終わりと始まり
ビーフシチューの煮える音が、インターホンの音にかき消された。
圧力鍋の前から離れてインターホンを取ると、思った通り相手は茅野だった。共用玄関のドアを開けてインターホンを切った後、キッチンに戻って半分に切ったじゃがいもを菜箸でつつく。まだ固さがある。もう少し煮る必要がありそうだ。
「お邪魔します」
玄関から声が届いた。やがてリビングのドアが開き、トレンチコートを着込んだ茅野が現れる。佑馬はおたまで鍋をかき混ぜる手を止め、数か月ぶりに会った茅野に向かってにこりと笑いかけた。
「早かったですね」
「待たせてはいけないと思ったんですけど……早すぎたみたいですね」
鍋に目をやり、茅野が肩をすくめた。「確かに」と思いつつ、佑馬は否定を返す。
「そうでもないですよ。もうすぐ出来るんで、適当にくつろいで下さい」
「分かりました。ありがとうございます」
軽く頭を下げ、茅野がリビングスペースに向かった。佑馬は鍋と向き合って料理の続きを再開する。とろみがつくよう水を足しながらシチューをかき混ぜ、そろそろいいだろうというところで火を止めると、シチューの煮沸音が止まり茅野の観ているテレビの音が相対的に大きくなった。
食器棚から、深めの皿を二枚取り出してシチューをよそう。本格的に料理を始めてからおよそ二か月。一人分の料理しか作ったことがないから分量の見積もりが甘かったらしく、鍋にシチューがだいぶ余ってしまった。ひとまず蓋をして、残っても明日食べればいいだろうと割り切ることにする。
二人分のシチューとライスとサラダ、そしてスプーンとフォークを食卓に並べる。最後に麦茶を注いだコップを二つ置き、茅野と向かい合って席について準備完了。一人で食事する時も口にしていた言葉を、今度は二人で口にする。
「いただきます」
茅野がスプーンを手に取り、シチューを口に運んだ。佑馬はサラダを食べながら反応を伺う。果たして自分の料理は、もてなしとして通用するのか――
「あ」口元を手で隠し、茅野が感想を呟いた。「おいしい」
ほっと胸を撫でおろす。社交辞令かもしれないが、少なくとも、社交辞令も言えないような出来栄えではないようだ。
「良かった。料理を褒めてもらったのは初めてなので、嬉しいです」
「初めてなんですか?」
「他人にふるまう機会がないので」
「……ああ」
茅野が言葉を濁した。具体的な存在をイメージしたのだろう。自分がイメージしたように。
「樹から、連絡はなかったんですよね」
イメージを形にする。茅野が麦茶を飲み、少し声を潜めて答えた。
「はい。山田にもコンタクトを取って貰ったんですけど、無反応でした」
「山田くんで無理なら無理でしょうね」
期待していないから大丈夫だと伝えるため、感情を込めずに言葉を放つ。しかし茅野は申し訳なさそうに口をつぐみ、会話から食事に移ってしまった。微妙に気まずい空気が流れる中、つけっぱなしのテレビから天気予報が流れる。今夜は雪。交通機関の乱れに注意して下さい。
茅野からドキュメンタリーの放映を一緒に観ようと誘われた時、佑馬は最初、どう返事をするか悩んだ。
茅野に会うのは問題なかった。だが茅野は樹も呼ぶことを提案しており、そちらには会いたくなかった。はっきり言って、自分はまだ引きずっている。久保田を殴った勢いで転職し、樹の残した調理道具で料理を始め、色々なことに新しくチャレンジしているが、恋人探しはマッチングアプリを開いてすらいない。
今また樹に会えば、きっと燻っていた火が再燃してしまう。そして樹は次を見つけているだろうから、その火で焼身自殺する羽目になってしまう。そう思った。しかしそんな情けないことは言えず、佑馬は茅野の頼みを引き受け、結果、樹はこの場に現れるどころか誘いに反応を返すことすらしなかった。色々と悩んでいたのが阿呆らしくなるような結末だ。いっそ逆に清々しい。
「長谷川さん、何してるんでしょうね」
サラダのキャベツにフォークを刺しながら、茅野が独り言のように呟いた。佑馬は口の中のシチューを飲み込み、淡々と答える。
「さあ」
やがて、夕食が終わった。手伝おうとする茅野を押しとどめ、佑馬はキッチンで後片付けに入る。食器と調理道具を全て洗い終える頃には、ドキュメンタリーの放映時間がかなり間近に迫っていた。茅野はリビングのソファに座り、ドキュメンタリーの前番組であるドラマを真剣に見つめている。
「そろそろですね」
茅野の隣に座って声をかける。茅野はテレビから目を逸らさず、こくりと首を縦に振った。
「はい」
「緊張しますか?」
「します。正直、倒れそうですね」
「そんな大げさな」
「大げさではないです」
わずかな反論も許さない勢いで、茅野がきっぱりと否定を返した。
「私は春日さんの人生を変えました。長谷川さんがいなくなったのも、春日さんが転職したのも、私の仕事がきっかけです。だから私は、春日さんがそれだけの意味があったと思えるものを提供しなくてはならない。このドキュメンタリーは、ただ無事に放映されればいいというわけにはいかないんです」
茅野がゆっくりと佑馬の方を向いた。想いの込められた視線に、眉間の辺りを撃ち抜かれる。
「もし春日さんがドキュメンタリーを観て、あれだけ引っかき回してこんなものかと感じたなら、遠慮なく仰ってください。どれだけ罵倒されても構わない。私は今日、そのためにここに来ました」
茅野の両肩が、小さく震えていた。「あまり背負いすぎない方がいいですよ」。そんな言葉が脳裏に浮かび、そして気づく。ああ、そうか。あいつもきっとこういう気持ちで、俺のことを見ていたのだ。
「――分かりました」
自分だったらどうされたいかを考え、余計なことを言わずに頷く。茅野は「ありがとうございます」と安心したように笑った。荷物を奪われることで不安になる人間もいるのだ。背負いたいなら、背負わせればいい。
「長谷川さんも、観てくれているでしょうか」
「観てませんよ」
間髪入れずに答える。茅野が不思議そうに目を丸くした。
「どうしてそう思うんですか?」
「どうしても何も、観ているわけないでしょう」
「そうですか?」
「そうです」
かつて自分と樹の写真を収めていた、テレビ台のデジタルフォトフレームを見ながら、佑馬は小さく笑みをこぼした。お前はもう、俺なんて背負ってないだろうな。それでいい。そうしてくれ。俺は、そういうお前を愛していたんだから。
「あいつは、絶対に観てません」
ドラマが終わった。茅野が姿勢を整えるのに合わせ、佑馬もソファに座り直す。このドキュメンタリーがどんな出来栄えだったとしても、春日佑馬の世界は変わる。そんな予感に、伸ばした背筋がぶるりと震えた。
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