野良猫と通り雨

 サーマートにとって、シーロム通りのソイ4に男を買いに来る日本人コン・イープンは、雨季にドブから這い出て車に轢かれるヒキガエルと同じぐらい、見ていてうんざりするものだった。


 彼らは総じてうるさく、偉そうで、ケチくさかった。ゴーゴーバーの男娼として数多くの人種を相手にしてきたが、が終わった後に金を床にばら撒き、口で集めさせたのは日本人だけだった。サーマートは男にセックスを売ったつもりでいたが、男はサーマートの全てを買った気になっているようだった。たった2000バーツかそこらで。


 その点、白い欧米人ファランは良かった。彼らは彼らで有色人種を蔑視しており、モノのように乱暴に扱われることも多かったが、金払いの良さで帳消しに出来た。どうせ長くできる仕事ではない。人として安値をつけられるぐらいならば、道具として高く評価される方が良い。そう考えたサーマートは独学で英語を学び、店では白人の男にばかりアプローチをかけた。


 だから、よれよれのシャツと擦り切れたズボンを身にまとった、見るからに金を持っていなさそうな若い日本人の男に声をかけられた時、サーマートは素直に「めんどくさい」と思った。


 男の風体は見るからにバックパッカーのそれで、テーブルに着いて話してみたら実際その通りだった。話す英語は文法も発音もめちゃくちゃだったが、しかし男にそれを恥じているような素振りは欠片も見られなかった。ブラウンに染めた髪と顎に生やした髭が演出する野性味と、ボディランゲージと共に放たれる子どものように拙い言語はとてもミスマッチで、はらはらと目を離しがたい魅力を放っていた。


「バンコクには、今日着いたばっかりなんだ」


 缶のシンハービールを飲みながら、男が火照った顔で呟く。サーマートは男の語学力でも聞き取れるように、つとめてゆっくりと言葉を返した。


「初日から男漁りか」

「初日だからだよ。情報を得るには、身体で語り合える仲間に聞くのが一番だ」

「じゃああんたはここに、セックスの相手じゃなくてツアーコンダクターを探しに来ているのか?」

「両方、が答えかな」


 いけしゃあしゃあと言い放つ。元より期待はしていなかったけれど、金にはならなそうだなとサーマートは改めて思った。ほとんど最後の質問にするつもりで、意地の悪い問いを投げかける。


「どうして俺を選んだんだ?」


 皮肉っぽい言い方で、都合よく使えそうな男に見えたかと言外に伝える。男は質問にすぐ答えなかった。シンハービールを飲み、缶をテーブルに置いてから、唇の端をつり上げて不敵に笑う。


「初恋の男に、似てるんだよ」


 あれから二週間。


 バーに出る前の少し早めの夕食として、自分で作ったカオマンガイタイ風チキンライスヤムウンセン春雨サラダを食卓に並べる男をぼんやりと眺めながら、どうしてこうなったのだろうとサーマートは考える。しかし考えても答えは出ない。何となく買われて、何となく家に招いて、何となく居つかれた。それだけだ。強いて言うならば、昔から野良猫に餌をやるのは好きだった。


「いただきます」


 男がいつものように、料理の前で両手を合わせて謎の呪文を呟いた。日本では一般的に使われている食事前の合図で、これからお前を食べるぞと料理に向かって宣言しているそうだ。日本人とセックスをしたことは何度もあるけれど、食卓を共にしたことは一度もないから知らなかった。思えば客と食事をすること自体ほとんどない。そういうものは求めていないし、それがいいものだとも思っていなかった。


 レンゲでカオマンガイを食べ始める。甘辛いタレの風味が鶏肉の油に混ざって広がり、舌に甘美な幸せが訪れる。タイ料理は日本にいた時から作っていたそうだが、それにしても美味い。屋台でも引いてみたらどうだと言いたくなる。


「トンチャイ」


 タイ風のニックネームで、男に声をかける。ニックネームはサーマートが勝手につけたわけではなく、日本語の名前が発音しづらく手こずっていたら、男の方から呼びやすい名前を新しく考えてくれと申し出てきた。日本語の名前に「木」という意味があるらしく、タイ語で「木」を意味するトンマーイになりかけたが、毎回「木」と呼びかけるのはサーマートがイヤだったので、トンに「男」を意味するチャイをつけてトンチャイとした。木男。


「明日は日本の料理を作ってくれよ」

「いいけど、あまり美味くならないと思うぞ」

「どうして」

「食材が日本と違う。水もだ。その土地のものを美味く食うためにその土地の料理がある。タイではタイ料理を作るのが一番いいんだよ」

「そういうものか」

「そういうものだよ」


 トンチャイがふと、何かに気づいたように食事の手を止めた。そしてサーマートの肩の向こうに視線を送る。サーマートが住んでいるマンションの一室はそこまで広くないから、トンチャイが何を見ているかはすぐに分かった。壁かけ時計だ。


「なあ」時計を見たまま、トンチャイが口を開く。「タイと日本の時差ってどれぐらいだっけ」


 サーマートは眉をひそめた。日本に行こうと考えたことすらないのに分かるわけないだろうと思いつつ、テーブルのスマホを手に取って調べてやる。


「二時間だな」

「日本の方が早いんだよな?」

「そう」

「そうか。ありがと」


 トンチャイが壁かけ時計から視線を外した。そして今度は椅子の上で軽く身体をひねり、ベランダに続くガラス戸を見やる。タイは一年中暑いから、大きな窓やガラス戸はだいたい北向きに設置されている。日の光が入らない部屋に文句を言うトンチャイにそう教えたことと、日本がタイから見て北に位置することを、サーマートは同時に思い出した。


 時刻は夕方。ガラス戸は北向き。光なんてほとんど入ってきてはいない。だけどトンチャイは、眩しそうに目を細めていた。姉の結婚式で両親が同じ目をしていたことをサーマートは思い出す。大切な者の旅立ちを見送る瞳。


「トンチャイ」


 呼びかけに反応し、トンチャイのまぶたが上がった。きょとんとした表情で振り向くトンチャイに、サーマートは笑いかける。


「明日はやっぱり外食にしよう。美味いプーパッポンカリーカニカレーの店があるんだ。それ食べて、味を覚えて、家で作ってみてくれ」


 明日よりも先の予定を立てる。それまでこの家にいてくれと懇願するように。でも、分かる。トンチャイはいつか何の前触れもなく、サーマートの前から消えてしまう。とつぜん空から降り注ぎ、人をずぶ濡れにして自分勝手に去っていく、スコールのような男だ。きっと日本でも誰かを濡らしてきたに違いない。そしてその誰かさんは、今頃トンチャイが遠い異国の地で男娼を買い、そいつの家に居候しているなんてまるで考えていないだろう。


 同情するよ、誰かさん。でもこういうのは惚れる俺らが悪いんだ。せめてあんたの服が乾いていることを、通り雨に降られた仲間として祈らせてもらう。


「それ、いいな」


 トンチャイが愉快そうに笑った。サーマートは「だろ?」と得意げに答え、レンゲによそった鶏肉を口に運ぶ。愛してるラックン。咀嚼と共に吐いたその言葉は、目の前のトンチャイに届くことなく、噛み砕かれた鶏肉と一緒に喉奥へと消えた。



(了)

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100日後に別れるかもしれないゲイカップル 浅原ナオト @Mark_UN

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