第2話 お前は天使か?
しばらくの間、微風に揺らさせる蒼いシュシュで纏められたポニーテールのあとについていくと、木々の中にぽつんと構える木造建築の二階建ての家屋に辿り着いた。
緑色の草木で囲われた、広めの庭を備えるその家からは風情を感じる。
環流はグレーの海パンだけの痴態でここまで歩いてきたわけだが、奇跡的になのかそれとも波未がわざわざ道を選んでくれたのか、人とすれ違うことはなく一先ずほっとした。
前を行く波未が「こっち」と手招きをするので、敷地に足を踏み入れ、ついていく。
家の玄関は簡素な造りで、波未が引き戸を開けるとガラガラと予想通りの音が鳴った。
「帰ったよ」
波未は玄関をくぐると、ローファーを雑に脱ぎ捨てながら帰りを告げる。
玄関にはたった今放られた波未の靴しかなく、家の中も静まり返っていて、誰かいるような気配はなかった。
なので、それが誰に告げられたものなのか分からなかった。
「誰かいるのか?」
「ううん。今は誰もいないよ」
「? でも今帰ったって──」
「癖なの。気にしないで」
そう言われてしまえばこれ以上深追いすることはできない。それに加えて少し波未の表情が曇ったように見えたので、なんとかその先に出かけた言葉を環流は飲み込んだ。
(どうしたんだ……?)
しかし、
「上がっていいよ?」
玄関で立ち尽くしていた環流に波未は、いつもと変わらぬトーンで声をかける。曇ったと思った表情は気のせいだったのかもしれない。
「汚れちまうけどいいのか?」
文字通り海パン一丁の環流は裸足で島を彷徨っていたので、足の裏は土に染められているに違いない。
このまま上がってしまえば当然、家も汚れてしまう。
環流が足元に目線を落とすと、何が言いたいのか理解した様子の波未は、
「あー、ちょっと待ってて」
玄関の上がり框に目配せして、「そこ座ってていいから」と言い残すと、家の奥に消えていった。
お言葉に甘えて腰を下ろす環流。なんだか、ようやく一息付けたような気がする。
ふと、どのくらい汚れてしまったのか気になって、右足を左の太ももに乗せ足の裏をのぞいてみた。
(うわ、皮剝がれてるじゃねえか……)
ここにくるまで痛みなどは感じていなかったのだが、踵と母指球の皮が剥がれていた。
恐る恐る傷口に触れてみると、ひりっとしたのでどうやら知らぬ間に痛みを我慢していたみたいだ。
恐らく、見知らぬ場所で記憶も失っていたのでそれどころじゃないといつの間にか打ち消されていたのだろう。
「背中丸めてどうしたの?」
水に濡らして絞ったタオルを手に戻ってくる波未。
足の裏を拭くために用意してくれたみたいだ。
「いや、なんでもない」
波未に気づかれてこれ以上余計な迷惑をかけるわけにはいかないと、環流はごまかしの言葉を返した。
しかし、これから足を拭かせてもらうのだから、そのままの姿勢でいればよかったのだが、波未がのぞき込もうとしてきたので反射的に右足を地に下ろしてしまう。
「いてっ」
しまったと思った時にはもう声に出ていた。
ここに来るまでは意識の遥か外だったために気づかなかったが、一度意識を向けてしまえば嫌でも痛みは感じてしまう。
「足の裏、見せて」
「はい……」
こうなってしまえばもうごまかすなんて無理なことである。
大人しく環流は言うことを聞いて、目の前に屈んだ波未に足の裏を向けた。
皮が剥けて、痛々しいそれを見た波未は目をしかめて、
「怪我してるけど?」
「そうみたいだな」
「なんで言ってくれなかったの?」
「俺も今怪我してるって気づいたんだ」
嘘は言っていない。が、一度ごまかそうとしてしまったためか、波未は「ふーん」とあまり信じていなさそうな表情をする。
「ま、いいけどね」
波未は手に持っていた横長のタオルを二回畳んだ。
そして、環流が向けている足を華奢な左腕で抱えて、汚れを拭い始めた。
「お、おい。それくらい自分で出来るぞ」
異性にお世話されているこの状況は、ちょっとむず痒い気持ちになる。
「いいから」
しかし、環流の心中などいざ知らず、波未は足の裏の汚れを拭き取ってくれた。皮が剥けてしまっている箇所には触れないようにしてくれているところに、彼女の気づかいを感じる。
片方の足を拭き終えると「反対も」とだけ言って、左右反転させる波未。
淡々と反対の足も拭ってくれるその姿は、まるで泥だらけになって遊びから帰ってくる子どもの面倒を見る母親のようだった。
その場合子供は環流ということになるが、それにしては育ちすぎてしまっているし、波未も母親というのには流石に早すぎるのだけども。
「はい、綺麗になったよ」
立ち上がりながら、汚れの除去が完了したことを告げる波未。
「ありがとな」
「別にいいよ。それより、足まだ痛むかもしれないけどシャワー浴びてきなよ。その後で手当てしたげる」
「流石にそこまでは悪いって」
これ以上の恩を受け取ってしまったら、何も返せるあてのない環流はどうしようもなくなってしまう。
そう思って遠慮したのだが、波未はなぜだか不機嫌そうだ。
「命令」
「は?」
「これは命令だから。はやくシャワー浴びてきて」
「おう……」
なんだか波未の思うが儘な気がしなくもないが、そこまで言うのならと命令に従うことにする。
親切心だということは分かるのだが、なぜそこまで見ず知らずの人間によくしてくれるのだろうと不思議だった。
風呂場に案内してくれる波未のしなやかな背には、もしかしたら天使のような白い羽が生えているのかもしれない。
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