


「座って」

「? ああ」


 環流は言われた通りに座布団に腰を下ろす。


「脚伸ばして」


 断る理由もないので、両手を畳につかせて体が倒れるのを抑え、脚を伸ばす。

 すると、続けて正面に波未が正座で座った。

 背筋を伸ばして姿勢よく座る波未は、どこからか持ち出していたリント布を細かく切り、薬を塗ると、


「ちょっと染みるかもだけど、我慢してね」


 皮がめくれてしまっている箇所よりも一回りだけ大きく切り取られたリント布を患部にあてがい、テープで止めてくれる。

 確かにほんの少しひりっとしたけれど、一瞬でその感覚は消えたので耐えるのは容易かった。

 両足合わせて、計四か所の皮がめくれてしまっていたわけだが、優しく手当してもらえたおかげですぐに治ると思う。


「一応手当はしたけど、悪化するかもしれないからあんまり走ったりしないでね」

「ありがとな」

「どういたしまして。それじゃあ、お腹も空いてることだろうし、お昼にしよ」


 手当の際に使った応急道具を片付けると波未は、立ち上がり、「まってて」とだけ言い残して畳の部屋をあとにした。


 何から何まで悪いなという気持ちがあるが、せっかく親切にしてくれてるのだからありがたくその恩を受け取ろうと思う。

 むしろその親切を無下にすれば、玄関先で足の裏の皮が剥けていたのを隠したときみたいに不服そうにするかもしれない。


 敷かれた座布団の上で態勢を変えて座りなおすと環流は、広々とした畳の部屋を見渡してみる。

 家の周りが緑で溢れているからか、気持ちのいい風が通るこの部屋はまったくといっていいほど生活感がなかった。

 中央に三人くらいで囲むのが丁度よさそうな円形のテーブル。先ほど波が応急道具を片した等身大くらいの棚。他には、今環流が座っているものを含めて三枚の座布団がテーブルの周りに敷かれているだけ。


 ここ以外にもいくつか部屋があるようだったが、環流が見た限りではそのどれもが使われていなさそうに見えた。本当にこの家に波未は住んでいるのかと疑いたくなるレベルで。

 座布団が三枚あるということは、三人で住んでいるのかと予想したが、にしてはあまりにも閑散とし過ぎている。


 そんな釈然としない疑問に首を傾げていると、波未がおぼんに二人分の食事を乗せて運んできてくれた。


「冷やし中華だけど、好き?」

「ああ、多分」


 円形のテーブルに置かれた、色とりどりの野菜に彩られ、醤油の香りを漂わせるタレに浸された冷麺。

 拒否反応はない。むしろ、お酢が含まれているのだろうか、真夏日にふさわしいすっきりとした香りは環流の食欲をそそった。


「多分って?」

「記憶がないからな。冷やし中華が好きだったかどうか覚えてないんだ」

「あー」

「でも、香りで分かる。多分好物だ。食べていいか?」

「どうぞ、召し上がれ」


 許可がでたので環流は「いただきます」と両手を合わせ、箸を手に取り、タレが良く染みた麺をすすった。

 その味は感動を覚えるほどだった。

 極限まで腹を空かせていたのもあるかもしれない。しかし、それを抜きにしても美味だと言わざるを得ない。


 タレにはレモンの果汁でも加えているのだろうか、醤油とお酢だけでは生み出せないようなフレッシュな風味が、つるつるとすすれてかつもっちりとした食感の麺によく絡みついていた。

 キュウリやトマトなどの野菜も、どれも新鮮で瑞々しかった。これが島の味というものなのだろうか。

 環流はあっという間に胃の中に収めてしまった。麺を浸していたタレも含めて。


「好物だった?」


 波未は小さな笑みを浮かべて、「ご馳走様でした」と箸を置く環流に問いかける。


「ああ。お前が作った冷やし中華が有無も言わさないほど美味かったというのもあるが、間違いなく好物だ」

「それはよかった」


 やがて、波未も食べ終えると、ふと思ったかのように聞いてくる。


「ね、記憶がないってどんな感じ?」

「いきなりだな」

「気になっちゃって」


 答えたくなければいいよ、と付け足す波未だが、別に答えたく理由などないのでありのままを話すことにした。


「さっきの冷やし中華を例にすると、冷やし中華という食べ物の存在は覚えているけどそれに関する俺自身の記憶がないって感じだな」

「ブランコっていう存在は覚えているけど、それで実際に遊んだ記憶とかはないってこと?」

「そういうことだ」


 例えで表現した自分の現状を、首を傾げながらまた別の例えで表現する波未。

 環流が頷いたことで納得したようだ。


「なるほどね。──じゃああたしとは違うか」

「え?」


 消え入るようで、でも確かに発せられた言葉を環流は聞き逃さなかった。


「違うってどういうことだ?」


 環流の問いかけに、波未は部屋の天井を仰ぐようにどてんと身体を倒すと、


「あたしもないんだよ。記憶」

「そうなのか?」

「うん。環流ほど重傷じゃないけどね」


 突然の告白に、環流は驚きを隠せなかった。

 記憶を失い、彷徨った先で出会った少女もまた記憶を失っていたなんてことがあり得るだろうか。

 確率的にはほとんどゼロに近しいと思う。


 でも嘘を言っているようには見えない。環流が記憶喪失であることに一寸たりとも疑わなかったのは、波未もまた記憶がないから、というのもあったのだろう。


「何もかも忘れちゃって、右も左も分からないってわけじゃない。でも確かに、子供のころの記憶にぽっかり穴が開いたような感覚があるの」


 天井を見上げているはずの波未だが、その瞳は底が見えないほどの昏い青に変わっていて、目には映らないような何かを見つめているように見えた。


 そんな波未にかけられる言葉を見つけることが出来ず、しばしの静寂が流れると、よいしょと波未は身体を起こして立ち上がる。


「まあ、だから何って言われたら特にないんだけどね。ごめんね、急にこんなこと」

「謝ることじゃないと思うが」

「んー、でもなんとなく」


 食べ終えた食器をおぼんに乗せ、台所の方へと運んでいく波未。


 視界から遠のいていくその背には、埋めようのない空虚さをまとっていたような気がした。

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