Chapter11:ON AIR
時は来たれり
映像編集ソフトを閉じ、パソコンをシャットダウンする。
暗転したディスプレイに映る、いつもより厚化粧な顔を見て、志穂の唇が小さくつり上がった。立ち上がってオフィスルームのコート掛けに歩み寄り、トレンチコートとマフラーを身に着ける。そしてデスクに戻ってハンドバッグを手に取ると、隣のデスクの斎藤が仕事の手を止めて話しかけてきた。
「もう出るの?」
「はい」
「そう。じゃあ、よろしく言っておいて。またうちに来て、今度はご飯でも食べましょうって」
「それ、オレも行きたいっす」
向かいのデスクから、山田が調子よく口を挟んできた。志穂は山田のパソコンを指さし、冷ややかな視線を送り返す。
「山田くんはまずやることやってくれる?」
「これなら、たぶん明日には終わるっすよ」
「昨日も明日には終わるって言ってなかった?」
「……なんか思ってたより大変で」
「あのね、10日かかると思ってたものが11日かかりそうとかなら分かるよ。増加率10%だから。でも1日で終わると思ってたものが2日かかかるのは増加率100%で、それは根本的に見積もりがおかしいの。自覚しなさい」
「……はい」
山田が肩をすくめた。対照的に斎藤は明るく声を弾ませる。
「怖い先輩だこと」
「山田くんは私に遠慮しないで欲しいらしいので」
斎藤がおかしそうに笑い、山田がため息を吐いた。志穂は二人から身体を背け、オフィスルームの出入り口に向かいながら口を開く。
「お先に失礼します」
「お疲れ様ー」
同僚たちの言葉を背に、オフィスルームから出る。一階に下りて玄関でブーツを履いていると、ドア越しに出て行く気配を察したのか、リビングから日出社長が廊下に出てきた。そのまま玄関まで歩いて来て、ブーツを履き終えて土間に立つ志穂に話しかけてくる。
「お疲れ様」
「お疲れ様です」
「今日のオンエア、あの子の家で観るんだよね」
日出社長の眉がわずかに下がった。言いたいことがあるけれど言いづらい心理を読み取り、志穂の方から続きを促す。
「おすすめできませんか?」
「そりゃあ、ねえ。完成した
「はい。観たら色々言いたくなるから、ぶっつけ本番でいいと」
「それなら、どんな仕上がりでも怒らないでくれるかなあ」
ぼやきながら、日出社長が頭の後ろを掻いた。日出社長の心配は理解できる。自分がこれからやろうとしていることは、はっきり言ってリスクしかない。だけどそんなものは承知の上だ。
「怒りたくなる仕上がりだった場合、怒ってもらうために行くので」
日出社長が「そっか」と呟いた。そして眩しいものを見るように、まぶたを薄く下ろして目尻に皺を寄せる。
「行ってらっしゃい」
「行ってきます」
日出社長に背を向け、スタジオを後にする。外に出た途端、真冬の冷たい風に吹きつけられ、志穂は反射的にコートのポケットに手を入れた。自分の吐く息の白さに見惚れるように前方を眺めながら、ゆっくりと駅に向かう。
駅に着く。電車に乗り、座席に座ってぼんやりと周囲を眺める。目的地に近づくに連れて心臓が引き絞られていく感覚は、まるでジェットコースターに乗っているようだった。ジェットコースターと違うのは安全性が確保されていないところ。速度が乗り出したら一つのカーブも曲がれずに放り出されて転落死。そういうことだって、十分にありうる。
降車駅に電車が停まる。下りて駅舎から外に出ると、いつの間にか空から雪がちらちらと降っていた。積もらなければいいけれど。そんなロマンのないことを考えながら、足早に駅を離れて住宅街に向かう。
歩くたび、身体の震えが増していく。寒いのか、怖いのか。きっと両方だろう。防寒と自信が足りず、そしてどちらも今さらどうしようもない。出来ることは、ただ前に進むことだけ。
進む先に、夏から秋にかけて何度も訪れたマンションの姿が見えた。そのまま歩いてマンションの共用玄関に入り、インターホンの前に立つ。部屋番号は503。番号をプッシュしてすぐ、ノイズ交じりの声が志穂の耳に届いた。
「はい」
変わっていない。そう感じるのは、きっと願望だろう。自分の仕事は彼の人生を変えた。茅野志穂という人間は、そういうことに気づかないほど愚鈍ではないし、目をつむれるほど器用でもない。
「茅野です」
「お久しぶりです。今、開けますね」
エントランスホールに続くドアが、無機質な駆動音と共に開いた。志穂はハンドバッグを握る手に力を込め、噛みしめるように呟く。
「よし」
震えが止んだ。志穂は小さな笑みをこぼし、ブーツの底を床に叩きつけてエントランスに足を踏み入れる。人事は尽くした。さあ、天命を迎えに行こう。大丈夫。どんな結果になっても、後悔だけはきっとない。
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