第10話 珊瑚の光を見た

「帰ろって言ったけど、ちょっと寄り道してもいい?」


 店を出たあと、しばらく来た道を戻っていると、ふと立ち止まった波未がそんな提案をしてくる。


「構わんが、一体どこに?」

「絶景スポット」

「ほう?」


 環流は少しの期待を胸に抱いた。なにせ、島そもそもが観光に向いていそうなほど自然などの魅力に溢れているのに、加えて絶景スポットまであるというのだ。どんな場所なのか気にならないわけがない。


「ついてきて」


 波未はそういうと、家の方角ではないほうへと進行方向を変え、砂道を歩いていく。

 島の人も度々訪れるのだろうか、砂道は道だとしっかり認識できるくらいには整っていた。


 空は黄金色に輝いている。一日が終わりを迎えようとしているのを教えてくれる光。

 光を残した太陽は「おやすみ」と残したかのように、向かっている先の奥に見える山の裏に隠れてしまった。


 なぜ環流は記憶を失くしてしまったのだろうか。なぜ環流はこの島で目覚めたのだろうか。

 常にそれが脳内を巡っているわけではないのだが、景色を見てぼっーとしてしまえば、ふと気になって考え出してしまったりするものだ。


 それからも、道なりに進んでいくと波未が振り返って、


「ついたよ」


 案外目的地は近かった。といっても、あれから十分ほどは歩いていたのだが。

 波未が方向を変えたあたりではまだ少し聞こえていた街の喧騒も、今では何も聞こえない。

 本当に何一つ聞こえなくて、耳を澄ませば波未の呼吸音すらきこえるのではないかというほどだ。


 環流は辺りを見渡してみる。


「これは……」


 視界に移ったのは湖だった。そよ風に少し波を揺らされる湖。

 そしてなんといっても、水面に溶け込んでいるかのような黄昏の輝きだ。

 ほんのりと橙色に染められた湖は、波未の言う通り絶景スポットといっても差し支えなかった。


「ね、あれがなんだか分かる?」


 波未は湖の中央のほうを指さして環流に尋ねる。

 環流は波未が示す方向を見るが、


「木、か?」


 正直よく分からなかった。湖の中央に、枝分かれしたようなシルエットの何かがあるということくらいしか。

 枝といえば、木かなと環流は思ったのでそう答えたのだが、どうやら違ったらしい。

 波未に首を横に振られてしまった。


「あれはね、珊瑚」

「珊瑚? 暖かい海にいるあの珊瑚か?」

「そ。あたしは詳しいことは分からないんだけど、海に繋がっているのか湖にも珊瑚が姿を現すようになったんだって」


 確かに言われてみれば珊瑚のような形をしているようにも見える。

 しかし、気になることは、


「あれ、水中から飛び出してるぞ? しかも珊瑚のデカさじゃなくないか?」


 木と見間違えてしまうような大きさのそれを、環流の知識の範疇では珊瑚だと認識することはできなかった。


「そうなんだけどね。でも常識を覆すようなことなんて、よくあることでしょ?」


 付け足すかのように、「環流が記憶を失ってる、なんてことみたいにさ」と波未は言う。


 常識を覆すのはよくあること、というのはおかしな表現だと思ったが、そのあとの言葉を聞いて環流は妙に納得してしまった。


 つまりは、なぜ記憶を失っているのか、なぜこの島にいるのか分からない謎の現象が、あの静かに佇んでいるように見える珊瑚にも起こっているのだということだろう。


「この島は、珊瑚が願いを叶えてくれるっていう言い伝えがあってね。島の人々はときどきこの湖に訪れて、祈りを捧げるんだよ」


 波未はその場で両手を合わせ、目を瞑り、「こんな風に」と手本を見せてくれた。

 それに倣い、同じように祈りを捧げてみる環流。


「こうか?」


 ──すると、不思議なことが起こった。


 目を開けてみると、


(珊瑚が、光ってる……)


 珊瑚はシルエットのようにしか見えていなかったのだが、珊瑚自体が仄かな光を灯すことで、実態をとらえることができた。

 淡紅色の光。

 それは環流を魅了するのに、十分なほど綺麗だった。


「ほかにもね、珊瑚が光っているのを見た人は幸せを約束されるなんて言い伝えもあるらしいよ。ま、実際珊瑚が光ってるところを見た人なんていなんだけどね……って、どうしたの?」


 波未は、驚愕したような表情を浮かべる環流に気づいて首を傾げた。


「お前には見えてないのか……?」

「見えてないって、何が?」

「珊瑚の光だよ! 自分で言ったんだろ?」


 波未は珊瑚が光ってるなんて言葉は言っていないのだが、環流は摩訶不思議なこの状況でしっかりと話を理解していなかった。

 分かっているのは、珊瑚の光は環流には見えているのに、波未には見えていなさそうなこと。


 波未は見開いた環流の両目を見て、


「嘘は言ってなさそう……だね」


 二人が出会ったとき、環流の記憶がないという告白を疑いもせずに信じた波未だったが、今回は少し信じられないといった様子。

 それは、珊瑚の光が見えるというのが、よくある常識を覆すことの範疇にないということを表しているのかもしれない。


「そんなこと、あるんだね」

「本当にお前には光って見えないのか? 薄い光だけど、ちゃんと姿が捉えられるくらいには光ってるぞ」

「見えないよ。あたしには暗闇に身を潜めているようにしか見えない」

「まじかよ……」


 環流から見ても、波未が嘘をついているようには見えない。

 つまり、今の二人の目の前にはそれぞれ別世界が広がっているということになる。

 そんなあり得ないなんて言葉じゃ片づけられない現象を目の当たりにして、ただただ二人は呆然としていた。


 しばしの間、この不思議な湖で静寂が過ぎると、


「環流が記憶を失って、この島で目覚めるのは決まったことだったのかもね」


 ふとそんなことを口にする波未。


「運命ってことか?」

「そ。珊瑚の光が見えるのだって、なんだか導かれてるみたいじゃない?」

「……そうか?」

「そうだよ」


 そんなロマンチックなおとぎ話のようなことを言う波未に、苦笑混じりに聞き返した環流だったが言い切られてしまえば何も言えまい。


 でも確かに、環流が記憶を失くして、この島で目覚めた理由と未だに淡紅色を見せる珊瑚には何か関係があるのかもしれないと思った。


「よかったね環流。言い伝えが正しければ、環流は幸せらしいよ?」

「俺は今、幸せなのか……?」


 正直、幸せなのかそうじゃないかなんて判断がつかなかった。この島で過ごした時間はまだわずかなのだから。


「これからなるんだよ」

「だといいな」


 やんわりと笑みを浮かべる波未に環流はそう返した。


「帰ろっか」

「だな」


 もう黄金色の空も色を消すだろう。

 踵を返して、来た道を戻ろうとする。


 と、


 ──環流。


「ん?」

「どうしたの?」

「今俺の名前呼んだか?」

「いや?」


 誰かに呼ばれた気がして振り返ってみたのだが、人影は一つも見えなかった。


「気のせいか」


 環流は波未の隣に並んで、いつの間にか光を消した珊瑚を背に帰路に就いた。



 来た道を帰っている途中、波未が「そういえば」と何か思い出したかのように環流に話しかける。


「環流、今日から家に住みなよ」

「……随分いきなりだな」


 突拍子もない言葉に一瞬環流は戸惑ってしまった。


「嫌なの?」

「嫌なわけはないが、理由は聞きたい」

「理由って言われてもね……、だって環流行くとこなんてないでしょ?」

「そりゃないし、今日までも世話になってたわけだが……。でも住むとなると、流石に気が引けるどころの騒ぎじゃなくてな」


 そこまでいくと、どのくらいの恩返しをすればいいのか分からなくなるのだ。


 悩みの表情をしている環流の顔を隣から覗き込んで、波未は、


「じゃあ住めって命令したら住んでくれる?」

「そりゃ恩人に命令されたら従うが……。お前はいいのかよ、男と二人屋根の下で。襲われるかもしれないぞ?」

「襲うの?」

「襲わないけど」

「じゃあいいじゃん」


 正確には二人屋根の下ではないかもしれない。波未の家庭の事情が未だにはっきりとは分からないからだ。


 しかし、現状のままならばあの家で二人で過ごすことになる。

 それは年頃の男女には不健全な気がしたのだが……。どうやら波未はそれでもいいらしい。


「なんで、そこまでしてくれるんだよ」


 環流の純粋な疑問だった。

 それに対して波未は「んー」と人差し指をすらっとした顎にあて、


「なんでだろね。なんか、環流といると心地いいんだよ」

「……なんじゃそりゃ」


 曖昧な答えだった。

 しかし、環流の男心は単純で、波未のような美少女に一緒にいると心地いいなんて言われたら冗談でも嬉しく思えた。


「じゃあ、お邪魔じゃないならそうさせてもらおうかな」

「うんっ」


 環流のその返答に、波未もどこかしら嬉しそうに見えた。





 そうこうしているうちに、二人は今日から泊まるではなく、暮らすことになる家へと帰ってきた。

 改めて、ここで暮らすんだと思うと家を纏う雰囲気がまた違うように感じられた。


 家の敷地に足を踏み入れていくと、波未が「環流」と呼びながら、前に出てこう言った。


「──ようこそ、珊瑚の島へ。今日からあたしたちは家族だね」

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