第5話 下着はともかく笑顔が可愛い
こんなにもバッドタイミングなことがあるだろうか。
額から噴き出るように冷や汗が流れるのが分かる。
「どうしたの?」
波未に対しては背を向けている状態だったので、もしかしたらまだこの黒いモヤがかかった写真を手にしているのを見られたわけではないのかもしれない。
そう信じて環流は、借りている短パンのポケットに多少折れ曲がることは気にせずに写真を突っこんだ。
「どうしたのってば」
その声の主はもう環流のすぐ背後にいた。
冷や汗はとどまることを知らない。
「汗すごいよ?」
「暑いからな」
気づいてはいなさそうだ。しかし、気を緩めないようには努める。
「そう? 家の中は結構涼しいと思うけど」
「……それもそうかもな」
「? 変なの」
一方的に質問攻めにあうこの状況はいけないと、違う話題で話を逸らすことを試みようと環流は、
「それより、布のことなんだが」
「布?」
環流が足元を見ると、それにつられておなじところに目を向ける波未。
すると、昨日自分が施したはずのリント布が剥がれている、と気づいたのか、
「ああ、剥がれちゃったか。それで棚の前に」
結構な無理やり具合でその場を凌いだが、どうやらうまくいったみたいだった。波未は波未で、環流が想像しているほど焦っていたとは思っていなかったのかもしれない。
波未は写真が入っていた段の一つ下の引き出しから応急道具を取り出し、「しょうがないなあ」と子供の面倒を見るようなセリフとともに、昨日と同じように座ることを促してくる。
言われた通りにすると、やはり昨日と同じように本当は自分でやろうと思っていた足の裏の手当てをしてくれた。
帰りを知らせる挨拶もなしに急に呼びかけられたので驚いてしまったのだが、もしかしたら気づかなかっただけで写真に気を取られているうちに帰ったと言っていたのかもしれない。
そうだとしたのなら、こちらの様子を探るのも当然だと思うし、気付かなくて申し訳ない気持ちになる。
しかし、なにはともあれとりあえず写真のことがバレずに済み、環流はホッと安心した。
──はずだったのだが、
「ね、環流。もしかして、見たの?」
(バレたのか!? なぜこのタイミングで!?)
どう考えてももう解決した流れだっただろうに。一体どこに穴があったというのか。
「触ったの?」
「……なんのことだ?」
めちゃくちゃに顔は引きつっているだろうが、これでも精いっぱいしらばくれている。
だけど誰か助けてほしい。もう頬は引きちぎれそうだ。
「……擦ったり、したの?」
「いや、そんなことは……。って、は?」
擦ったりってなんだ? 好きな女の子の写真を手に入れて、顔にこすりつけるような変態的行為をする輩はこの世のどこかにはいるかもしれない。
だが、環流はそのような理解不能な趣味を持ち合わせてはいない。
どこからそんな質問が浮かび上がったのかと、波未の様子を確かめてみる。
波未の頬はほんのりと赤く染まっていた。掴みどころがなく、大きな感情をあまり表に出さない波未にしては珍しい。
波未が視線を反らし、ある方向に指をさすのでそちらを見てみる。
と、波未が指していたのは、
「……あたしの下着」
ということだった。
なるほど、全てを理解した環流はどう反応すればいいのか困った。
というのも、怒られるかもしれないという憶測をしながら波未の下着を日に晒した環流だったのだが、まさか頬を染めて恥ずかしがるなんて反応を波未がするとは思わなかったからだ。
短い時間ではあるが、ある程度言葉を交わしたことから、波未は基本サバサバした性格でかつ面倒見のある優しい一面もある要望が優れた少女という認識が環流の中にはある。
しかし、こんなにも乙女的な反応をするとは聞いていない。
どう言葉を返せばいいのかと考えた結果、口から出たのは、
「すみませんでした」
この状況で言い返す言葉は見つからなかった。素直に謝るのが一番だろう。
「擦ったんだ……。たっぷり匂いを嗅いで……」
「待て、俺が謝ったのは勝手にお前の下着やらを干したからであって、そんな変態行為はしてないからな?」
「ごまかさなくてもいいよ。昨日もあたしが貸した体操着の匂い嗅いでたし……」
「ぐ……」
それを言われてしまっては返す言葉がなかった。
昨日の軽率な自分をぶん殴りたい。
「悪かった……。置手紙を見たからなにかやれることはないか探してたんだが、洗濯物を干すくらいしか出来そうなことがなかったんだ」
「置手紙……?」
波未はほんのうっすら浮かべた涙を腕でこすると、「そういえばそうだった」と机に置いてあるその紙をボールペンをどかして手に取った。
涙が出るほど恥ずかしかったのかと思うと、さすがに申し訳なくなる。
「まあ、それなら確かに少しはあたしが悪かったかもね。少しは」
「いや、そんなことは」
「でも他にも、庭掃除とかやれそうなことはあったと思うけど」
確かに、と家の中にしか考えが及ばなかった環流は反省し、
「盲点でございました……。本当に申し訳なく思っております」
精いっぱいの謝罪の意を込めて、土下座をした。
すると波未は、恥ずかしさが収まったのか頬の赤みを取り除き、「もう」とやや呆れたかのようなため息をつく。
「いいよ。そんなに謝らなくて。あたしも気恥ずかしかっただけだから。……柄が柄なだけに」
「確かにな」
「なんて?」
「いや、なんでもない……」
ジトっとした目で睨まれる環流。
声に出すつもりはなかったのだが、この役立たずな口が押えてくれなかった。
「しょうがなかったんだよ。昨日は急いでたからたまたま手に取った苺だっただけで……。普段出かけるときはもっとおしゃれな奴つけてるもん」
もじもじとらしくない素振りを見せる波未。なんとかだもん、なんて語尾を波未がつけて話すとは思いもしなかった。
どうやらあくまでたまたまだったことを念押ししたいらしい。
環流にとっては波未がどんな下着を身に着けていようが大した差はないのだが、やはり波未も年頃の少女だということだろうか。
だから環流は、
「安心しろ。別に俺は苺柄の下着のことを馬鹿にしたりなどしない」
「ほんと?」
「ああ、本当だ」
「顔はにやけてるのに?」
どうしてこういうときに限って表情筋は余計な仕事をするのか。せっかく許しを得たというのに身体が命令を聞いてくれない。まったく、いい迷惑である。
「もういいよ、だ」
波未は環流の失礼な態度に口をとがらせてしまった。
あまりにも可愛いらしいそっぽの向き方ではあるのだが。
「服の匂い嗅ぐのもあたしにバレないようにしてね」
「バレなければいいのか?」
「いいけど、嗅ぐの?」
「嗅がないけど」
なんだか暗にくぎを刺されたような気がしなくもないが、今日は匂いを嗅いだりしていないのでそこに関しては冤罪である。
にしても、ちょっとした物心でからかってしまった部分もあったけど、波未の新たな一面が見れたのはなんだか嬉しかった。本当に反省はしているので二度同じことはしないが。
新たな一面、とはまた違うが写真に映っていた幼少期の波未だと思われる少女がピースをしていたのを思い出す。
「なあ」
「ん?」
感情の揺らぎは収まったのか、いつも通りな様子で反応を示す波未。
環流はふと気になったことを聞いてみることにした。
「その棚、応急道具以外に何が入ってるんだ?」
「んー、特に大したものは。置手紙に使った紙とかボールペンとか、雑用品くらいだよ」
「そうか」
何かを隠しているかのようには見えなかった。ということは、あの黒いモヤがかかった写真の存在を波未は知らないのかもしれない。子供のころの記憶がないと言っていたのもある。
だとしたら、やはり写真を見せるわけにはいかなかった。
──まずい予感がするから。
「なに? 下着でも入ってると思った?」
「んなわけないだろ」
またしても波未はジトーっとした目を向けてくるが、今度は少し笑っていた。
あまり余裕がなかったからなのか、今頃になって波未がたまに見せる笑みを可愛いらしいと思った。
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