「選択」 ②

 起きて身支度をし、バックパック片手に階下したにあるキッチンへ。そして無言でテーブルの上に並べられているスクランブルエッグとベーコンを、適当にパンに挟む。そこにケチャップをかけ、手に持って母とは目も合わさないまま家を出る――そんな朝が何日か続いた。

 食べながら自転車で学校に向かい、途中ですぅっとRAV4ラヴフォーが近づいてきたと思ったら、助手席のウィンドウからカイリーが顔を出した。また寝坊したの? と笑うカイリーに、イーサンは曖昧に笑ってみせた。

 家族でニューヨークに行くという話がでている、自分は行かずに残ろうかと思っている、と何度かカイリーに話そうとしたが、とうとう打ち明けられないままだった。一度、カイリーのほうからなんだか様子が変よ、なにか悩み事でもあるのと尋ねられたが、イーサンはなんでもないと答えた。

 そうだ、なんでもない。なにも悩んでなんかいない。自分はオレオとあの家に残ると決めたのだ、だからなにも云う必要なんかない――自分を見つめるカイリーにキスを落としたとき、離れるなんてありえないと、イーサンはあらためて決意を胸に刻んだ。

 土曜の夜、ベッドに入ってからスナップチャットで話しこみ、ようやく眠りに落ちたのは四時まであと二十五分か二十六分という時刻で――目覚めたとき、時計の針はもう朝の十時を指していた。


「――なにやってんの?」

 階下したへ下りると、マデリンが玄関から廊下、リビングとそこらじゅうに物を広げ、なにやらクローゼットを引っ掻き回していた。

「おはようイーサン。来週ガレージセール*をやろうと思ってね、整頓してるのよ」

「ガレージセール?」

「ええ。要らないものはもう処分して、持っていくものは持っていくもので、少しずつまとめておかないとね」

 アパートメントには家具がついているし、古いキャビネットなんかは部屋に合わないし、要るものは買い替えないと――そう云ったマデリンに、イーサンは呆れたように息を吐いた。

「俺はこの家に残るって云ったのに、無視かよ。ああ、いいよいいよ、俺の部屋だけ触らないでくれれば。この家が空っぽになったって、俺は絶対残るからな」

「いいかげん聞き分けのないことを云うのはやめるんだ、イーサン」

 そこへ、アーウィンが現れた。頭にタオルを巻き、袖まくりをした恰好を見ると、どうやら父も荷物の整頓とやらを手伝っていたらしい。むっとしてイーサンは「どっちがだよ。自分らのことしか考えてないくせに――」と、部屋を出ていこうとした。が。

「イーサン! ちゃんと話を聞け!」

 珍しく父が声を荒げ、イーサンはびくりと足を止めた。

「父さんも母さんも、いろいろ悩んだんだ。おまえのことも、オレオのこともだ。……考えてみろ、おまえは行くならオレオも当然連れていくべきだと思ったようだが、引っ越し先はマンハッタン、大都会のハイライズアパートメントだ。外にはもちろん出られない、窓だって迂闊に開けられない。窓の外に出たって樹なんか生えてやしないし、屋根にだってあがれないんだ。芝生の上を雀を追って走りまわったりもできない。アスファルトに囲まれたコンクリートの建物の中で、部屋にずっと閉じ込めておくことになるんだぞ!」

 アーウィンの剣幕に、イーサンはなにも云い返せずただ立ち尽くした。その場に凍りついてしまったかのようなイーサンに、マデリンが近づき優しく肩に手を置く。

「……そうよ、イーサン。云ったでしょ。私たちだってあなたと同じにオレオのことが可愛いの。……今まで当たり前に外に出て自由に過ごしてきたオレオを、緑も見えない部屋の中に閉じ込めておくなんて、そのほうが可哀想よ。最初から部屋の中でだけ飼ってたならともかく、オレオは外の世界を知っているんだから……。本当に大切に思うなら、オレオの幸せを考えてあげて」

「だから、俺はオレオと残るって――」

「だめだ。マリファナを一緒にやるような友達のいるところに、おまえだけ残していくわけにはいかない」

「……そんなの、どこだって同じだろ。どっちかっていうと、ニューヨークのほうが治安は悪い気がするけど」

「だから父さんや母さんの目の届くところにいろと云ってるんだ。おまえはまだ、自分のしでかすことに責任のとれる歳じゃない。父さんたちには親としての責任がある。家は不動産屋と相談してもう売り出し広告も出しているし、転校の手続きだって始めてる。一緒に行くんだ、イーサン」

 もう既に転校の手続きまで! 自分が承諾していないのに、勝手に――イーサンは驚きに見開いた目で父を睨みつけ、忌々しげにその場にあった古い椅子を蹴り倒した。

「ちくしょう、もう好きにしろよ! 俺も好きにする、学校なんか辞めて仕事をみつけてオレオと暮らす! ニューヨークなんか絶対行くもんか!!」

「イーサン!!」

「イーサン、待ちなさい!」

 肚の底から叫ぶようにそう云うと、イーサンは自分を呼びとめる声を振り切って駆けだした。





 一心不乱に走っているうちに、イーサンはいつの間にかカイリーの家にやってきていた。カイリーは出掛けたりせず家にいたのでよかったが、彼女の家族も皆在宅だった。

 ジーンズにタンクトップとカーディガンという恰好だったカイリーは、ちょっと待っててと云ってデニムジャケットを羽織ってきた。イーサンの様子がどことなくおかしいことに気づいたらしい。公園にでも行って話しましょうと、カイリーはイーサンの腕に手をかけた。

 広い舗道を歩く途中、なんだか今日は寒いね、とカイリーが絡めている腕に力を込めた。イーサンは空を見上げた。遠くの空を、黒く厚い雲が覆っているのが見える。雨になるかもしれないと思いながら、イーサンは何度となく歩いた、慣れ親しんだ道を進んだ。

 やがて公園に辿り着き、カイリーと並んでベンチに腰を下ろすと――ようやくイーサンは「実は……親が、ニューヨークに行くことになったんだ」と、父の転勤について話し始めた。

「ニューヨーク?」

「うん……、マンハッタンのアッパーイーストサイドにあるアパートメントだってさ。冗談じゃないよな、そんなところじゃオレオが可哀想だろ。だから俺だけ残ろうと思ってるんだ」

 そう云って、イーサンは熱い眼差しでカイリーを見つめた。「……もちろん、カイリーもいるし」

 しかし、彼女の反応は想像したものと違っていた。

 途惑ったような、少し困ったような彼女の表情に、イーサンは訝しげに眉根を寄せた。

「カイリー?」

「イーサン……私も、話があったの。ちょっと前から云わなくちゃ、云わなくちゃって思ってたんだけど……」

 そんなことを云いだしたカイリーに、イーサンはベンチの背凭れに手をかけ、向き合うように坐り直した。

「話って?」

「……留学するの」

「え?」

「私、ずっと夢だったの。日本に行きたい、日本で暮らしたいって……やっとパパを説得できて、来年の春から東京の学校に行けることになったの。日本は四月スタートだから……」

 留学? 日本? 東京?

 わかりたくない言葉が頭の中をぐるぐると回っている。イーサンは、出来の悪いジョークでも聞いたかのように、唇を歪めて笑った。

「日本だって? そんなこと、今まで一度も云わなかったじゃないか」

 しかし、カイリーの表情は真剣だった。イーサンの表情から、無理に作った笑みがすぅと消える。

「私が日本のアニメを好きなのは知ってるでしょ? 秋葉原とか原宿とか、ずっと行きたいって思ってた。でもパパが厳しいから、無理だって諦めてたけど……やっと認めてもらえたの。でね、十二月の休みホリデイブレイクに入ったらすぐ東京に行くの。もう決まったの」

「ホリデイブレイクって……なんでだよ? 留学って、学校は四月からなんだろ? どうして十二月からなんて」

「学校が始まる前に、日本語学校で言葉や日本独特の習慣なんかを勉強しておきたいの。今までも日本人の友達とチャットしたり、アニメを視て独学で覚えたから、少しはわかるけど……。ママも一緒に、新学期の始まる四月まで生活してみるのよ。それがパパの出した条件だったから」

「で? 四月になったら独り暮らし?」

「ううん、学校の寮に入るの。これもパパの条件。学校も女子校よ」

 ――ばかな。ありえない、とイーサンはカイリーから目を逸らし、かぶりを振った。

 オレオのことももちろんあるが、自分がニューヨークに行かず残ろうと考えたいちばんの理由はカイリーだ。カイリーと離れるなんて考えられなくて残るつもりだったのに、カイリーは日本に行ってしまうだなんて――そんなこと、これっぽっちだって話してくれたことはなかったのに。

「……俺とは? どうするつもりだったんだよ。ビデオチャットでデートするのか? こっちに帰ってくるのは一年後? 二年後?」

 イーサンはカイリーの表情の変化を微塵も見逃すまいとするかのように、じっと見つめた。

 やや俯き気味に、カイリーは言葉を押しだした。

「……ごめんなさい、イーサン。でも、私たちまだ十六歳よ。勉強にも集中しなくちゃいけないし、これからもっといろんな人と出逢って人生経験だって積まなくちゃ。……イーサンも、オレオは可哀想かもしれないけど、ニューヨークで暮らせるなんてそんなチャンスを逃したらもったいないわ。考え直すべきだと思う……」

「はっきり云えよ。終わりなんだな? 私はトーキョー、あなたはニューヨーク、じゃあお別れね、って?」

 イーサンは立ちあがり、吐き棄てるように云った。「あっさりしたもんだな。そんな簡単に切り棄てられるくらいにしか想われてなかったなんて、がっかりだよ。バイバイ、カイリー。さよならだ」

「イーサン……」

 自分を憐れむような声が背後から聞こえたが、イーサンは振り向かなかった。振り向けなかったのだ。

 ぽつん、と額に落ちた雨粒に空を仰ぎ、大きく溜息をつく。

「別に、怒ってやしないよ……よかったよ。たいして想われてもいない女のためにひとりで残ることにならなくて。雨降ってきたぞ、カイリーもさっさと帰れよ」

 一息にそれだけ云うと、イーサンは着ていたウインドブレイカーを脱いで後ろ手に放り、走りだした。イーサン待ってと声が聞こえたが、もう話すべきことなどなかった。

 自分と違い、カイリーは自ら望んで日本へ行くのだ。自分との付き合いよりも、日本に留学することのほうが彼女にとっては大事なのだ。なにを云ったって、どうしたって無駄なことだ。

 ばらばらと降りだした雨が、駆けていくイーサンの頬を濡らした。



 家に戻ると、アーウィンとマデリンが整頓していた荷物を車庫の中に仕舞っていた。急に降ってきちゃって参ったわ、と云いながら奥から出てきたマデリンが、Tシャツ姿でずぶ濡れになって立ち尽くしているイーサンを見て目を瞠る。

「イーサン……! 早く家に入りなさい、入って熱いシャワーを浴びて。風邪をひいてしまうわ」

 その声を聞いてか、アーウィンも外に出てきた。目が合った。なにか察したのか、なにも云わずただじっと自分を見つめる父に、イーサンは引き結んでいた唇を開き――一度深呼吸をし、云った。

「……ニューヨークへ、一緒に行くよ……」

 マデリンが持っていたタオルで髪や顔を拭おうとしたが、イーサンはそれを避けるようにして仰向いた。

 頬に雨粒が当たるのを感じながら、独り言のように言葉を紡ぐ。

「カイリーとは別れたよ。……オレオは、近所の誰かにおねがいして。ちゃんと、大切に可愛がってくれる人に。それで、俺がここに残る理由はもうないから――」

 降る雨から庇うように両親に抱きしめられ、イーサンは家の中に入った。



 シャワーで冷えた躰を温めてスウェットスーツに着替え、イーサンは階下へ下りていった。キッチンを覗くと、ちょうどよかったとマデリンがロブスタービスクのスープを出してくれた。

 カウンタースツールに腰掛け、クリームチーズを塗ったブラウンブレッドにハムを挟んだだけの簡単なサンドウィッチと温かいスープで腹を満たすと、なんだかほっと気が緩むのがわかった。

 普段、当たり前にいてくれるから気づかないが、実は離れることなどいちばんありえなかったのは、カイリーでもオレオでもなく、母かもしれない。そんなことをふと思い、センチメンタルになっている自分に気づくとイーサンは苦笑した。

 ごちそうさま、とマデリンに声をかけ、イーサンは部屋に戻ると、なんだか疲れを感じてベッドに横になり――程無くうとうとと眠ってしまった。




       * * *




 夕食後。イーサンはあらためて引っ越しの日取りや、ニューヨークで通うことになる学校のことなど、細かいことまでじっくりと話を聞いた。来週の土日にはガレージセールをやり、その後には残ってしまった不用品の処分もするという。

 それを聞いてイーサンは、自分の部屋にも幼い頃の玩具など、ガラクタがいっぱいあると云った。アーウィンが、まだ一週間あるからゆっくりまとめればいいと頷く。

 そして少し間をおいて、マデリンがイーサンの顔色を窺うように話しだした。

「――でね、オレオのことなんだけど……ケイティにおねがいしようかと思ってるのよ。あそこは犬も猫も飼ってるし、いい人だから」

「いい人なのは知ってるが、先住がいると相性が悪かったりすることもあるんじゃないのか」

「でも、飼ったことのない人だと心配でしょう」

 ふたりの話に耳を傾けながらイーサンは、ふとオレオの水入れに目をやり、ダイニングテーブルの周りをきょろきょろと見まわした。

「あれ……オレオは?」

「そういえば朝から見てないわね」

 それを聞いてイーサンは眉をひそめた。

「朝から?」

「家の中をごそごそひっくり返していたから、どこかに隠れてるんじゃないか」

 甘えん坊なオレオはこんなふうに家族が集っていると、いつも必ず傍にいる。見えるところにいないなんて珍しいなとイーサンはなんとなく気になり、「寝てるのかな、ちょっと見てくる」と、席を立った。

 イーサンはキッチンを覗いてみたあと、踵を返してダイニングルームを横切りリビングへ向かった。いつも寝ているソファのクッション、窓の傍のキャビネットの上、庭から出入りする掃き出し窓のカーテンの陰。オレオの姿はリビングには見当たらず、イーサンは廊下を「オレオー?」と呼びかけながら進み、両親の寝室を開けた。

 明かりをつけ、ベッドの向こう側まで捜してみたが、ここにもオレオはいなかった。寝室を出て、今度は階段を上がり、自分の部屋のドアを開ける。いない。ゲストルーム兼物置のようになっている隣室にも、バスルームにもどこにも、オレオの姿は見当たらなかった。

 階段を駆けおりていき、玄関を開け放つと激しさを増していた雨が風といっしょに吹きこんできた。慌ててドアを閉め、イーサンは思った――こんな天候のなか、外にいるはずがない。いつもなら薄暗くなる頃に、必ず帰ってきている。

「いないのか?」

 アーウィンも玄関にやってきた。イーサンは「いない……でも、家の中にいるはずだよ。どこか戸棚の中にでも入っちゃったのかも」と答えながら振り向き、ぐるりと見まわすように視線をさまよわせた。

「荷物を出すのにあちこち開けてたから、知らないあいだに入ってしまって、閉じこめられてるのかもしれないわね」

 マデリンもそう云い、三人は手分けしてオレオが入りこみそうな場所を、隈なく捜し始めた。クローゼット、チェストの抽斗、ベッドの下、キッチンの戸棚。そしてまさかと思いながら、洗濯機の中まで――

 しかし、三人がそうして一時間もかけて捜し続けても、オレオはみつからなかった。









───────────────────

※ わかりやすいように「ガレージセール(garage sale)」と記していますが、アメリカでは、引っ越し前に行うセールのことは「ムーヴィングセール(moving sale)」と云うようです。





[Track 08 - Rhythm of the Rain/Crying in the Rain 「選択」 ③ へ続く]

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