最終話 手をとりあって
私から自立を宣言された母はしばらく染め糸の部屋のテーブルに座り、藤原さんとなにやら話しこんでいた。
来店したお客さんの相手をしていて、私には会話の内容がわからない。
藤原さんが腰をあげ、帰り際に私へウインクして帰っていった。母もつきものが落ちたような穏やかな顔をして私を見る。
「麻琴、お母さん今から東京に帰るわ。悪かったわね、このお店を閉めろなんていって」
母がほほ笑む姿を見て、信じられない気持ちだった。あれほど、強固に東京へ帰って来いといっていたのに。いったい藤原さんはどんな魔法を母にかけたのだろう。
「お父さんに昨日連絡したら、ひとりでもうまくやってたみたいだし、これから京都にちょくちょく帰ってこれそう」
えっ? ちょくちょく、京都にくるの……。
「今までは、お父さんのお世話でなかなか東京離れられなかったけど、これからは麻琴の様子みに帰ってこれるわ。あなたのことは、藤原さんはじめ常連さんたちに頼んだし。おじいちゃんなんて、あてにならないからね」
「ま、まって。常連さんたちが私のお目付け役ってこと?」
「そうよ、お店のこともそうだけど。あの男の子のことも見張っておいてくれるって」
「し、しろくんのことは関係ないんじゃないかな?」
「あら、その子がここに一晩泊ったっていったら、藤原さんもそれはダメよって。ね、お母さんだけじゃないのよ。あなたのこと心配してるの」
えっと、藤原さんの年代ではたしかにアウトだろうけど、今は令和の時代。お泊りにそこまで目くじらたてなくても、いいんじゃないだろうか。あの藤原さんのウインクの意味は、私に都合のいいものだけじゃなかったんだ。
考えすぎだろうか。母よりもっと手ごわい人たちが、私のお目付け役になったような気がするのは。でも、心強いって思った方がいいのかな。
「お母さんも、今回地元の友達に会えなかったから。今度帰ってきたら、同窓会しようと思うの。楽しみだわ」
京都へ帰る理由は、私以外にもありそうで胸をなでおろす。そういえば、母がゆっくり帰省したことはなかった。私をいいわけにした帰省なら、歓迎したい。父には悪いけれど。
それから、母はお昼の新幹線で東京へ帰っていった。
夕方、しろくんがお店にくると、あわてたようすでぴょんと身軽にアンティークの部屋へかけあがり、私のそばへよってきた。
「あのあと、お母さんどうでした? なにか疑ってました?」
ここまでいって、ハッとしたように私の顔色をうかがう。
「疑われてもいいんです。僕はまこさんと、そういう仲になりたいんだと。ちゃんとお母さんに説明します。生半可な気持ちでキスしたわけじゃありません」
「そ、そういう仲ってなに? お母さんは何事もなく帰ったから。しろくんのこと、気にしてなかった!」
本当は盛大に誤解していたけれど、あえていわない。いうと、しろくんが喜びそうだから。
「そ、それにあれは、キスじゃなくてなめただけでしょ」
あれは、キスじゃない。ないったらない。そうしないと、まともにしろくんの顔がみられない。
「やだ! キスしたとかなめたとか、なんなん? ふたりとも何があったん?」
黄色いはやすような声が、格子戸から聞こえて来た。そこに立っていたのは、あいるさんだった。仕事帰りなのか、長い髪が少々ぼさっと乱れている。
私は全力で否定した。
「ち、ちがいます。えっと、キスとかそんなんじゃなくて……。猫になめられた的な」
私がその場をおさめようとしているのに、しろくんが邪魔をしてくる。
「まこさん、僕のこともう猫と思ってないって、いったじゃないですか」
「えっ? そんなこといった、私……」
恥ずかしさで頭に血がのぼり、自分が何をいっているのかわけがわからない。
「でも、ふたりも前世のこと乗り越えて、つきあってんねやったらよかった」
「いや、だから。つきあってませんって」
私の否定は、あっさり無視される。しろくんが、あいだにわって入ったのだ。
「あいるさんは、その後どうされたんですか、あの方と」
あいるさんは、小さく肩をすくめ上目遣いで私たちを見る。そのしぐさが、すごくかわいかった。そう、恥じらう乙女のようで。
「えっと。うちら、つきあうことになって。それで、もうすぐ同棲はじめるねん」
「えーー! 展開はやすぎじゃないですか?」
私の驚きというか悲鳴をうけて、あいるさんは赤い舌を唇から少しだす。
「はやないって。だって、生活時間が合わへんねんもん。一分一秒でもいっしょにいたいのに。いっしょに住めば効率いいし」
その言葉に、しろくんは大きくうなずく。
「たしかにそうですよね。いっしょに住めば効率的です」
私はしろくんの顔をちらりと横目でみる。まさか、僕らもいっしょに住みましょうとかいいださないだろうな。そんなことを言い出す前に、私はすばやく口をはさむ。
「今日はじゃあ、食器でも買いに来られたんですか?」
「そうそう、ペアの食器ほしなって。それと、やっぱりこのミサンガのおかげで彼に出会えたから、まこちゃんに一番に報告したくて」
あいるさんは、半そでのブラウスからのぞく左腕をあげ、手首に巻かれたミサンガを見た。そして、私の左手首へ視線をうつす。
「このミサンガ、会いたい人に会えるプラス、恋の成就にもご利益あるんかも」
あいるさんは、私としろくんを交互にみてニヤリと笑った。
「だから、私としろくんはそういう関係じゃなくて……」
あいるさんは、私のセリフを『はい、はい』と受け流し、アンティークの部屋へあがってきた。
「このフルーツのカップかわいい!」
あのスージークーパーのブラックフルーツシリーズだった。熱心にみるあいるさんの背後に立つ私の左手首が、ミサンガの上から突然つかまれた。
「あの、お願いがあるんですけど」
しろくんの低くひそめた声が耳元でする。
まさか、いっしょに住みたいとか? そ、それはおじいちゃんがゆるしても、藤原さんがゆるさないから、っていおうとしたら先をこされた。
「もうすぐ、二十六日です。糸子さんのお墓参り、いっしょにしてもいいですか」
六月二十六日……。西陣空襲の日であり、糸子さんの命日。
「うん、いっしょにお参りしようね」
私の言葉を聞き、手首をつかんでいた手は安心したようにはなれていこうとした。そのはなれていく手を、私は力強く握った。握った瞬間、びくっとしろくんの体がこわばるのがわかった。
そんな、驚かなくても。キスしたくせに……。
楽し気に食器を選んでいるあいるさんの後ろで、私としろくんはこっそり手をつないでいたのだった。
私たちの間に流れる時間は、まだはじまったばかり。
了
京都西陣の染め糸屋は、猫の手もかりたい 澄田こころ(伊勢村朱音) @tyumei
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