Track 08 - Rhythm of the Rain/Crying in the Rain

「選択」 ①

 ベッドのヘッドボードの上にはフォール・アウト・ボーイやマイ・ケミカル・ロマンスのピンナップといっしょに、ジャパニメーションらしいなにかのポスターが貼られていた。デスクには友人たちとの写真やファッション雑誌の切り抜き、そして縁にハートのシールが貼られた鏡と綺羅びやかなメイクグッズ。

 ごてごてと飾りつけられた、いかにも十代の少女らしいポップな部屋で、イーサン・デッカーはガールフレンドのカイリーを椅子に押しつけるように縫いとめていた。

 勉強なんか捗るはずがなかった。そもそもやるつもりがあったのかどうかさえ疑わしい。一緒に勉強しようなんて、部屋に入れてもらうための口実でしかない。そんなのは冷めたチーズが硬くなるくらいに明らかなことだった。


 カイリーと付き合い始めたのは今年の夏からだ。彼女と並んで自転車を押し歩く、ハイスクールからの帰り道。少しでも長く一緒にいたくて公園に寄り道し、フードトラックでブリトーを買って、半分ずつ食べてコーラを飲んで。それから彼女の家まで送ってきたが、やっぱりまだ帰る気がしなかった。

 彼女もなにか云いたげにもじもじとして、なかなか家の中に入らなかった。意味ありげな笑みを浮かべて顔を見合わせ、今から勉強? 俺もしなきゃ。じゃあ一緒に? うん、勉強しよう。と、そんな感じでイーサンはカイリーの部屋に寄っていくことになった。お互いの家にはもう何度か行き来していたし、自分たちが付き合っていることはどっちの親も知っている。

 けれども部屋で勉強以外のことをするのは、さすがにこっそりとだった。

 在宅だったカイリーの母、ヘザーが、一度だけコーヒーとクッキーを持って階上うえにあるカイリーの部屋までやってきた。だが、そのあとはずっとふたりっきりだった。

 ノートを開いたのはいつでも勉強をしている振りができるようにするためで、実際にしていたのは数えきれないほどのキスだった。何度も何度も角度を変え舌で深く口内を探りながら、イーサンはカイリーの腰を抱いていた手をTシャツの裾の中へと忍ばせた。背中を辿った指先が小さなホックを探り当てると、身を離そうとするようにカイリーがイーサンの肩をぐっと押してきた。

「ん……だめよイーサン。階下したにママが――」

「大丈夫だよ、もう来ないさ」

「だめ。ストップ」

 彼女に止められ、イーサンはしょうがなく手を引っ込めた。下がって坐り直すと椅子ごと移動し、はあ、と息をついてすっかり冷めたコーヒーを飲む。

「夜は? 出られない?」

「無理よ。パパが許さない」

 やれないならしょうがない、と思ったわけではないが、そろそろ夕飯だと彼女が云ったタイミングで、イーサンはじゃあ俺も帰るよと腰を上げた。

 部屋を出、キッチンを覗いておじゃましましたと声をかけ、玄関へ。カイリーも見送りについてきてくれた。

「イーサン――」

 じゃあまた明日、とドアを開けたとき、カイリーが名前を呼んだ。振り返ると、カイリーは照れ隠しなのかちょっとおどけたポーズで「……ううん、なんでもない。また明日ね」と微笑んだ。

 もう一度軽いキスをして、イーサンはカイリーの家を後にした。





「ただいま」

 カイリーの家から2ブロック離れたところにある自宅に戻ったのは、フォールバックも間近な、空がサーモンピンクに暮れ始める時刻だった。ポーチの脇に自転車を止め、ドアを開けて家に入ろうとすると、同時にどこからかオレオが現れイーサンの足許に纏わりついた。

 にゃあん、と可愛い声をあげたオレオに、イーサンは目を細めて手を伸ばした。

「オレオもおかえり」

 オレオはすっと尻尾を真っ直ぐ上に伸ばし、目を細めて手に顔を擦り寄せると、少し開いたドアの隙間から先に家の中へ入っていった。

 オレオはタキシードと呼ばれる黒白模様の雄猫である。

 マサチューセッツ州ボストン郊外にあるこの家で、もう六年ほど暮らしているデッカー家の飼い猫だ。周囲の環境が良いので外へも自由に行き来させていて、いつも日が暮れる頃に帰ってくる。どうやら家を中心に1ブロック先までくらいがオレオの縄張りらしい。去勢されているためか、いつまでもどこか子供っぽくやんちゃで甘えん坊な、イーサンにとって弟のような存在だ。

 いつものようにちょっと頭を撫でてやり、リビングを抜けてそのままキッチンに向かうと、当たり前のようにオレオも後をついてきた。キッチンでは母、マデリンが夕食の支度をしていた。ただいま、ともう一度声をかけると、マデリンはちらりと一回だけ振り返り、ボウルでなにかをかき混ぜながら云った。

「おかえり。遅かったのね、どこに寄り道してたの」

「カイリーと一緒に勉強してたんだよ」

「そう……」

 お父さん、もうじき帰るってメールがあったから、そしたら夕飯ね。母の言葉に適当な返事をしながら、イーサンはカウンターに置かれていたマカロニ&チーズをスプーンで摘み食いし、キッチンを出た。



「――転勤?」

 夕食が済んだあと、さっさと部屋に戻ろうとしたイーサンを、父が止めた。

 イーサンの父、アーウィンは話があると云い、席を立ったイーサンに再び坐るよう促した。そして始まったのが、アーウィンがマンハッタンにあるニューヨーク支社に移ることになったという話だった。

「転勤じゃない、栄転だ。前に参加したプロジェクトで父さんが出した結果が評価されて、ニューヨークでの新しいチームを任されることになったんだ」

「へえ、そうなんだ。おめでとう……」

「それで……みんな一緒にマンハッタンへ引っ越そうと考えてる。急な話だし、おまえには悪いと思うが」

「え?」

 みんなで引っ越す? そう聞いて、イーサンは眉をひそめた。

「みんなって、俺も? え、なんでだよ、単身赴任とかじゃだめなのか? その、チームとかのプロジェクトかなんかが終わったら帰ってくるとか――」

 そう云うと、アーウィンはゆるゆると首を横に振った。

「最初はそれも考えたんだけどな、無理だ。おそらく父さんはもうニューヨークから戻ってくることはない。そのくらいの役職だし、さらにキャリアアップを求めるにしたってニューヨーク以上の場所はないしな。プロジェクトひとつの話で済むことはないよ」

「イーサン、友達やカイリーがいるから気は進まないだろうけど、一緒に行きましょう。移るのはアッパーイーストサイドの高層ハイライズアパートメントよ。会社の持ち物で家賃も要らないし、お父さんのお給料もぐっと上がるし、都会でいい生活ができるわ。お友達だってきっとすぐにできるわよ」

 マデリンは、いちおうはイーサンに気を遣っているようではあったが、どことなく嬉しそうで既に乗り気なのが伝わってきた。

 冗談じゃない、とイーサンは天井を仰いだ。

「いやだよ、俺は行かない。ニューヨークでセレブな奥さん気取りたかったら母さんだけついていけば。俺は残る」

「行かないって、そういうわけにはいかないでしょう。おまえをひとりで残していくなんて無理よ。それにこの家も売りに出すつもりだし」

 それを聞いて、イーサンは怪訝な顔で尋ねた。

「は? この家を売るの!? ありえないだろ、この家は父さんと母さんが結婚してからがんばって買った家じゃなかったの? 俺が生まれ育った家だぞ、オレオだって、この家の隅から隅まで自分の居場所だって思ってるのに!」

「そうだけど、でも――」

「絶対に反対だ! 父さんたちがニューヨークへ行くにしたって、別に家まで売ることないだろ? 父さんが歳をとって引退したとき、またこの家に戻りたくなるかもしれないじゃないか。……俺はオレオと残る。掃除とかやってちゃんと管理するよ。そうすれば俺も学校を変わらないで済むし、友達とも――」

「それだが」

 アーウィンが云った。「友達と離れたくないっていうのはもっともだが、おまえ、今度なにかあったら退学って云われたのを、もう忘れたのか?」

 イーサンはぐっと詰まった。

 二週間ほど前、イーサンは学校近くにある空き家のガレージで、悪友たちとジョイントを廻しているところを教師にみつかった。皆で四方八方に散って逃げきりはしたが、その場にいたのが何人か、誰なのかを教師はしっかりと把握していた。

 あとから見事に全員が校長室に集められ、今回は現行犯で押さえられず証拠も既にないので説教だけに留めるが、次に大麻を始めとするドラッグはもちろんのこと、飲酒や喫煙をしている現場を押さえたら然るべきところへ通報したうえで退学、と釘を刺されていた。

「新しい学校で心機一転、真面目にやっていくほうがいいんじゃないのか」

「そうよイーサン。悪い友達とは離れたほうがあなたのためよ」

「悪い友達って……大麻ウィードなんかみんなやってるだろ。しかももう違法でもないってのに」

「それについては父さんも頭が痛いところだ。州で合法化されておとなが堂々とやってるのに、おまえたちにはやるななんて、なかなか無理があると思うよ。だけどふつうの煙草だって二十一歳までは買えないんだし、まだ学生である以上、校則にも従わないわけにはいかんだろ」

「そうよイーサン。悪い友達と付き合ってるともっとハードなドラッグを勧められたりするかもしれないし、そのうち捕まってしまうわ」

 悪い友達、と再び云われイーサンは一瞬母を睨みつけたが、すぐに俯き、考えた。

 しょっちゅうつるんでいるケヴィンはあれからもジョイントをポケットに忍ばせているし、誘われて吸ったりもしていた。気をつけてはいるが、このまま卒業するまで絶対にみつからないかと云われると確かに自信がない。もう教師たちには目をつけられているのだから。

 マンハッタン、アッパーイーストサイドにあるハイライズアパートメント、というのは確かに魅力的に響いた。今住んでいるこの家はボストン郊外の落ち着いた住宅地にあり、緑も豊かで静かないい環境だが、それとはまったく違う都会での生活に憧れる母の気持ちはわからなくもない。

 しかし――

 ぴちゃぴちゃと水を飲む音が聞こえ、ダイニングルームと一続きになったキッチンの片隅に目をやったとき。こっちに向いたオレオがにゃあん、と一声鳴いて近づいてきた。すぐ傍に来て、イーサンの脚の周りを一周しながらすりすりと顔を擦りつける。

「……仮に、仮にだけど、もしもみんなで行くことになったとして……オレオは? もちろんオレオも連れていけるんだよな?」

 そう尋ねてみると、マデリンは少し困ったように顔を伏せた。

 その様子に、イーサンは訝しげに眉根を寄せた。

「オレオは……誰か、可愛がってくれる人を探そうと思ってるわ」

「は、正気? 余所へやる気?」

 イーサンは足許にいるオレオを抱きあげ、立ちあがった。「冗談だろ、家を売るよりありえないよ……。オレオは家族だぞ? 俺の兄弟みたいなもんなんだ、そのオレオを誰かに押しつけて、置いていこうって?」

「イーサン、聞いて。私もオレオのことが可愛いの、当然でしょう。だからこそ、オレオが慣れた環境で今までどおり過ごせるように――」

「その慣れた環境ってやつは売っちまおうと思ってんだろ!? ひどいよ母さんも父さんも! やっぱりニューヨーク行きには賛成できない。俺はオレオとこの家に残る。ここでカイリーと一緒に卒業して、仕事をみつけてずっとこの街で暮らす。もう決めた!!」

 一息にそう云うと、イーサンはオレオを抱きかかえたままダイニングルームを出ていった。

「イーサン!」

「イーサン、待って! ちゃんと話を――」

 両親の声を振りほどくように頭を振り、イーサンは階段を駆けあがって部屋に戻った。そっとベッドにオレオを降ろし、ばたんと音をたててドアを閉める。

 オレオが振り返り、にゃああぁと文句を云うように鳴きながらイーサンを見上げた。









[Track 08 - Rhythm of the Rain/Crying in the Rain 「選択」 ② へ続く]

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