「湖畔の誓い」 ②

 レインウェアとブーツカバー、防水仕様のグローブと、今度はしっかり雨天走行の装備を整え、ライアンはバイクを走らせた。

 本当はフルスロットルで限界までスピードを上げ、一刻も早くジョシュのもとへと戻りたかった。が、事故を起こしてしまっては元も子もない。ライアンは自分に繰り返し言い聞かせ、逸る気持ちを抑えた。

 リヴィを殺してしまった――ジョシュはそう云った。いったいなにがあったのか。しかし、まったく想像できないことでもなかった。なにがあったにせよ、原因を作ったのはあの女に違いない。結果がどうあれ、きっとジョシュは悪くない。

 ライアンは慎重なライディングで悪路を走り続け、なんとか転倒したりすることなく別荘に辿り着いた。ヘルメットは外すなりデッキに放り投げ、ブーツカバーを脱ぐのももどかしく、レインウェアも着たまま中へと駆けこむ。すると――

「ジョシュ……!」

 スタジオ代わりにしていたリビングに、ジョシュが放心したように突っ立っていた。ライアンはその姿を見てぎょっとした――ジョシュの着ているセーターはところどころ赤く染まり、髪も血がこびりついているかのように濡れて固まっていた。

「なにがあった……、おまえ、大丈夫なのか? リヴィは?」

「俺は……なんともない。これは血じゃないよ、ミネストローネだ」

 ジョシュは、電話で話したときよりは落ち着いているようだった。それとも反動で麻痺しているような状態なのかもしれない。ライアンはミネストローネと聞いてジョシュの脇を通り過ぎ、キッチンを覗いた。

 椅子は倒れ、床には割れたグラスや皿とその破片が散乱していた。そしてミネストローネらしい赤いスープと一緒に、じゃがいもや人参らしいカットされた野菜もばら撒かれていた。よく見てみるとそのなかにはベーコンと、ビーツも混じっていた。どうやら食べ慣れたミネストローネよりずっと赤いのは、ビーツを入れたからのようだ。

 そして、これらを煮ていたのであろう鍋の傍にリヴィが横たわっていた。

 鍋は、それほど大きくはないが鋳物の、重そうな鍋だった。リヴィは仰向いた状態で床に躰を投げだし、ぴくりとも動かない。

 赤く濡れているところを踏まないよう近づくと、リヴィの金髪も一部が赤く染まっているのが見えた。その傍には飛沫痕があった。同じように赤いが、どうやらこっちはミネストローネではなく、リヴィの頭から噴き出した血のようだった。

「……もう、別れようって云ったんだ……。怒らせないように言葉は選んだつもりだったけど、リヴィはいきなり喚きだして……テーブルにあったものとか投げ始めて……、俺、止めようとしたんだけどリヴィは鍋を持って、中身を俺にぶっかけて……まだ温めかけたところで熱くなくてよかったけど、そう云ったら今度は庖丁ナイフに手を伸ばしたんだ……。で、それはさすがにまずいと思って彼女の腕を掴んで……、そしたら揉み合いになっちまって……」

 それを聞いてライアンはもう一度しゃがみこみ、リヴィとその周りをよく見てみた。リヴィの足の辺りにはミネストローネを踏み躙ったような跡があり、頭の傍に転がっている鍋の縁には数本の金髪と、血がついている。

 なるほど、とライアンは顎に手をやりながら、ジョシュに向き直った。

「……中身をぶち撒けたあと放りだした鍋に、滑ってひっくり返ったとき頭をぶつけたんだな。そうだろ?」

「いや……俺、もしかしたら俺が突き飛ばしたのかもしれない――」

 ライアンはジョシュに近づき、しっかりしろと云うように肩を掴んだ。

「ジョシュ、違う。見てみろ、そこに足を滑らせた跡がある。おまえはなにもしてない。こんなの自業自得だ。おまえの罪になんかならない。だから、今からでも警察に――」

「いやだ!!」

 警察、と聞くとジョシュは怯えたように首を振った。

「警察なんていやだ、無理だよ。俺、訊問とかされたらきっと自分が殺しましたって云っちまう」

 ライアンは言葉に詰まった。確かに気の弱いジョシュのことだ、強面の警察におまえがやったんだろうなどと責められ続けたら、やってもいないことでも自供してしまいそうな気はした。そうでなくても自分が突き飛ばしたかもしれないと云っているのだ。彼女が勝手に滑って転んだと主張しろというのは無理かもしれない。

 しかし、じゃあどうするか――不安そうな、今にも泣きだしそうな表情のジョシュの顔を見つめながら、ライアンは肚を決めた。

「ジョシュ、わかった。警察はなしだ……とりあえず、この場は俺に任せて、おまえはシャワーを浴びて着替えてこい。酷い有様だぞ」

「任せて……って、ライアン、いったいどうするつもりなんだ……?」

「いいから。おまえはそのトマト臭い服を脱いだらシャワーを浴びて、ビールでも飲んでもう寝ちまえ」

 云いながら冷蔵庫を開け、ライアンはミラーライトの缶を二本出してジョシュの手に押しつけた。

「わかったな? ほら、一階ここはちょっとばたばたするから、階上うえの部屋でゆっくりやすんでこい」

 夢遊病者のようにふらふらと階段を上がっていくジョシュを見送ると、ライアンはさて、と振り向き、赤く濡れている床を眺めた。




       * * *




 床に散らばった破片や野菜の欠片を掃き集め、ライアンはトマト臭くなった床をすっかり綺麗に拭い去った。親がどうやっていたかを思いだし、酢と水を混ぜて絞った雑巾で丁寧に拭き掃除をすると、臭いもかなりましになったようだった。

 あとは割れたものの始末――漂白剤を使って洗った鍋の中に纏めて入れ、空き瓶などの置かれていた裏手に出した――をしてテーブルや椅子を置き直すと、キッチンはすっかり元通りになった。

 いったん二階に上がり、シャワーを浴びて着替えると、ライアンは汚れた服を持って部屋を出、ジョシュの様子をそっと覗いた。

 眠れていないかと思っていたが、意外なことにジョシュはベッドに入り、静かに寝息をたてていた。シャワーのあと、云ったとおりにビールを飲んだのだろう。ライアンはほっとした。

 転がっている空き缶と、脱ぎ捨てられていたセーターを持って、ライアンはまた一階に下りた。掃除に使った雑巾といっしょに、ジョシュのセーターと自分の着ていた服を纏めて袋に入れる。外にあるドラム缶を利用した焼却炉で燃やしてしまうつもりだが、まだ雨はやんでいなかった。しょうがないのでとりあえず割れ物と一緒に外に出し、そこにあった古いテントか幌だったらしいポリエステル帆布を掛け、重しを乗せておく。

 そうしてライアンはほっと一息つくと、冷蔵庫からビールを取りだした。

 一息に半分ほど飲み、缶をカウンターテーブルに置くと、ライアンは主寝室へと入っていった。ジョシュの着替えを持って上がっておいてやろうと思ったのだ。

 ジョシュの服はすぐにみつけられた。ワードローブの中はリヴィの高価そうな服ばかりで、ジョシュの荷物はダッフルバッグに入ったままだったからだ。どうやらこのバッグだけ持っていけばいいようだなと、ライアンは部屋を出ようとしたが――なんとなく気になり、ワードローブ横のチェストも開けてみた。

 いちばん下の抽斗から順に引いてみる。濃いピンクや赤、黒と派手な色をしたレースの下着とソックス、手袋、ストールに時計やネックレスなどのアクセサリー。そしてたっぷり大麻ウィードの詰まったバッグと――

「……こんなもん、持ってやがったのか」

 グロック43があった。9mm口径、小型で携帯しやすい拳銃ハンドガンである。

 まあこんな寂しい場所に来るのだから、護身用に一丁くらい持っていても不思議ではないのかもしれない。小型なものを選んだのも隠し持つためではなく、小さな手に合わせてのことだろう。

 ライアンはその銃を手に取り、弾倉マガジンを抜いて弾が入っているかどうか見てみた。薬室チャンバーは空のまま、マガジンは6発ときっちり弾が詰まっていた。

 ライアンはマガジンを戻し、構えて感触を確かめると、ジーンズのベルト部分に挟みこんだ。

 銃が見えないように着ていたシャツの裾を整え、ライアンは次にチェストの上に置いてあるモノグラム柄のバッグに目を留めた。革のバッグの中には小花模様の長財布が入っていた。ジッパーを開けると、びっしりとカードの類いが並んでいた。そして、そのカードの数に負けない厚みの、紙幣の束。

 いくらあるのか数える気もしない。ライアンはその札束をごっそりと抜きだし、それもジーンズのポケットに突っこんだ。



 ――翌日。雨がやむ気配は一向になかった。キッチンでハムやチーズなど、適当にあるものを挟んだだけのサンドウィッチを作り、ライアンはそれとオレンジジュースのボトル、そしてマグ二つを器用に持ち、ジョシュのいる部屋へ行った。

「ジョシュ、起きてたか。腹が減っただろ。一緒に食おう」

 ジョシュはベッドで半身を起こし、ぼうっと窓の外を見ていた。なんだか様子がおかしいような気がしたが、まあそれも無理もないかと苦笑する。

 ライアンはサンドウィッチの皿とマグをサイドテーブルに置き、ベッドの端に腰を下ろしてジュースを注いだ。

「あんまり考えこむなよ。俺も早くここを出たいけど、まだ雨がやまない。おまえとタンデムして行くのに、泥濘ぬかるんだ道はなるべくなら走りたくないしな。晴れるまでここにいよう」

 リヴィの車はあったし、失踪したように見せかけたいなら彼女の車でどこか遠いところまで行って、乗り棄てたほうがいいのかもしれなかった。けれども、とライアンは顔を顰めた。

 リヴィにはいろいろと云ってやりたいことがたくさんあったが、車の趣味にケチをつけたくなったのは初めてだ。真っ赤なジープ・ラングラー――いくらなんでも目立ちすぎる。金持ちらしく、せめて白か黒かシルバーのグランドチェロキーにでも乗っていてくれれば、こんな場所からとっくにジョシュを連れだしていたのに。

「……ジョシュ? 聞いてるか?」

 ジョシュは、話しかければこくこくと頷きはするのだが、やはりどこかおかしかった。

「ジョシュ、どうした。おい大丈夫か、どこか具合でも悪いのか」

 リヴィを殺してしまったと気に病んで、おかしくなってしまったのだろうか。ライアンはとりあえずジュースを飲ませようとマグを取ろうとして――テープルランプの影にあった白いピルケースに気がついた。

「……おい、おまえ……」

 ピルケースにはXanaxザナックスと記されている。パニック発作や不安障害の患者に処方される薬だが、一部の若者たちが好んで乱用すると問題になっているものでもあると、ライアンは知っていた。

「ジョシュ、しっかりしろ! どれだけ飲んだ」

「ひっ……、ごめん……。もう君の云うとおりにするから、ゆるして……」

 混乱している。どうやら自分のことをリヴィだと思って話しているらしい。ライアンはくそ、と小さく毒突くと、ジョシュをベッドに寝かせてピルケースを持ったまま、バスルームへと向かった。

 鏡の裏にある収納メディスンキャビネットを確かめると、手にしているのと同じ白いピルケースと、オレンジ色のものがいくつかあった。くるりと回してラベルの文字を読む――アスピリン、タイレノール、パラセタモール。これらはたいていどこの家にもあるものだ。しかし。

「……いったいなんだってこんなもんまであるんだ」

 ハルシオンもやや問題のある睡眠導入剤だが、パーコセットまであるのを見て、ライアンはザナックスならまだましだったのかもと思った。パーコセットはオピオイド系の強力な鎮痛剤だ。乱用による危険度はザナックスの比ではない。

 どうやら白いケースのほうはここへ来た誰かが置いていったものらしい、とライアンは推測した。おそらく自分たちがバンドを始める前に、リヴィとつるんでいた奴だろう。ティムやブレイデンのことはよく知っているが、彼らのものだとは思えなかった。

 ライアンは舌打ちをし、なぜ気づかなかったのかと己を責めた。あんなことがあったあと、ジョシュがぐっすりと眠っていたのは薬を使ったからだったのだ。最悪な事態にならなかったのはただの運だと思い、ひやりとする。

 とにかく、ジョシュの手の届くところにこんな薬を置いておくわけにはいかない。ライアンはピルケースを全部ポケットに突っこむと、ジョシュがまだ眠っているのを確かめて部屋を出た。









[Track 07 - The Crystal Ship 「湖畔の誓い」 ③ へ続く]

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