第1話 気づいたら島にいた
「クソあちいな……」
少し色素が抜けた黒髪の少年──
季節はまごうことなき真夏そのもので、海岸沿いを歩く環流の半色の目には日光を反射させる青藍の海が広がっている。ささやかに吹く風によってさざ波が立ち、上空を数羽の白鳥が円を描くように翼を伸ばしていた。
こんな、偉大な画家によって描かれたような大自然の景色を前にして、目を奪われないものはいないだろう。
──ぎゅるるるる。
白鳥が舞う姿を見上げていた環流の腹が鳴る。なんともだらしないその音は、腹の空き具合を如実に表していた。
見とれていたはずの白鳥にすら、焼き鳥にして食べてしまいたいなどという食欲を覚えてしまうほど。
島の隅にある木陰で倒れていた環流は、気が付いてから何も口にしていない。さらにこの炎天下である。体がエネルギーを求めるのも当然の事だった。
しかし、環流はこの島のことはもちろん、自分のことすら分からない。
覚えているのは名前だけ。しかもそれが正しい名前であるのかも定かではない。
というのも、気を失っている間に誰かがそう呼び掛けてくれたような気がしたのだ。そんな曖昧なことで、とは思うが、かといって記憶のない環流にとっての自分の名前は環流でしかないのである。
記憶を失ったものの、不思議と不安はなかった。誰かが見守ってくれていると、そんな気がしたから。
自分の腹が悲鳴を上げていると気づいた環流はどうにか食糧にありつけないかと、あまり長くはない脚を動かす。
いざとなったら道端の得体のしれない雑草すら口にする覚悟だ。
そんな些細な覚悟を決め、ふと海辺のほうへと見やると、島の住民だろうか、服を着たまま砂浜の上で寝転んでいる少女の姿があった。
寝転んでいたという表現はあまり的確ではないかもしれない。
少女を軽く飲み込んでしまうくらいの波が打たれる。波が引き、海水に濡らされる少女だが何の反応も示さなかった。
(溺れてんのか……!?)
嫌な気がした環流は、ついさっき腹を鳴らしたことなど忘れて少女の下へと駆け寄った。
人の命に比べれば空腹なんてちっぽけなものなのだ。
「おい! 大丈夫か!?」
少女のすぐそばまで行き屈み込むと、わざと大きめな声で安否を問うた。しかし、返事はない。
蒼色のシュシュでまとめられた、発色のいい胡桃染のポニーテールや、整った目鼻立ちをした顔には、波に打たれたせいかじゃりじゃりとした砂がひっついてしまっている。
さらに言えば、この島の学校のものだろうか、白を基調としたセーラーの制服は海水を含んでしまいうっすらと下着が透けてしまっていた。
ぱっと見の年齢にしては、少々子供すぎるのではと思ってしまう苺柄の下着だったが今はそれどころではない。
(生きてはいるみたいだな……)
時々すーっという呼吸音が聞こえたので、死んでしまったわけではないと思うが、こんな波打ち際に寝かせておいていいわけもなかった。
環流は自分が濡れることを意に介さず、少女の細身の身体を抱き上げ、ひとまず波が届かない場所まで運んでやる。
コンクリートでできた堤防の壁にいったん少女の背を預けさせると、折角の綺麗な顔を汚す砂を払ってあげた。
今いる島がどこなのかも分からない、記憶を失ったまま目覚めた環流が都合よくハンカチなどの布を持っているわけもないので、直接手で砂を払うわけだが、その時触れた少女の肌は汚れているのにも関わらずしっとりとした感触だった。
閉じている目を縁取る、長い睫毛にも砂がついてしまっているのに気づいた環流は人差し指で、そっと取り除いてやろうとする。
そして、指が砂を取り除こうとしたとき、一滴の雫が少女の目尻から落ちた。
海水が滴っただけかもしれない。しかし、にしては幾分か冷たかったように思う。
人差し指の第一関節あたりに乗っかった雫の冷たさの理由を考えていると、少女は「んんっ……」とゆっくりと瞼を持ち上げようとした。
ひとまず目覚めてくれて良かった、と環流は安堵する。
「……あれ、あたしどうして……」
まだ視界がぼやけているのか、目をぱちくりとさせる少女。
図らずに睫毛についていた砂を落とす少女の双眸は、海の底のような藍色を宿していて、どうにも引き込まれてしまいそうだった。
「そこの浜辺で倒れてたからここまで運んだんだ」
「浜辺……ああ、なるほどね」
「気分が悪かったりしないか? といっても俺に出来ることはないが……」
環流は苦笑いをしながら問いかける。
「へいき。寝ちゃってただけだから」
ようやく両目の焦点が合ってきたのか、少女はうろきょろと辺りを見回す。
そして、少女の目の前で片膝立ちをする環流に視線が向けられた。なぜだか「うわぁ……」と卑しいものを蔑むような目で見られた気がするが、多分何かの間違いだろう。
「寝ちゃってた?」
「そ、いつの間にかね」
「どうしてまたそんなところで」
「どうしてって、気持ちよかったから。とっても解放的で」
どうやら環流が心配したように溺れていたわけではなさそうだった。
だが、いくら真夏日だとはいえ眠った身体に海水を被るのは良くないと思った環流は忠告をする。
「お節介かもしれないが、寝るにしてももっと海から離れたところの方がいいと思うぞ。日光が乾かしてくれたが、俺がお前を見つけたときはびしょ濡れだったんだからな」
「だね。下着がじめじめしててちょっと気持ち悪い」
うへぇと不快感を漏らす少女は、目の前に年頃の男がいるというのに胸元を引っ張り、湿り気を追い出そうとする。
決して大きいわけではないが、しっかりと線ができるくらいの、苺柄が覆っているとは思えない谷を見せられた環流は思わず目を反らした。
少女は気付いていないようだが、環流の自制心が見てはいけないと警告していたのだ。
「ありがとうね」
依然と目を反らしたままの環流に感謝をする少女。
「……なにがだ?」
「助けてくれたんでしょ? 危ないと思って」
「まあな」
「だから、ありがとう」
少女は立ち上がり、制服のスカートについた砂をさっと払う。
環流も立ち膝をやめ、それに倣った。
「なみ」
「へ?」
それだけではとても何のことか分からず、素っ頓狂に漏らしてしまう。
「あたしの名前。波風とか波長の波に、未来の未で
「あ、ああ。名前か」
「苗字は芦水。合わせて
マイペースにも、急に名乗った波未。
どうして今とは思ったが、名乗られたなら名乗り返さなければと環流は、
「俺は灰原 環流。環状線の環に流れるで環流だ」
「環流、か。環流はどこから来たの? 初めて見る顔だけど」
環流は回答に困った。というのも、答えようがないからだ。気づいたらこの島にいて、覚えていたのは名前だけだったのだから。
かといってごまかすのも気が引けるし、ごまかせる自信もない。
諦めて環流はありのままを話すことにした。変に思われてしまうかもしれないが、そのときはそのときだ。
「それが分からないんだ」
「分からない?」
「ああ。目覚めたときにはこの島で、それより前の事は何一つ覚えてない。名乗った名前も、なんとなく気を失っているときに見た夢のようなものの中で、そう呼ばれた気がするってだけで本当の名前かどうかも分からない」
変人扱いされてしまうだろうか、気味悪がられてしまうだろうか。どうしてもそんな思考をしてしまう。
もし環流が逆の立場なら、そこまでは思わないと思うが理解を示してやるのは少々難しいと思う。もちろん親身にはなってやりたいと思うが。
しかし、波未の反応は予想外のものだった。
「そっか。それはいろいろと大変そうだね」
少しの驚きも、疑いも見せずに先の心配すらする波未。若干身構えていた環流にとっては拍子抜けだった。
「驚かないのか?」
「どうして?」
「どうしてって……。記憶がないって言ってるんだぞ? そんな簡単に信じられるのか?」
「嘘なの?」
「嘘ではないが……」
なんだか調子が狂う。こちらが考え過ぎなのかとすら思わせてくる波未は、きょとんと首を傾げていた。
「なみ」
「? お前がなんだ?」
「違う。海の波、さざ波のこと」
海辺からは少し離れたこの場所から、静かに揺れる波を指さす波未。
「波が言ってる。本当だって」
「波は喋るのか?」
「喋るよ。あたしには聞こえる」
「まじかよ……。すげえな」
波未が自信ありげにいうので、環流は思わず舌を巻いた。
すると波未は、口角を少し上げてふふっと笑う。
「なんだよ。何がおかしいんだ?」
「だって、波が喋るなんて言ってるんだよ? そんな簡単に信じられる?」
「あっ」
図られてしまった。
波未が笑ったのは、自分が言ったことが信じられると思ってないのに、他人が言ったことは信じるのがおかしかったからだろう。
「試しやがって……」
「別にそんなつもりはなかったよ。だけど、どうしたら私が疑ってないってことを分かってもらえるかなって思って」
「そうかよ」
波未は「そうだよ」と言って、この場を離れるように歩き出した。
「帰るのか?」
「うん。環流もついてきて。行く当てとかないでしょ? 助けてくれたお礼にお昼ごはん食べさせたげる」
「いいのか?」
突然の提案に環流は思わず食いついてしまう。
流石に食い気味だったかもしれないが、背に腹は代えられなかった。
「もちろん。それに、そんな見苦しい姿で島をうろちょろされて捕まりでもしたら、あたしがいたたまれなくなるから」
「どういうことだ?」
「環流は自分がパンツ一丁なことにも気づかないほど鈍感なの?」
「は?」
言われて環流は自分の格好を確認してみると、上半身裸でグレーの海パンを履いただけの変質者だった。
移動してきた道が海沿いで、かつ履いていたのが水着だったことがまだしもの救い。
もし島の中心に向かって人と出くわそうものなら、どうなってしまっていたのか考えることすら恐ろしい。
「理解した?」
「イェス、マム」
「なにそれ。変なの」
波未がくすっと笑う一方で、環流は恥ずかしさでいっぱいだった。
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