第16話 雨が示しる物
帝国国土は起伏に富む。国土の4分の3を山地が占めるこの国は地理的条件も重なり、よく雨が降る。為に渇水になることは稀だ。
が、洪水は頻繁にある。
時の為政者は人々を治めると同時に治水に苦心してきた。堤防を築き、工事に工事を重ねて川の流れを変え、人の管理下に置くべく努力をしてきた。
しかし、大雨は人の掛けた枷を時に呆気なく壊していく。
「東北司令部に至急連絡。『県より要請があり次第、東北司令部判断で軍部隊を出動させるべし。以降、現場判断は其の司令部に一任す。以上』」
「はっ!」
敬礼した少尉は足早に会議室を出ていく。
外は本降りの雨だ。
「あまり考えたくないが忙しくなるだろう。常の通りに対応せよ」
「は、」
第五部部長
参謀本部部長を全員招集する猶予は無い。人を待つ間に川は増水し続ける。
梅雨末期の大雨で奥羽地方では主要河川が氾濫寸前だった。司令部からの報告を受けてから会議を開いては後手に回ると考え、関係部門の部長のみで東北司令部に指示を送ることにした。
帝国本土北側、
佐渡が
『一昨日の三の丸西脇通りの陥没はご存じでしょうか』
「ええ、警察が捜査していると聞いております」
宮城西側の通りが長さ10メートル、深さ5メートルに渡って陥没した。幸い巻き込まれた人はいなかった。道路は今も封鎖されている。大通りと平行に走る脇通りは迂回路として利用されていたため、大通りの混雑が増していた。
電話の相手は奇妙な事を口にした。
『閣下の懸案たる話でしょうか』
「何を仰せです?」
『捜査に当たっていた警官が憲兵隊に止められました。『機密に関わる為、こちらが捜査を引き継ぐ』と隊長に言われたと』
「閣下が左様にお命じになった記憶はございません」
問い合わせはまず自分に来るので、総司令の指示ならば自分が把握していなければならない。忘れていたなら一大事だ。
『であれば憲兵部が?』
どちらにしても閣下にご報告しなければならなかった。
話を聞いた松河原総司令は眉をひそめた。
「俺は誰にも命じていないぞ?機密指定も出していない」
「で、あれば憲兵部の独断でしょうか?」
佐渡の問いに総司令は腕を組んで唸った。
陥没の裏で軍の不正があるのなら、軍部の警察たる憲兵部が動く事はある。
総司令は暫時の答えを出した。
「佐渡、調べてくれ」
「かしこまりました」
帝国軍憲兵部は軍内の秩序維持を担う。憲兵は各師団に所属する隊付憲兵隊、隊付憲兵隊を統括する憲兵部で組織される。憲兵部は軍事対象の捜査も行い、一般を対象とする警察と同じく捜査当局も持っていた。
即ち、軍が出てくるなら警察より憲兵に聞いたほうが早い。
「───当該事故の対応に指示を与えた記録はございません」
憲兵少佐の答えに佐渡は眉根を寄せる。
示された出動記録には三の丸西脇通り陥没事故の対応にあたった隊はいない事になっていた。
「無礼を承知で申し上げますが、誤記の可能性はございませんか?」
「こちらが当日の全出動記録であります。ご確認下さい」
憲兵少佐は記録簿を佐渡の前に差し出した。
『7月8日。浦賀に第1小隊を派遣。機密指定案件により葛西方面に第3小隊を派遣』
「これだけですか?」
「隊はこれのみです」
憲兵は捜査の為に私服での捜査も行う。内偵調査はたとえ書記官でも明かせないようだ。
「───分かりました。失礼な物言いをお許し下さい」
佐渡は記録簿を返して詫びた。
警察庁庁舎。
伊賀長官に呼ばれた巡査長はこわばった顔で敬礼した。交番勤務の警官が組織のトップに呼び出され、なおかつ依頼人が飾緒付きの軍人だとなれば当然だろう。
「君が陥没事故の対応を指揮したと聞いた。君の判断のお陰で二次被害を防げたのだろう」
「はっ」
「ところで、君から捜査を引き継ぐと言った憲兵について聞きたい。彼らは腕章を付けていたか?」
「はっ。付けておりました」
「では、彼らの右胸にこのような物は?」
佐渡は銅色のバッジを取り出した。
翼を広げた鷹のバッジだ。毛彫りで羽毛まで表現された精巧な物である。
巡査長はそれをじっと見つめ、答えを口にした。
「ありました」
「ほう、」
「しかし、本官が目にした物はもっと簡単な物でありました」
「なるほど」
佐渡は口辺に笑みを漂わせた。
「さすがは警官だ」
規制線の張られた道路は封鎖されたままだ。
背広に着替えた佐渡は、両側一車線の通りを覗いた。
帝都の道路の例に漏れず、アスファルトで舗装された道が続いている。両側に建つビルディングは外観が似通っている。
湿った黒色の道路は、彼の立つ交差点と次の交差点に間で途切れ、えぐり取られたように消えた舗装と下の地面が見えている。
——―落盤を上から見たらこれと同じように見えるのかもしれない。
中折れ帽を被った佐渡は見物人の風で規制線の際まで寄った。
「おい!お前!」
「はい?」
声の方に顔を向けると憲兵二人がツカツカ歩いて来る。
「なにをしている!」
「ちょうど通りかかったものですから、見物を」
腕章を付けた憲兵軍曹は目を三角にして声を荒げる。
「ここは軍の管轄だっ。さっさと立ち去れ‼」
「これはこれは。………任務ご苦労」
帽子に手をやってにこやかに挨拶した佐渡は踵を返した。
「で、あれはどうなった」
執務室の椅子に腰かけた総司令は書記官に問う。
「現場に現れた憲兵隊は偽物でございます」
「なんだと?」
総司令は目を見開き、ついで険しく細めた。
「即時対応に当たった警官に聞き、念の為私も見て参りましたが、あの者達の憲兵章は偽物でありました」
本来の憲兵章は裏にシリアルナンバーが彫られている。憲兵部の帳面で隊員と紐付けて管理されており、もし持ち主が帳面と異なっていたなら聴取される。持ち主はそれに応じなければならない。
現場にいた彼らの物は近くで見れば偽物と分かる程度の作りの鷹のバッチだった。
「知られては困る物でも出てきたのか」
憲兵相手となれば警官は警察庁の許可無しに対処はできない。
「可能性は否定できません」
「何だろうな、埋蔵金か?」
「かもしれませんな」
「おい冗談だぞ、佐渡」
真面目に応じた書記官は総司令の傍らに寄った。
「───現場に隣接する建物の内、直近まで財閥所有だったビルディングがございました。この財閥は財務省税務局によれば脱税疑惑が浮上してございます」
「───」
総司令の目が鋭く光る。
「───憲兵を騙った時点で本物に調査させないとな。脱税の真偽は財務省に任せよう。憲兵部に現場を抑えさせ次第、税務局に連絡せよ」
「御意」
総司令の前に戻った佐渡は薄い微笑を浮かべて、脇に抱えていた
「ちょうど憲兵部への令状が用意できてございます」
「見え透いた事を言う。それを見越して整えておいたんだろう」
総司令は苦笑し、令状を寄越すよう示した。
道路陥没現場にいた偽の憲兵隊は本物の憲兵に拘束された。偽物の正体は財閥創業者が雇った警備員だった。
道路下はコンクリート張りの空間になっており、札束を詰めた楽器ケースが幾つも保管されていた。
この地下空間は道沿いのビルディングと通じていた。憲兵部から報告を受けた総司令部は直ちに建物と地下空間を財務省税務局に通報。現場を譲り受けた税務局は現在の所有者と前の所有者の調査を正式に始めた。
「この忙しいのによく調べられたな、やはり分身できるのか?」
「やはり、とは?」
「ちらっと噂を聞いた」
机の上で指を組んだ総司令は上目遣いに書記官を見上げる。
「───書記官は仕事量に比して余裕がある。分身しなければ説明が付かない、とか」
「お戯れを」
書記官は失笑した。
「実際忙しいだろ、お前のところは」
奥羽地方の大雨被害復旧の為に第三部は東北司令部、参謀本部国土部門の第五部と兵站部門の第七部とのやり取りで忙しかった。書記官の職務と第三部部長の職務を抱える佐渡は多忙に多忙を重ねており、調査の余裕があったとは考えられない。
「本当に分身できるのか?できるとしたらまあ、化け物相当だが」
「できませんな」
「つまらないやつだな」
「お好みに沿いませんでしたか」
「いや?」
総司令は不敵な笑みを浮かべた。
「俺にはちょうどいい」
分身はできないが代わりになる者ならいる。
現場調査を終えて参謀本部の執務室に戻った佐渡は仏頂面の上野書記官補佐に迎えられた。
「散歩にお出かけでしたか。ずいぶん余裕がございますな」
三部は依然、定時に誰一人退庁できない忙しさが続いている。
「貴様を普通に扱っては退屈だろうからな」
背広を脱いだ佐渡は壁に掛けていた軍服に着替え直す。
「部下に多忙を強いておいてお出かけと知れたら反感を買いましょう」
「誰の反感だ?」
「中にはそう考える者もいる、とお心に留め置かれますよう」
「様々な意見があるのは良い事だ。同一意見ばかりの組織に発展は無い」
襟のボタンを閉じつつ彼は訊いた。
「外出中に何かあったか」
「第五部より道路復旧計画案を受け取ってございます。また第七部より東北司令部への災害支援物資二次補給案を閣下に承認いただきたい旨お電話がございました。ただいま閣下はご在室であられます」
「そうか。——憲兵部への指令状を用意できるか?」
「外に出る暇はございませんが、令状作成の余裕くらいは持ち合わせております」
飾緒を整えていた佐渡はさすがに苛立ちを覚えた。
「忙しいとぬかす者が貴様でなくて安心した。退庁後に文書室に赴いている者がこの程度に音を上げるはずが無い」
「部長ごときに使い潰されるつもりもございませんが」
「ほぉう?」
挑発的に目を細めた彼は、毒を吐く上野少佐を顧みる。
「それは面白い。試してみようか」
机の引き出しからクリップに挟まれた書類を取り出し相手の前に置く。
「令状作成のついでだ。財務省税務局宛に脱税者の告発状、第九部にも情報を渡しておくように。対象者と私の調査結果を渡す」
「丸投げでありますか」
「始める前から音を上げるか佐渡少佐?」
「上野であります」
いつものように訂正した上野は机上の書類に手を伸ばした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます