第11話 夫婦みたいだなんて早すぎる
「環流、朝だよ」
真っ暗な世界から、呼び戻そうとする声が聞こえた。
最近ではよく聞き慣れた声。
「……んあ?」
「おはよ」
重たい瞼を持ち上げると、環流の顔を覗き込む波未の姿があった。
いつも通りの蒼いシュシュで結ばれた胡桃染のポニーテールに、白が基調のセーラー服。
波未のささやかな花を咲かせたような笑みは、環流の目覚めを心地の良いものにしてくれる。
「ああ、おはよう」
「朝ごはん出来てるよ」
「分かった、すぐいく」
返事をすると、波未は「冷めないうちにねー」と言い残して環流の部屋を去っていった。
環流はひと悶着起こした例の四字熟語Tシャツに着替えると、色素の薄いボサボサの髪のままいつもの畳の部屋へと向かう。
朝ごはんが並べられたテーブルの側に敷かれている座布団に環流は座る。
続いて、台所の方から麦茶を持ってやってくる波未が環流の対面に座ると、
「いただきます」
「はい、召し上がれ。あたしもいただきます」
食前の挨拶を済ませれば、まずはわかめが入った味噌汁から手を付ける。
ずずっと、湯気の立つ味噌汁を飲む環流。
豊かに広がる味噌の風味は、寝起きの体によく沁みた。
ほかにも、白米や卵焼き、サラダなど朝食といえばこれという品々を口に運んでいく。
「どう? 美味しい?」
環流のコップに麦茶を注ぎながら波未は尋ねてきた。
「ああ、美味い」
その答えに満足したのか、波未は優しく微笑んだ。
注いでもらった麦茶を、環流は一口喉に流す。
環流はふと思った。
朝、目覚めたときから今の朝食に至るまでのことを。
波未の計らいで環流はこの家に住まわせてもらうことになった。
そこに関しては問題ない。いや、男女二人屋根の下なのだから、問題ないことはないのだが、家主が許可しているので少なくとも環流が訴えられるようなことはないはずだ。何もしなければ。
しかし、部屋まで来てもらい、モーニングコールを受け、こうして朝ごはんまで用意してもらっている。
昨日の夜にいたっては、着替えを用意してもらったりもした。
おやすみのキス……はさすがにあり得ないが。
だが、これではまるで……、
(夫婦みたいじゃないか)
「夫婦みたいだね」
「……は?」
思わず素っ頓狂な声を出してしまった環流。
「そう思ってるんじゃないの?」
「その通りだが……。声に出てたか?」
「いや? 顔に書いてあった」
どうやら寝ぼけて声に出してしまったわけではなかったらしい。
にしても、夫婦みたいだと思っていると分かる表情とは一体どんな顔なのだろうか。
その時の自分の顔を見てみたい、なんて環流は思う。
「食べ終わったら、食器運んでおいてくれると助かるな。あ、な、た」
「……分かった」
無理やり夫婦を演じようとする波未に、環流は苦笑する。
だいたい、夫婦なんて年ではないのだ。制服を着ているのもあって違和感が凄い。
「そこは、分かったよ。マイハニーっていうところじゃない?」
「分かったよ。マイハニー」
「もう遅い」
あまり朝は食べないのか波未は、環流のよりも少ない量の朝食を取り終えると、「ごちそうさまでした」と手を合わせて台所に食器を運んで行った。
言われた通りに食器を運び、ついでに台所の枠内で水に浸されている食器たちの洗浄も済ませておいた。
気持ちのいい風が吹く時間になってきたお昼前、やることがなくなった環流は、ただただ寝転がっていた。
本当にやることがないのである。
家事を手伝おうにも、手伝おうと思ったときにはほとんど波未が終わらせているのだ。
その波未ですら、今は窓の近くで座って風を浴びているだけ。
「なあ」
「ん?」
波未は環流の方へと向きを変える。
「お前、普段何してるんだ?」
「何って、バイトとか」
「バイトだけじゃ一日は終わらないだろ」
「えーなんだろ」
「学校とかはないのか?」
環流は一つ気になっていたことを聞いてみた。
「あるけど、ない」
「は?」
矛盾もいいとこだった。訳が分からない。
「夏休みってことか?」
「んーまあそういう言い方もできるかな。分かりやすく言えば、ずっと夏休み。だから学校はあるけど、ないんだよ」
「ずっとってどういうことだ? 夏が終われば学校始まるんじゃないのか?」
「始まんないよ」
「なぜだ?」
「──夏が終わったら、珊瑚が死んじゃうから」
淡々と告げられた波未の言葉に、やはり環流はしっくりこなかった。
だが、波未はさぞ当たり前のことのように言うので、それはこの島では常識なのかもしれない。
環流の常識からは、遠く離れる別の常識がこの島にはあるのかもしれない。
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