第19話 夜遊の声
書記官は総司令の秘書官であり補佐官でもある。
「佐渡、」
会議室より執務室に戻る中途の階段で、松河原総司令は付き従う書記官を呼んだ。
「部屋に着いたら付き合え」
「は、」
黒のステッキをつき、空いた片手に書類を入れた封筒を携えた佐渡大佐は総司令の後ろで応えを返す。
「付き合え」と仰せでもこの場合は食事や茶のことではなく、話だ。
大方いつものあれだろう。
「中々興味深い話を耳にしてな、」
例の新聞―帝都
『深夜の邸内に童の声』
記事を一読した佐渡は躊躇いがちに尋ねる。
「閣下、この現場は…」
「身内の話だ。調査はしやすいだろう?」
「ではありますが身内というわけでは」
「世話になっていると聞いているぞ?」
「仰せの通りでありますが、」
下心ありありの総司令の御顔を見て、佐渡は反論が無意味だと判断した。
「………かしこまりました」
帝国国土最大の平野、武蔵野の南東部に位置する帝都は最も多くの国民が暮らす。帝国中枢の地を守るのは警察並びに軍。特に即応部隊として守備軍団が配されている。
軍団を束ねるのが
「やあ、佐渡!珍しいじゃないか!」
自邸の門扉の前で、シャツにサスペンダー付きズボンの格好をした宇都宮は大きく片手を振った。50を超えても白髪の少ない頭に右目を横切る白い傷跡。軍人らしい頑健な体躯の持ち主だ。
「本日は閣下のご命令で参りました」
「たまには私用で来てくれてもいいんだぞ。声を掛けてくれれば菓子を用意しておく」
年を感じさせない無邪気な笑顔で宇都宮は言う。
「少将閣下もお忙しいでしょう。私ごときの為にお時間を使わせるのは心苦しい」
「気にするなよ」
佐渡は本題に移った。
「少将閣下の邸内で深夜に子供の声がする、と拝聴致しましたが」
宇都宮は「入ってくれ」と書記官を敷地内に招き入れた。
宇都宮の自邸は広い。華族の邸宅跡を買い取ったといい、庭の一角には小さな公園くらいの木の茂みがある。
子供の声はこの木立から聞こえてきたという。
木々が精力いっぱいに枝を広げており、木立の奥は薄暗い。
「どのような声でありましたか?」
「遊んでいるような声だ。何人かいたのだろう、ずいぶん楽しそうだった」
「閣下ご自身が様子を見に出られたのですか」
「ああ、まだ起きていたからな」
日付をまたいでさすがに休もうと思っていたら、甲高い声が庭から聞こえた。明かりを持って外に出ると木立の方でガサガサと何かが動く気配がする。「誰だ」と言って明かりを向けると、ガサガサガサッと一層大きな音がして低い庭木が揺れた。近づいて照らしてみたが何もいなかった。
「明かりに驚いて逃げたんだろう」
「そのようですな」
「眺めていても分からないだろう?入って調べていいぞ」
茂みの縁に寄った宇都宮は佐渡を促した。
育つに任せているのだろう、落ち葉の積もった地面は柔らかい。木々の屋根が厚く日が入りにくいせいか、奥に入るほど地面は湿っている。
落ち葉が不自然に固められている場所を見つけて佐渡はしゃがんだ。
1メートル位の獣が寝転がったように落ち葉が押し固められ、所々えぐれて土が見えている。大型動物が土浴びをしたようなえぐれ方だ。
「少将閣下、この辺りで熊やイノシシが出た事はございますか?」
「物騒な事を平気で言ってくれるな…」
帝都の真ん中に熊が出ようものなら軍が出動する騒ぎになる。
「念の為であります。お住まいになっている閣下のほうがお詳しいでしょう」
「無い」と宇都宮は答えた。
「鹿は?」「無い」
だとしたら何物の跡か。
膝をついた彼は落ち葉をさらってみた。朽ちかけた葉を掴み取り手に広げて選り分ける。
獣の毛らしき物は見当たらない。
腐葉土になりかけた葉を払い、近くの別の場所の落ち葉を調べる。
「手伝おう。何を見つければいい?」
「少将閣下にお手伝いいただくような事では」
「見ているのも手持ち無沙汰だ」
「では、獣の跡を。毛や糞を探していただけますか?」
しゃがんだ宇都宮は手で落ち葉を掻き分けた。
一周して調べたが土浴びらしきの跡の周囲にはゴム製のゴミが落ちていただけで、動物の痕跡は無かった。
立ち上がり、膝の土を払った佐渡は周囲の木の根元を見て回る。意図を察した宇都宮も毛が挟まっていないかと木の根元や幹の樹皮に目を凝らした。
「おい、佐渡。あったぞ」
近くの木の陰から佐渡を呼んだ宇都宮は獣の証拠を指し示した。
報告に赴いた書記官を前に、総司令は湯呑を持ったまま聞いた。
「宇都宮邸の童の正体は分かったのか?」
「いえ。推定はできましたが断定出来かねます」
「推定でいい」
総司令に促されて佐渡は口を開く。
「タヌキでございましょう」
木立を一通り調べたところ、糞の溜まっている場所があった。タヌキは決まった場所に糞をする「溜め糞」の習性を持つ。
タヌキは帝都の公園や寺社林で姿が見られることもあり宇都宮邸にお邪魔していてもおかしくない。
「少将が耳になされたのはおそらく子だぬきらの遊ぶ声でありましょう」
今は夏。動物たちの子育ての時期だ。
「ふぅん。たぬきか」
俺は好きな味じゃないな、と総司令はぼやく。
「宇都宮が気にしないならそのままでいいんじゃないか。俺の気分で調べさせた事だしな」
「はい。タヌキの件は少将のご一存にお任せしてよろしいでしょう」
「?」
含みを持たせた言い方に総司令は眉を寄せた。湯呑をもち上げつつ目で問いかける。
「調査の過程で別の獣の存在を示す証拠を発見いたしました」
上司が茶を飲み終えたのを視認した佐渡は机の前から総司令の傍らに身を移し、上体をかがめて声を潜めた。
「———邸内の木立の地面に逢引の跡がございました」
「あ?」
ぱっちりしていながら眼光鋭い目でじろりと書記官を見上げた彼は事を察した。
凡そ口に出せない事だ。
閣下は呆れ混じりの深いため息を放ち、背もたれに身を投げ出された。右手の指で左手の湯呑をぱちぱちと弾かれる。
茂みで見つけたのはタヌキの溜め糞だけではなかったのだった。
「少将も察せられたようでございます」
「大胆な輩だな。人の庭で密事か」
世話好きの宇都宮は敷地の一角にアパートメントを建てて若い士官の下宿屋として提供していた。
「恋は盲目と申します」
総司令は再び深いため息をついた。
恋の炎は障害が多いほど燃え上がるものである。結果が喜劇となるか悲劇に終わるかは別でだ。
「俺の気分で調べた結果だ。宇都宮に任せる」
ケモノと獣では話が違う。宇都宮七郎少将は邸宅に警備員を雇ったという。
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