Track 10 - So Much in Love

「病めるときも、健やかなるときも」 ①

「――もう、今日は帰る」

 ひょっとしたらもはや習慣と呼ぶより、惰性という言葉のほうが相応しいかもしれない。

 金曜の夜、仕事帰りの待ち合わせ。平日は仕事を頑張り、LINEラインメッセージやSkypeスカイプのビデオ通話程度しかやりとりしない恋人と、泊まりで過ごす前の習慣的なお約束。

 付き合い始めた頃のあのときめきはもう、一昨日おととい開けたコーラの炭酸みたいに感じられなくなって久しい。お互いに気を遣いあうことも緊張感もなにもないまま、いつものように恋人のたすくと週末のディナーを終えると、私はとうとう不機嫌を爆発させた。

「どうかしたのか? そういえば今日はずっと無口だしワインもあんまり飲んでなかったけど、具合でも悪いのか?」

 佑はそう云って、テーブルを挟んでいる私の顔を覗きこむように身を乗りだした。その表情にはまったく悪びれたところがない――彼は、仕事は真面目で性格も優しく、頼んでも嘘をつけない莫迦正直者で、学生の頃に柔道をやっていたおかげなのか礼儀も正しいという、皆が口を揃えて『いい人』と云うタイプである。ついでに、大きな躰も頑丈だ。

 ただ、ひとつだけ。どうでもいいような細かいことではあるけれど、私は彼に不満があった。

「別に。どうもしない。つまんないから帰るの」

「どうもしないんなら帰ることないんじゃ? え、なんか機嫌悪い? なにか気に入らないことでもあるんなら、ちゃんと云ってくれよ? 俺、鈍いから」

 こんなふうに気は遣ってくれるのだが、いつもいつも鈍いから、を免罪符にして改善する気がない。私はああまたかと溜息をついた。

「……髪、切ったの。ちっとも気づいてないよね」

「え、まじ? ごめん、そういうのほんとわかんなくって」

「……服も、これ、このあいだ一緒に行ったとこで買ったやつだよ」

「あ、そうなんだ。全然わからなかった」

「……ちょっといつもと違う感じだったから、メイクも合わせようと思って、リップもいつものピンク系じゃなくて、ローズ系でおとなっぽい色にしたんだけど」

「それは……気づくの無理だと思う……、ごめん」

「ああそう。私の顔なんて、ちっとも見てないってことね」

 私は呆れ果て、席を立つとさっさとテーブルを後にし、店を出た。


「――英莉名えりな!」

 佑は少し遅れて店を出てきて、私を追いかけてきた。これもいつものパターンだ。佑は決して逆ギレしたり、追いかけてこなかったりすることはない。彼は走ってあっという間に私に追いつき、そしてこんなふうに謝るのだ。

「英莉名、ごめんって! 俺、ほんとにそういうのわかんないんだよ、ちゃんと気づいてあげなくちゃって思うんだけど……ほんと鈍くって」

「鈍いって云えばしょうがないってゆるしてもらえると思ってるんでしょ? 別にさ、私、お洒落してるのに気づいて褒めてほしいとかじゃないの。全然なんにも気づかないのは、私のことなんかちっとも興味なくて、見てないんじゃないかって思えて、それがいやなの」

 週末でそれなりに往き交う人の多い通りを、私たちは早足に進む。歩きながらあれこれ云い合っているのを、興味津々な顔で振り返る人もいる。こんなことはもう、佑と付き合い始めてから四年のあいだに数えきれないほどあった。慣れっこだ。

「英莉名の気持ちはわかってるよ、ほんとにごめん。でも、俺が英莉名のこと見てないなんて、そんなことあるわけないだろ。ちゃんと見てる。今日はなんだか食欲もなさそうだったし、腹具合でも悪いのかって思ってたくらいだよ。服とか化粧とかがわからないだけだって」

 慣れていいことのはずがない。けれど、なんだかこのやりとりにももう飽き飽きしてしまっている自分がいる。佑に悪気がないのも、私のことを好きでいてくれていることもちゃんとわかってはいるのだけれど――

「っていうかさ、英莉名だって俺の趣味のこととかわかんないじゃないか。このあいだうちに来たとき積みプラの箱見て、作らないんなら売っちゃえばとか云ってただろ? お互い様だよ」

「プラモデルって作って楽しむものだと思ってたんだから、しょうがないでしょ!? 箱を開けもしないでただ積みあげとく趣味があるなんて、知るわけないじゃない!」

「ほら、知るわけないとかさ、英莉名だって同じじゃん。俺の大事なものに興味ないんだなって、そう思えるよ? 俺は多少そういうことがあるのはしょうがないなって気にしないだけで――」

「同じじゃないでしょ!? 私、ちゃんと買った服は着るもん! 眺めて箪笥に仕舞っとくだけだったりしないもん! 私だって、ちゃんと作って飾ってあるプラモデルなら売れとか云わないもん!」

「いや、だからそれはそういう楽しみ方っていうか、価値観の問題で――」

「もう、いいってば! 今日は帰る。佑もひとりでゆっくりプラモの箱でも眺めてれば!」

 なんだかんだと、最後にはこんなふうに喧嘩になる。引き留めるように宥めるようにそっと触れてくる手を、私はまるで駄々っ子が当たり散らしているように振り払い、ちょうど近づいてきたオレンジ色に光る空車の文字に手を上げた。





 土曜の朝。私と高校生の弟、両親の四人で暮らしている家のなかは、しんと静まりかえっていた。

 父は土日も含め、いつも仕事で忙しくしていて、家事をしながらその手伝いをしている母も既に出かけているようだった。弟のりょうは、夜中遅くまでゲームをしている音が壁越しに聞こえていたが、案の定まだ起きてくる気配はしなかった。

 昨夜、帰ってすぐ布団に潜ったわりには寝不足で、私はキッチンで水を飲んだあと、すっきりしない頭を目覚めさせようとシャワーを浴びた。そして楽なワンマイルウェアに着替えると、近所にある伯母のやっている喫茶店に行くため、もう一枚フリースのロングパーカーを羽織っただけの恰好で家を出た。

 五分ほど歩いて店に着くと、私はカウンターの中の伯母に向かって手を上げた。席につく前に、おひやとおしぼりを持ってきたアルバイトの子に「モーニングセット、カフェオレで」と注文し、化粧室へ向かう。

 モーニングといってももう十時を過ぎているからか、お客さんの姿は疎らだった。化粧室から戻ってくると、程無くカフェオレとトースト、サラダ、ハム、オムレツにヨーグルトという定番なセットを、未紗みささんが自ら運んできてくれた。

「おはよ、英莉名ちゃん。髪型変えたのね、すごく似合ってる」

「おはよー、未紗さん。少し短くしてレイヤー入れてもらっただけだけどね。さっすが、すぐ気づいてくれるぅ」

 私は伯母さんのことを、未紗さんと呼んでいる。未紗さんはバツイチで子供もいず、今は独りなのだが、さっぱりした性格でさらさらな長い髪がとっても素敵な、憧れの女性だ。といっても、今はくるりと無雑作に束ねてあるが、それもなんとなくきまっていてかっこいいのだ。

 未紗さんは私も休憩~、と云って自分のコーヒーを持ってくると、向かい側の席に腰を下ろした。

「さて、土曜のこの時間に顔が見られるってことは、またなんかあった? 喧嘩でもした?」

「喧嘩……っていうほどのこともないけどね。なんか、私だけむかむかしててバカみたい」

「佑くん、怒らなさそうだもんねー」

 この店には何度か佑と一緒に来たことがあり、未紗さんは私と彼のことをよく知ってくれている。こうして偶に休日のブランチを食べに来るたび、私は親には云いづらい悩みや愚痴などを未紗さんに聞いてもらっていた。

「それで、いったいなににそんなにむかついたの」

 未紗さんがそう尋ねてくれ、私はトーストを齧りながら、昨夜のなにも気づかない佑の無頓着さについて熱弁した。すると――

「あははは、佑くんらしい~。ごめーん、笑っちゃって。でも、気持ちはわかるけど、細かいことに気がつきすぎる男も考えもんよ?」

「えー。でも、買うときにどっちがいいと思うか訊いた服まで気づかないんだよ? 先週買った服だねとか、似合ってるとか云ってほしいじゃない」

「うーん」

 未紗さんは少し考えるように首を傾げると、「英莉名ちゃんに私の高校時代の彼の話、したことあったっけ」と云った。

「高校の? ううん、聞いたことないと思う……なになに、どんな人だったの?」

 未紗さんは突然そんなことを云いだしたかと思うと、コーヒーを一口飲んで苦笑を溢した。

「……見た目はまあまあかっこよくて、サッカー部の主力選手ですっごく人気があってね。まるでアイドルかなにかみたいに、いっつも女子に騒がれてた。でも、私はそんなに興味なかったんだけどね。三年のとき、突然その彼からラブレターなんてもらっちゃって」

「ラブレター! うわー、なんか時代感じるぅ」

「そこ? しょうがないでしょ、まだLINEとかなかったんだから。携帯ガラケーはあったけど、まだ高校生とかみんな持ってて当たり前、ってほどじゃなかったし」

「そっか。で、どんなことが書いてあったの?」

「うん、あのね。初めて見たときからずっと気になっていましたとか、君のそのさらさらな長い髪が好きですとか、そんな感じだったんだけど」

「わかるー。女でも惚れ惚れするもん、未紗さんの髪」

「ありがと。でもね、私はそのときなんか、髪? って引っかかっちゃって」

 うん? 私はその引っかかるというのがピンとこず、首を傾げた。

「学年が同じってだけで、なにも接点なかったからさ。この人いったい、私のなにを見て好きだとか云ってるんだろうと思って。え、見た目なの、髪だけなの? って思っちゃったのね。で、なーんかもやもやして、その日のうちに腰まであった長い髪をばっさりショートにして」

「ええええーーっ!」

 私は本気で驚いた。だって、ショートヘアの未紗さんなんて見たことも、想像したこともなかったからだ。

「ま、まじで切っちゃったの!? え、どうして? ラブレターの彼すっごい驚いたんじゃない?」

「うん。その彼と、返事をするために学校で会ったの。すっごいびっくりしてた。今の英莉名ちゃんみたいに、えーって声だして、どうして切ったのって。で、私訊いたの。この髪型の私と、まだ付き合いたいかって」

 はあ。私はすっかり呆気にとられていた。さっぱりした気性の、気の強い人だとは思っていたけれど、未紗さんはやっぱりかっこいい。ラ・メール・プラール風のふわっふわなオムレツをぱくりと口に入れながら想像し、きっとショートも似合っただろうなと思う。

「で、その彼、どう答えたの?」

「ふふ、そのときはね、そういうところもあるんだって惚れ直した、あらためて交際を申し込みたいって云われた」

「いいじゃんいいじゃん~~! ……あれ? なんの話だっけ」

「本題はここからよ。で、付き合い始めたんだけど……ほら、髪型変えると着る服も変わるじゃない? やっぱり。それまではスカートやワンピースが多かったんだけど、髪切ったらジーンズとか、カジュアルな恰好が多くなってさ」

「うんうん、そうなるよね」

「そしたら、デートのたびに彼が、早く髪が伸びるといいねとか、もっと女の子らしい服のほうが好きだとか云い始めて」

「え、うざ……」

「でしょ? でまあ、別れたの。まあ、理由は他にもあったんだけどね」

 未紗さんの話を聞いて私は、暫し考えこんだ。

 自分の恰好にあれこれ口をだしてくる男は、確かに鬱陶しい。まったく興味がないのも寂しいけれど、たとえば今の自分の恰好を見て、そんな寝間着みたいな服で外に出るなとか云われると面倒臭いだろうなと思う……ルームウェアとか呼ばれる類いのものでも、ちょっと近所のコンビニに行く程度ならOKというラインはある。男の人だとそのへんの微妙な違いはわからないかもしれない。佑なんか特に。

 はりきってしたお洒落には気づいてほしいけれど、頓着ないほうが楽ではあるだろう。無頓着と過干渉なら、どっちがましかといえば自分が好きなようにできるほうがいい気がした。

「まあ、相性だとは思うけどね。晴名はるななんて自分があんまりお洒落っ気ないから、英二えいじくんにあれこれ口だしてもらうほうがありがたいみたいだし。そうじゃなかったら、とっくに中年のおばさん化してそうよね」

「うちのお父さんはお母さんの専属ヘアメイク&スタイリストみたいなもんだからね。もう、仲が良すぎて恋愛相談もする気しないわ」

 私でよければいつでも聞くわよ、と未紗さんが云うのに頷き、私は残りのサラダとヨーグルトを平らげると席を立った。

 ――化粧室を出て席へ戻ると、もう仕事に戻ったかと思っていた未紗さんがまだそこにいた。

 未紗さんは、なんだか眉根を寄せて私を見つめている。

「……なに、どうかしたの?」

「英莉名ちゃん、あなたひょっとして」

 うん? と私が小首を傾げていると、未紗さんはテーブルに身を乗りだして私に顔を寄せ、内緒話をするように口許に手を当てた。

 なんだろうと思いながら、私も顔をだして耳を傾けると。

「……ここに来てすぐにもトイレに行ってたわよね? もしかして、妊娠してない? 生理きてる?」

「えっ」

 ――小声で云われたその言葉に、私ははっとした。









[Track 10 - So Much in Love 「病めるときも、健やかなるときも」 ② へ続く]

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