「湖畔の誓い」 ③

 ジョシュは薬を取りあげたおかげか意識もしっかりし、ちょっとずつ落ち着いてきたようだった。ライアンは懸命にジョシュの世話を焼き、残っていた食材で慣れない料理まで作ってみたりした。

 そうしているうち、三日も降り続いていた雨がようやくやんだ。

 夕暮れ時になって鉛色の厚い雲が遠ざかり、窓からオレンジ色を帯びた陽が差しこんだのに気がつくと、ライアンはジョシュに外の空気を吸いに行こうと云った。

 ソファに掛けられていた厚手のスローに包まり、ジョシュは何日かぶりに外へ出てきた。ライアンはその背中をそっと支え、桟橋までゆっくりと歩いた。

「……綺麗だ」

「ああ。綺麗だな」

 湖面に空が映りこみ、鏡に合わせたように朱色と瑠璃色が混じり合って三層のグラデーションを作っている。沈もうとする夕陽は水面に黄金色の光を伸ばし、まるで蝋燭の炎のように揺らめいて、きらきらと輝いていた。

「――ライアン」

「ん?」

 名前を呼ばれ、ライアンはジョシュの顔を見た。ジョシュは湖を見つめたまま、静かな声で言葉を続けた。

「彼女の死体、ここに棄てたんだな」

 ゆっくりとジョシュがこっちを向く。ライアンはなにも答えず、黙ってジョシュを見つめ続けた。

「ボートがなくなってる。穴でも開けて、死体を乗せて流した?」

「……ジョシュ」

 ライアンはゆるゆると首を横に振った。「おまえはなにも知らなくていい。おまえはなんにもしてないんだ。忘れろ。もう気にする必要はない。大丈夫だ」

「ごめん、ライアン……。とんでもないことに巻きこんじまって……」

「ジョシュ、いいんだ。もうなにも云――」

「ライアン、俺のこと好いてくれてるんだろう?」

 予測できなかったその問いに、ライアンは云いかけていた言葉を呑みこんだ。

「俺、知ってた……っていっても、リヴィに云われて気づいたんだけど。……で、そうなのかなって意識するようになってから、ライアンの態度とか視線とかで、本当にそうなんだって確信したんだ。でも、そうだとしてもライアンは俺に無理強いしたりしない、友達でいいって思ってくれてるんだっていうのもわかった。

 俺は卑怯だ……俺は、ライアンが俺のことを想ってくれてるのを利用したんだ。他の誰にも電話しようなんて思わなかったよ……ライアンなら、俺のためにきっとなにかしてくれるって甘えたんだ。最低だよな」

 ――胸を掻きむしって心臓を抉りだしてしまいたいほど苦しい。ライアンは溢れだしそうな激情に顔を歪め、云いたい言葉を口にできず、ジョシュから顔を逸らした。

「ライアン……。俺、ライアンに償わなきゃ。なにをしたってライアンが俺のためにしてくれたこととは比べ物にならないかもしれないけど……こんなこと云うとバカにするなってライアンは怒るのかもしれないけどさ、俺、ライアンとなら寝てもいいよ。俺はゲイじゃないけど、ライアンのことは好きだから」

 耳に届いた言葉に、ライアンは顔を上げてジョシュに向き、莫迦なと口許だけ歪めて笑った。

「ジョシュ、バカなこと云うんじゃない。ほんとに怒るぞ。……ああ、俺はおまえのことがずっと前から好きだ。だけど、そんなことは――」

「わかってる、ごめん! ……別に俺だって、お礼のつもりでこんなこと云ってるんじゃないよ。でもなんか……なんだか、気が済まないっていうか、ライアンのためになにかしたいんだ! ……そうしないと、俺……」

 切実に訴えるジョシュに、ライアンは切なげに微笑んで頷いた。

「……じゃあ、キスだけ」

 ジョシュにそっと手を伸ばし、ライアンはゆっくりと顔を近づけながら親指で唇に触れ――優しく頬にキスをした。

 不思議そうな顔をしているジョシュに、くすりと笑う。

「いいんだ、ジョシュ。俺はこれからも友達として一緒に過ごせたら、それで充分だよ」

「ライアン……」

 今までもずっとそうだった。ライアンは思った――ただ一緒にいられさえすれば、それだけでいい。

「明日はきっといい天気だ。夜のうちに道も乾く。なにも心配することはない、大丈夫だ。朝になったらなにもかも忘れて、一緒に帰ろう。……もし秘密を持ったまま今までのとおりに過ごすなんて無理だって云うんなら、どこか遠いところに行ったっていい。安心しろ、どこへだって付き合ってやるさ」

 肉体の結びつきなどどうでもいい。土の下で薔薇の根が絡まるような、ひっそりと深く固い繋がりを求めたっていいじゃないか。俺たちはきっと、今のままがいい。

 誓うよ、ジョシュ。おまえのことは必ず俺が護る。そのために、俺はおまえの傍から決して離れない――奇蹟のような美しい景色を眺めながら、ライアンはそう胸に刻んだ。

 そして湖が夕陽を呑みこみ、辺りがすっかり暗くなった頃。

 この場所での最後の夜を過ごすため、ふたりは別荘内へと戻った。





 ピピピピ、ピピピピ……というアラーム音で、ライアンはまだ暗いうちに起きだした。ジョシュを起こす前に、赤く汚れたセーターや雑巾、血痕が付着したウェアを燃やしてしまいたかったからである。

 すっかり身支度を整え、階段を下りようとしてライアンは、ふとなにかに呼ばれたかのような、引き寄せられたような気がしてジョシュの部屋を見た。耳を澄ましてみるが、特になんの物音も聞こえない。静かだ。ジョシュはまだ眠っているのだろう。

 なのになぜか、妙に気にかかってしょうがなかった。

 ライアンはその感覚の正体がなんなのかわからないまま、部屋のドアを開けた。

 そっと覗いてみる。ベッドにジョシュの姿はなかった。ドアを大きく開き、部屋の中に入る。が、そうしてもジョシュの姿はどこにも見当たらなかった。

「ジョシュ?」

 どこへ行ったんだろうとライアンは首を傾げた。そして静かな室内をぐるりと見まわし――バスルームの明かりが灯っていることに気づいた瞬間、すぅっと全身の血の気が引いた。

 駆け寄ってバスルームの扉を開ける。「ジョシュ!!」と上擦った叫びが漏れる。ライアンは両脚を投げだし坐っているジョシュの躰を抱き起こし、頸に巻きついているシールドケーブルを引っ掛けてあるシャワーフックから外した。乾いたバスタブの中からだらりと弛緩した躰を引き摺り出し、タイルの上に崩れるようにへたり込む。そして抱きかかえたジョシュの頸に巻きついているそれを、ライアンは震える指で必死に解いた。緩い輪になったところで頭から抜き、忌々しげに投げ棄てる。

「ジョシュ、どうしてこんな……! ジョシュ、ジョシュ……!! しっかりしろ、息をしてくれ……!」

 揺さぶり、腕や胸を撫で摩すり、頬を叩いてみたが、ジョシュは目を開けそうになかった。躰はもうすっかり冷たくなっていた。もう死んでから一、二時間は経っている。手遅れだ。

 抱えている腕にずしりと重みを感じる。人ひとり分の、自分にとってなによりも大切な人の――そして、真実を伝えなかったことの代償の重み。

「ジョシュ……違うんだ……、おまえは本当になにもしてないんだ! ちくしょう、なんでこんな……! 俺が、本当は俺が――」

 ライアンはジョシュをぎゅっと抱きしめたまま、泣き崩れた。




       * * *




 ジョシュが缶ビールを持って二階に上がっていったあと。ライアンはリヴィの死体を始末するため、外へ運び出そうとした。

 両手を引き起こし、腹に手を回して肩に担ぎあげた躰は思ったほど重くはなかった。ミネストローネを踏んで靴底を汚さないよう慎重に歩きながら、ライアンはリヴィを担いでキッチンを出た。

 リビングを通り過ぎるとき、階段の上から微かに水音が聞こえていた。ジョシュは自分が云ったとおり素直にシャワーを浴びているようだった。ライアンは少し安心して、外に出るとボートが繋留してある桟橋を目指し、ゆっくりと歩を進めた。

 ――桟橋まであと数歩、というそのときだった。背中に爪を立てられた感触がして、ライアンはぎょっと足を止めた。

「ちょっと、なによ! 誰!? なんなの、私になにをする気なのよ、離してよ!!」

 リヴィが突然大声で喚きだした。驚きのあまりライアンは、担いでいたリヴィの躰を放りだした。砂地に落とされたリヴィは「痛い!! もう、なんなのよ! ライアン、あんたなの!? 私にいったいなにをする気なの!」と、ますます甲高い声で喚き散らした。

 だが、ライアンはほっとした。ジョシュはリヴィを殺してなどいなかった。リヴィは頭をぶつけて気を失っていただけだったのだ。死んでいなくてよかった。このとき、ライアンは本心からそう思った。しかし――

「リヴィ、よかった。頭は――」

「近寄らないで! 大っ嫌いよあんたなんか!! どうして女がだめなのよ、理解なんかできないわよ! そんなにジョシュがいいの!? あんな愚図な男のどこがいいっていうのよ!」

 いったいなにを云いだしたのかとライアンは眉をひそめた。頭を打ったり、こんなところにいきなり放りだされたりしたので混乱しているのかもしれない。ライアンはそう思い、リヴィを宥めようとした。

「リヴィ、落ち着け。とりあえず話を――」

「あの愚図ったらすっかり勘違いしちゃって、別れてほしいですって!! ばっかじゃないの、自惚れるのもいいかげんにしてほしいわよ! あんなおどおどした男なんかこっちから願い下げよ、最初からいらなかったんだから!!」

「は……なにを云ってる? リヴィ、とにかく落ち着け――」

「もう最低、ほんとに頭にくるったら……! あんたもよ! 前は私のことなんてちらっとも見なかったくせに! ジョシュといるときはいっつもいっつも恨めしそうな目で私たちのこと見て、むかつくったら! もうふたりとも私の前から消えて!! うんざりなのよ! 聞いてるの、この変態! この××ホモF**kin' fag!!」

 ――気がついたとき、ライアンは湖岸にリヴィを押し倒して躰に跨り、頸に両手をかけていた。リヴィの躰は既に動かず、開いたままの眼はなにも映していなかった。

 茫然自失の体で、ライアンは両手をじっと見つめた。まるで自分のものではないような気がした。自分が殺してしまったのだと動揺し、ライアンは助けを求めるようにどうしよう、どうすれば、と辺りを見まわした。

 そして、答えがもうそこにあることに気づいた。


 ――そうだ。自分はにここまでリヴィを担いできたんじゃないか。


 ライアンは、予定通りリヴィの死体をボートに運びこみ、沖へと漕ぎだした。そして別荘が遠く、小さく見えるくらい岸から離れると、ジーンズのベルトに引っ掛けてあるケースからフォールディングナイフを取りだした。ひとりで遠乗りするときなど、あるとなにかと便利なので持ち歩いているものだ。それを開き、ライアンはリヴィの死体を何度も何度も刺した。憎しみからではなく、腐敗して体内にガスが溜まり、浮きあがってこないようにするためである。

 ライアンは血塗れになりながら、穴だらけにした死体をそっと湖に沈めた。ひんやりと冷たい水の中、霧の向こうへと遠ざかるようにリヴィが消えていくのを、ライアンはなんの感情も浮かべていない表情で見つめていた。あとは、ここに棲むという獰猛な魚たちが処理してくれるだろう。

 ボートを漕いで戻り、波打ち際に着けるとライアンは次に石で船底に穴を空けた。血溜まりのできたボートにじわじわと水が溜まり始めるのを確認し、思いきり力を込めて押しだした。

 ボートはゆっくりと沖に向かって漂いながら、少しずつ沈んでいった――湖の底で朽ち、魚たちのいい棲家になるに違いない。




       * * *




 冷たくなったジョシュの躰を抱きかかえたまま、ライアンは打ち拉がれていた。

 どうして自分はリヴィを殺してしまったのか。どうしてそのことをジョシュに伝えなかったのか。リヴィを殺してしまったと思いこんだジョシュは自分に打ち明け、助けを求めてくれたのに――自分はジョシュのように真実を打ち明けようともせず、その所為でジョシュを死なせてしまった。

 罪を共有することで、ジョシュと深く結びつけたという思いがあったのだろうか。それとも、自分を偽ることに慣れすぎたのだろうか――

「ジョシュ……ごめん。愛してたのに……こんなはずじゃなかったのに……!」

 ――ずっと傍にいて、おまえを護ると誓ったのに。護るどころか、自分の所為でおまえを死なせてしまうなんて。

「……ゆるしてくれ……」

 ライアンはひんやりとした頬を撫で、ジョシュの唇に深く口吻けた。そして、ゆっくりとした動作で、ベルトに挟んであった銃を抜く。

 スライドを引いて装填し、顳顬こめかみに銃口を当てると――ライアンはジョシュの冷たくなった手をぎゅっと握り、目を閉じた。



 空が白じみ始めた時刻の、霧に煙る湖岸と水面が溶けあった、幻想的な景色の中――

 その刹那、湖畔の森からたくさんの鳥たちが一斉に飛びたった。







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♪ "The Crystal Ship" Duran Duran, 1995

 (Originally recorded by The Doors, 1967)

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