第17話 インヴィジブル


 佐渡は二つの顔を持つ。

 一つは書記官の顔。もう一つは参謀本部第三部部長の顔だ。

 東西両総司令部にそれぞれ所属する参謀本部は軍大学校出のエリートが揃う、軍の頭脳集団だ。

 作戦立案を担う第三部は頭脳の中枢と言っていい。国政参与の元では官房に近い役割を与えられている。

 後方勤務の花形のなかの花形。しかしこの部には階級昇進が見込めないという欠点がある。

 部長の佐渡が病的に昇進を嫌うからである。このほど総司令に押し負けてようやく大佐に上がったことで部内は佐官昇進者が大量発生した。

 

 「手腕はとっくに将官なんだがな、佐渡大佐は」

「兼務なされてる時点で将官でしょうよ。普通ならどちらかの職に支障が出てもおかしくない」

「予備の体をお持ちだからできるんだろうさ」

「だろうな」

「御一人で部の仕事が済みますね、それ」

「色んな意味で勝てる気がしない」


 アルコールが入っている分言いたい放題である。

 「………」

 本人が後ろの席にいるのだが。


 他人からの自身の評価は聞きたくても聞けないものだ。面と向かって本音を言える人間はごく少ない。相手の感情を慮って肯定的評価しか返せないからだ。


 ウイスキーグラスを手に取る。琥珀色の酒の中でカロン、と氷が鳴った。

 軍士官御用達のバーに佐渡も足を運ぶ事がある。

 人の話を聞いているのは楽しい。

 聞いた内容を仕事に直接活かす事はしないが、人々の不満要望等を把握する上で役に立つ。

 

 上司の存在に気づかない部下の噂話は続く。

 「じゃあこの前お怪我されたのは本体で?」

「本体」「本体だな」

 かた、とグラスを持ち上げた音がした。

「たまに杖持っておられない時があるだろう?あれが予備」

「そこで見分けますか少佐どのは」

「杖しかないのか判別点は」

「ん〜」

 指摘された少佐はグラスの中身をゆらゆら回しているらしい。かろかろと氷がグラスに当たる音がする。

「上野が不機嫌な顔してると本体?」

「また難しいな。あいつは表情筋が無い」

「もっと確定的な判別方法はないのですか?」

「だったら杖しかないだろう」



 一人でグラスを傾けていた佐渡は隣席に気配を感じて目を上げた。

 黒縁の丸眼鏡をかけた男はレンズの奥の目を和ませた。ずり落ちた眼鏡を持ち上げる。

 「御本尊ですか?」

「私は一人しかいませんよ、大和さん」

 帝都新古新古にこにこ新聞編集者の大和やまと———第10部部長の福部ふくべ大佐の仮の姿だ。

 東総司令部参謀本部第10部。この部の人間として表に出てくるのは部長の福部のみで、他の人間は参謀本部内で姿を見ない。10部の真の姿は総司令直属の特務機関。帝都新古新古新聞は彼らの一拠点でもある。

 テーブルに四つ折りに置かれた自社の新聞をみとめた大和は中折れ帽を取って挨拶する。

「ご贔屓にどうも」

 大手新聞以外にこれに目を通すことは佐渡の習慣になっていた。情報収集と気晴らしの一つだ。

 「御社の網は素晴らしいですな、世間そのものを捉えているようです」

 少し不思議な事件から、よく許可を出せたなと感心するほどどうでもいい、それこそ井戸端会議の話題のような些細な事まで記事になっている。くだらないと思う反面、これがあるがままの世間なのだと再認識させられることも多い。

 毎日どこかしこで事件が起こるといえ、大方のものは内輪の話題程度の矮小な規模である。

「それがうちの売りですから」

 隣の席に腰を下ろした大和は席を移るかどうかと目で問いかけた。

 佐渡の部下が後ろにいると知っていての配慮だ。


 後ろの彼らの話題は分身疑惑の部長から派生して互いの家族や恋人に移っている。

 大和と話しつつ注意を向けていたが、こちらに気づいて話題を変えた様子は無かった。

 

 「日刊だといいますが、現場は大変でしょう」

「でもありませんよ」

 青年は声を立てずに笑った。

「話題の大小を選ばなければ記事のネタは無限にあります。世間はそうしたものなんですよ、要は見方次第です」

「なるほど」

 そうそう、と大和は不意に顔を寄せた。

「———少し面白いネタを見つけました。明日の新聞を楽しみになさっていてください」

「面白い?」

「ええ。興味をお持ちになると思いますよ」







 大和、もとい福部大佐の予告通り、松河原総司令は朝の挨拶に訪れた書記官に新聞を見せてきた。

 「面白い物を見つけたぞ」

『蒸発?アルコール消失相次ぐ』

 帝都各所でアルコールが消えているという。消毒用のアルコールから燃料用まで、場所も診療所や工場、学校など様々だ。

「蒸発、という量ではありませんな」

 記事の一部、診療所から瓶内のアルコールが消失したとの箇所を読んで佐渡は僅かに首を傾げる。

 アルコールランプのアルコールが抜けるなら分かる。が、3ℓのガロン瓶全量はあり得ない。

「しかも液体だけ盗むというのか?証拠を残しているようなものだぞ」

「仰せの通り、…」

 目を上げると意味ありげに見つめる総司令の御顔があった。

「閣下?」

 閣下の丸い目がにっこり笑む。

「調べろ、佐渡」




 伊賀重四郎警察庁長官に被害届を問い合わせた佐渡は、翌日に連絡を受けて警察庁舎に赴いた。

 総司令部から警察庁は歩いて行ける距離だ。

 「大佐どのもご苦労なされますなぁ」

 応接室のテーブルに積まれた調書をめくる佐渡に伊賀は同情交じりの笑みを向ける。

「仕事でございますから」

 調書は警察外に持ち出せない為、この場で頭に入れるしかない。

 事が些細とも言える為に警察が知っているとの確信は無かったが、問い合わせてみて正解だった。

 学校では科学実験用のメタノール、診療所からは消毒用のエタノールが消失していた。

 どれも中身だけだ。

 「揃いも揃って蓋を閉め忘れたわけでもないのです」

「蓋は閉めてあったと供述してございますな」

 アルコールだけが消えた不気味さから警察に通報が来ていたようだ。

 調書に添えられた現場写真を見る。


 現場状況を撮影した写真だ。


 診察室の処置机に置かれた空っぽの瓶。その下のメモの文字がぼやけている。メモの文字より小さい瓶の文字ははっきり移っているので写真の解像度の問題では無い。明らかにぼやけている。

「長官、」

 佐渡は写真を示した。

 「このメモがインクで書かれた物か、今から分かるでしょうか」

「どうなされました?」

「文字が不自然にぼやけているように見えるのです」

 写真を受け取った伊賀は指摘の部分を凝視する。

「本当だ。ぼやけているな」

「アルコールをこぼしたのではないかと思いまして」

「では別の容器に移し替えられたと?」

「診療所の方がこぼしたのでないとすればの話ですが」

 伊賀は形の良い眉を寄せる。

 単なる珍事件ではなく窃盗の可能性が出てきた。

「所轄の署の者に調査をさせましょう」

 伊賀は応接室の電話を取り上げた。






 『———メモは医者が前日の夜、帰宅前に書いた物だと言うことです』

「その後診察室に入った関係者はいないとの話でしたか」

『ええ』

 電話の向こうで伊賀は応じる。

「分かりました。ご連絡ありがとうございます」

 受話器を置いた佐渡は先日頭に入れた調書の内容を反芻する。

 朝、診療所の鍵がこじ開けられているのを看護婦が発見。金品は無事で消毒用のエタノールだけが消えていた。

 診察室に侵入した誰かが中身だけを盗んだ事になる。メモが滲んだのは別の容器に移し替える時にエタノールがこぼれたのだろう。

 他の件も消えたのはアルコールだけだった。金品、機械は一つも盗まれていない。


 アルコールだけ盗む意味は何だ?







 「おや、またお会いしましたね」

 例のバーに背広姿で赴いていた佐渡の横にふわりと大和が現れて席に座る。

「中々面白い事件でしょう?」

 下衆な笑顔を向けられて彼は怒るより感心した。変装といえここまでできる軍人はいない。

「ええ、全くです」

 自分のグラスを手に持った大和は中の酒を揺り動かす。酒の少ないグラスの中でカラカラカラと氷が笑った。

 「大和さんは他の話も掴んでおいでではありませんか?」

「例えば?」

「密造酒が売れるような話など」

 かる、と氷が鳴き止む。黒縁眼鏡の奥の眼が底知れぬ福部の物に戻った。

 ふ、と唇が愉快そうに歪む。

「———市井の一部で高級酒の偽物が出回っています。梅雨の大雨で被害を受けた蔵元の名を騙った詐欺です。実際は水増し酒にアルコールを混ぜた粗悪品ですが」

 西方司令部管轄の九州の県で大雨被害が出た事は知っている。その地域では滅多に降らない雨量だったという。

「では健康被害が出たという話は聞いていませんか?」

「くくくっ。貴方は本当に知恵が回る」

 くぐもった笑い声を発した大和はグラスに残った酒を飲み干した。

「………失明者が出ました。酒の飲みすぎと診断されましたが」

 大和は上着のポケットから折りたたんだ紙を取り出した。紙を広げると病院から得た情報が書き込まれている。

 帝都内にて急性アルコール中毒で病院に運び込まれた患者の患者歴と診断書のメモだ。

 「これはお伝えしますがよろしいですか?」

「どうぞ。明日またお会いしましょう」

 紙片は佐渡の上着にしまわれ、大和は現れたのと同じ軽快さでふわりと席を立った。





 翌朝。

 自身の執務室を出た佐渡は先の廊下の窓際に佇む青年将校の横で足を止める。彼が眼鏡を持ち上げる仕草をしたからであった。

「こちらの調査結果はお渡しします。長官どのにご提供なさっても構いません」

 福部の小脇に抱えた書類が渡される。

 「福部部長には敵わないようです」

「書記官どのらしくありませんな、二日酔いで?」

「お戯れを。………完全な黒子の前では私も黒子足りえないと思ったわけです」

青年は微苦笑を浮かべる。

「全く見えないものは人に干渉できないのですよ。こちらは貴方に働きかけるしかない」


 黒子は「いないように振舞っているだけで目に見えている」存在だ。完全な黒子は目に見えない。


 第10部は総司令直属の特務機関。表立って行動することは無い。秘密裡に事を処理するなら容易いが、それが警察沙汰に繋がるような場合、即ち「表」沙汰に繋がる場合は直接的な行動ができない。情報を知らせ、総司令の命で調査を行った上で捜査機関に捜査させる。

 第10部の正体は参謀本部内でも限られた人間―――部長クラスしか知らない機密事項だ。軍全体では10部は軍の一情報機関としか知られていない。


「完全にいない存在が表に働きかけるには媒介が必要になる」。


 それができるのは両者の中間に立つ存在、「ある程度表と裏を知っている」存在だ。


「それに、書記官どのとしても道化どうけるのはご都合が良いでしょう?能ある鷹は、と言うではありませんか」

 福部は毒気の無い笑顔で笑いかけた。

「鷹ですか、私が?」

「鷹でなくてなんです?」

 よくいる青年の笑顔から発せられた声は低い。

「―――閣下を総司令たらしめた御方が鳩であるとは思えませんよ?」

 不穏とも取れる言葉は互いの距離でしか聞こえなかった。

 「鷹は似合いませんな」

 温厚な書記官の顔が仮面に見えたのは気のせいか。

「鷹は閣下のほうが似合っておられます」

 青年はくすりと笑った。

「であれば貴方には鷹使いが適当ですか」

「タカを飼うのは苦労が多いですからな、福部部長の仰せも一理ございます」

 こうして懸案に振り回される事も多い。

「次お会いした時は奢りますよ、書記官どの」

「若い貴方に奢られるのもどうかと思いますが…大和さんにもよろしくお伝えください」






「密造酒を使った詐欺か」

 調査結果を聞いた総司令は不快げな顔をする。

「各所からアルコールが消えたのは酒を作る為でしょう。大雨被害に遭った蔵元の酒は高値で取引される品でございます」

「浅ましいな。詐欺だけでなく窃盗までして人を騙したいか」

「一部の密造品には飲用に不適な、燃料用のメタノールが使われたようでございます」

 メタノールは酒のアルコール成分のエタノールに似ているが、摂取すると失明する恐れがある劇物だ。

「直ちに警察に捜査させる」

「かしこまりました」

 携えた用箋挾バインダーから伊賀宛ての文書を取り出した佐渡はそれを総司令の前に広げた。

「ご確認ください」

 文書は総司令の署名を待つのみである。

「全く仕事の早い奴だ、俺は人形だな」

「私もあまり変わらぬ立場でございます」

「ああ?」

 万年筆を取った総司令は書記官を見上げる。

「貴様を人形にできる奴がいるのか?」

「はい。『黒子』が」

 黒子、と呟かれた総司令はすぐに意味を解されたようで、紙面にペンを走らせた。


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