珊瑚の島に囚われている ~島の少女に世話されるようになってしまった件~

水の中

第0話 プロローグは消えゆく

 キーッというスキール音が、眠っている少年の意識を刺激した。


 目覚ましにしてはあまり心地のいい音ではなく、「……うーん」と無理やり起こされたように唸りながら瞼を擦る少年。

 その瞼は長い間眠っていたせいなのか鉛のように重たく、生半可な反抗では打ち勝てそうになかったのだが、強く擦ればなんとか視界を取り戻せた。


 取り戻した視界に真っ先に映ったのは、正面に座る少女だった。

 整った顔立ちに、淡紅色の透き通った長髪。底知れないほど深い檸檬色の瞳、加えてすらりとしたか細い身体の少女はまるで芸術品といっても過言ではない。

 さらに列車の窓から差す、柔らかい黄金色を帯びた夕焼けの光がまるでスポットライトかのように容姿端麗な少女を照らしていた。


「よく眠れたかい?」


 少女は髪と同じ色の唇を動かし、「待ちくたびれた」とでも言いたげな表情で寝起きの少年に問いかけた。


「……俺のことか?」

「君以外に誰がいると?」


 辺りを見回しても、閑散としていて少年と目の前の少女以外に乗客はいなかった。確かに少年以外に声をかける相手はいない。


「眠れたかと聞かれたら眠れたよ。それこそ泥のように眠ってたと思う」

「そっか。それは何より」

「ところでこれは?」


 列車に揺られているというのは、起きてから耳に入るガタンゴトンという音からでも車両の構造からでも分かる。

 だが、この列車がどこに向かっていて、どこを走っているのか。さらに言えば、なぜこの列車に乗っているのかも分からなかった。


「覚えていないかい?」

「ああ、まったく」

「そっかそっか。それは良かったよ」


 口角を少し上げ、やんわりと優し気な微笑みを見せる少女。

 しかし、少年にはなぜそこで微笑むのか一つも理解できなかった。


「良かったってどういうことだ?」

「そのまんまの意味だよ」

「わけわかんねえよ……」


 困惑する少年に、どう説明したものかと少女はすらっとした白い人差し指をちょんと顎に当て思索し始める。

 少女は「んー」と考え続けると、閃いたかのように顎に当てていた人差し指の腹を少年に見せつけ、


「そうだ、君は自分の名前覚えてるかい?」

「名前? そんなの当たり前だろ。俺の名前は──、あれ……?」


 名前なんかきいて何の説明になるんだよと思った。ただまあ初対面の人に名乗っておいても不都合はないだろうと、自分の名前を伝えるつもりだった。だったのに、出来なかった。

 少年の額から冷や汗が流れだすのが分かる。


「覚えていないかい?」

「……ああ。覚えてない。何も覚えてない。名前も家も、家族がいたかどうかも、どうして俺がこの列車に乗ってるのかも何もかも覚えてない……思い出せない……」


 列車の床にまで垂れ始めた冷や汗を、俯き眺めることしかできない少年。

 両手で顔を覆って視界を暗くしても、体のどこを捻っても何一つ思い出せなかった。


「思い出せなくていいんだよ」

「……なんでだよ」


 蒼白になった顔を依然俯かせたまま、少女の理解できない言葉に焦燥を隠しきれていない声で少年は返しした。


「──だって、それを君が望んだのだから」

「……は?」


 思わず顔を上げる。そこには目覚めたときよりも、より強く黄金色のスポットライトが当てられている少女の姿。少女の檸檬色の瞳は嘘偽りなどひとつもないと言わんばかりに据わっていた。


「何もかも忘れてしまいたいって君が望んだんだ」

「俺が望んだ……?」

「そう。そして僕はそれを叶えてあげたんだよ」

「お前が叶えた……?」


 少年には何一つ理解が追い付いていなかった。なぜ、大切なはずの記憶を失いたいなんて望んだのか。仮に望んでいたとしても、どうやって少女は記憶を消し去ったのか。果たして少女の言うことは本当に正しいのか。挙句の果てには、現実じゃないのではなんて考えも浮かび始めた。


 ただ、一つだけ分かるのはこれが夢じゃないのならば本当に何一つ覚えていないということ。


「まあ、そりゃいきなりそんなこと言われても困るよね。僕が君の立場でもわけわかんなくなると思うよ」


 そう言った少女は、よいしょと立ち上がり列車の出口付近にある手すりに摑まり少年に背を向ける。


「記憶、返して欲しいかい?」


 移り行く景色を映す窓から目を離さずに少女は、ワントーン低い声で尋ねる。

 その背からはなぜだか哀愁が漂っていた。


「返してもらえるのか?」

「返せるか返せないかで言えば返せるよ。でも僕は出来ることならば返したくない」

「なぜだ」

「それは言えないよ。言ってしまえば、もしかしたら君は過去を思い出してしまうかもしれないから」


 ガタンゴトンという規則的な列車が走る音が、少女から伝わる悲痛な思いに追い風を吹かせたように感じた。

 少年は記憶を失う前にこの少女と出会ったことがあるのだろうか。もしあるのならば、全身からにじみ出るほどの悲しみを少年が与えてしまったのだろうか。

 そんなことを考えるだけでいたたまれなく思う。


 目覚めたときに見せた微笑みからして、少女にとっては記憶を失っている方が都合がよさそうだった。

 だから恐らく、なぜそんな悲しそうに佇むのか尋ねても答えてくれないのだろう。

 記憶を失ったと知ったその瞬間はもちろん焦ったし、怖かった。だけど今は、すっかり悲し気な少女に気を取られてしまっている。


 寝起きにしては冴えてきた頭で考えにふけっていると、少女がこちらに振り向いた。


「どうかしたのかい?」

「あ、いや。お前があまりにも悲しそうな雰囲気だったから」

「僕がかい? そんなことないよ。だって僕は……」

「だって僕は?」


 少女はどうやら嘘をつくのが下手らしい。さっきはあんなにも真っすぐだった瞳が、今は下を向き曇っているのがそれを裏付けているようだった。


「ぼ、僕のことはいいんだよ。そんなことより君が最初に尋ねてきたことに答えよう」


 無理やり明るくふるまい、話を終わらせる少女。その口ぶりからして、やはり悲しさの正体を吐いてくれそうにはなかった。

 これ以上の詮索は無駄だと少年は悟る。


「この列車は──暗闇発、明るい未来行き」

「……よく分からねえ」

「ふふっ。だいじょぶ、行けば分かるから。君にとって宝石みたいに煌めく島だからさ」


 どうやらこの列車はどこかの島に向かっているらしい。


「そこで暮らしてみてよ。絶対気に入るから」

「まあ、記憶のない俺に行き場なんてないからな。そうするしかないだろ」


 黄昏時の列車に差す、黄金色の光がだんだんと輝きを薄めていく。もうそろそろ日が沈みそうだ。

 列車の中が徐々に冷えていく。

 少女は、列車の椅子に座る少年の前で傷一つない脚を折り、まっさらな膝を立てた。


「次、君が目を覚ました時にはその島に着いてると思う」


 その言葉とともに少年の少しごつごつした男らしい両手をとり、


「だからどうか、君には思うが儘に伸び伸びと生きてほしいんだ。これは僕の押しつけがましい願い」


 両手を包む少女の小さな手の平から、その願いの強さが伝わってくるようだった。

 しかし、どうして少女はこんなにも少年に思い入れているのだろうか。何か特別な理由があるのだろうか。

 それは少女のみぞ知ることなのかもしれない。


「分かった。約束はできねえけど、努力はしてみる」

「そっか。ありがとう。それで十分だよ」

「だが、これだけ教えてくれ」

「なんだい?」



「お前は何で願いを叶えてくれたんだ?」


 これくらいは教えてくれてもいいだろうと、少年は一つ気になっていたことを聞いてみた。

 さっきから、少年が記憶を失ったことやこの列車に行き先を曖昧に知らされただけで、少女のことはなにも分からない。


 その問いに少女は目を見開き、「えっ」と漏らすと雪のような白さの頬をほんのりと紅潮させた。


「何でって、そりゃあ……」

「そりゃあ?」


 目を反らす少女に、追うように先を促すと、


「そりゃあ、……だから」

「え?」


 大事なところで声が小さくなってしまい、うまく聞き取れなかった。


「悪い。聞こえなかったんだけど」

「二回は言わない!」


 少女はそう言うとぷいっとそっぽを向いてしまった。

 微笑んだり、悲しそうにしたり、恥ずかしがったりと感情の変化が忙しい子である。

 結局、記憶を失う前の少年の願いがなぜ聞き入れられたのかはわからずじまいだった。


「名前……」

「名前?」

「そう。僕の名前だったら教えるけど、知りたい?」


 長い睫毛で縁取られる目を半分あけ、そんな提案をしてくる少女。


「ああ、知りたい。教えてくれ」


 記憶を失った少年は知りたいことばかりである。それがどんなに些細なものだったとしても。

 少女は決して大きくはない、けども確かに膨らみを見せる胸にすらりと右手を添え、


「僕の名前は珊瑚さんご。海の珊瑚と同じだよ」

「珊瑚か。いい名前だな。綺麗なお前にぴったりだ」

「……え?」


 またしても頬を赤らめる珊瑚。その色がさっきよりも色濃くなっているように見えるのは、多分気のせいではないと思う。


「変わらないね、君は」


 若干俯き、そう漏らす珊瑚の儚げな檸檬色の瞳はほんの少し涙を含んだように見えた。

 変わらない、ということはやはり珊瑚は記憶を失う前から知り合っているということなのかもしれない。どんな関係だったのか興味はある。けど、彼女はきっと答えてはくれないだろう。


「日が沈むね」

「? そうだな」

「日が沈めば、照らしてくれる光が消えてしまい、僕は消える。君もまた眠りこけてしまう。次目覚めるときには件の島。だから僕たちは一旦お別れだよ」

「どういうことだ?」


 珊瑚はまたしても突拍子のないことを言う。まったくもって、理解が追い付かない。


「そのままの意味だよ。でも、二度と会えないわけじゃないから」


 少年が欲する答えを珊瑚は教えてくれない。

 しかし、代わりに押し付けてくるかのような現実が教えてくれた。

 列車が真っ暗なトンネルに差し掛かり、明かりのない車両は一瞬で闇の中。

 このトンネルがどのくらい続くのかなど少年には知る由もないが、恐らく抜けたときにはもう日は沈み切ってしまっているに違いない。


「おい、珊瑚?」


 そう呼びかけたのは、珊瑚の気配を感じ取れなくなったからだ。

 か細く、ガラスのような身体の彼女だが、纏う雰囲気は独特なものだった。こうしてすぐに消えてしまったことに気づけるぐらい。

 ゆっくりと手を伸ばしてみても、珊瑚には触れられなかった。ついさっきまでそこにいたはずなのに。


 珊瑚にしてみれば、言ったとおりの事象が起きただけなのだろう。だが、記憶を失っている少年にはいきなり取り残されたように感じられ、凄まじい恐怖心が襲った。


「(だいじょぶ。島に行けばまた会えるよ)」

「珊瑚?」


 震える少年の脳内に、珊瑚の声が響いた気がした。


「(だから、安心して眠って)」


 またしても脳内に語り掛けられたかと思えば、何かに眉にかかるくらいの前髪をなにかに持ち上げられた。

 車両の中は真っ暗で視界で捉えることはできない。

 そして、空気に晒された少年の額に何か柔らかいものが触れたように感じた。

 優しくて、静かな、それでいてほんの少しの温かみを感じる感触だった。まるで、口づけかのような。



「(──君、灰原はいばら 環流めぐる君が珊瑚の島で宝石を見つけられますように)」



 列車がトンネルを抜けると、環流は月明かりの下ですっかりと眠ってしまっていた。

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