「病めるときも、健やかなるときも」 ②

 市販の妊娠検査薬を使ってみた結果、陽性とでた。

 検査薬の説明書に、陽性の反応がでた場合も医師の診察は受けましょうと書いてあったので、火曜に半休をとって産婦人科も受診した。――六週めに入ったばかりだった。

 私は途惑っていた。ちゃんと避妊はしていたつもりだったし、自分が母親になることなど、まだまったく考えたことがなかった。結婚だって、漠然と夢にみたことくらいはあるけれど、具体的に思い描いたりしたことはなかったのだ。

 たすくと付き合い始めて四年。だけど短大を出て就職してからは、まだ二年も経っていない。社会人としてまだまだこれから一人前になっていくところなのに、まさか母親になるなんて――

 否、そもそも私は産むのだろうか。産めるのだろうか? 結婚は?

 そんなふうにひとりでぐるぐると考えを巡らせながら、佑にも伝えなければ、と思ってはいたのだが――とうとう云いだすことのできないまま、また金曜がめぐってきた。

 前回会ったあと、日曜にはLINEラインで『機嫌直った?』とメッセージがきて、いつものようにたわい無いやりとりはしていた。だけど私は妊娠したことを打ち明けることはできず、普段と変わりない言葉で装うのが精一杯だった。

 でも隠しておくようなことではない。否、云いたいのだ。云わなければと思ってはいるけれど、自分の心が決まらないからどう云えばいいのかわからないのだ。

 五時になり、どうしようと悩んでいるうちに、もういつもの連絡がきてしまった。『今日は焼肉でもどう?』というメッセージに『OK』のスタンプしか返せず、私は途惑いと迷いの渦から抜けだせないまま、佑に会いに向かった。



「――ほら、焦げるよ。なんか俺ばっかり食べてるな、野菜焼こうか?」

「うん……」

 何度か来たことのある馴染みの焼肉店は、テーブル席が高い仕切りで区切られていて、通路側は暖簾が掛かっているという個室風な造りだった。話しやすいのでちょうどいいと思い、迷わずOKしたが、箸は進まなかった。

 まだつわりとか、そういう症状ではなさそうだが、大好物であるザブトンにもミノにもあまり食欲がわかず、匂いだけでもうお腹いっぱいという感じだった。もちろん、云いだせないままの言葉が喉に引っかかっている所為もあるだろう。いつもなら飲んでいるチューハイも頼まず烏龍茶を飲み、ちびちびと焼き野菜や鶏のせせりを摘んでいると――

「……無理して食べなくてもいいよ。今日は早めに帰ろう」

 と、佑がそんなことを云いだした。

「……帰ろうって、え、どうして? ……なにか怒ったの?」

 真面目な顔をしている佑を見て、私は少し気圧されてしまった。だが佑は、少し困ったように笑って、首を横に振った。

「なにも怒ったりしてないよ。ただ……具合が悪いならどうして云ってくれないんだとは思ったけど。もしかして、先週のこと気にして気を遣った? でもさ、俺はそういうふうに気を遣われるより、しんどいときは甘えてくれたり、なんでも思ってること云ってくれるほうが嬉しいかな」

「え……」

 じっと私を見つめるその眼に、優しい光が見える。どう反応すればいいのかわからず、私は黙ったまま佑を見つめ返していた。すると。

「先週も食欲なさそうだったしさ。仕事でなにか悩み事でもあるのかなって気にしてたんだけど、酒飲まないってことはそっちじゃないな、どこか躰の調子でも悪いのかなって思って。……病院は行ったの? もしまだなら、ちゃんと行って検査とかしたほうがいいよ。どこもなんともなきゃ、それで安心できるんだし」

 ――佑のその言葉に、突然ぽろぽろと涙がでてきて自分でも驚いた。

「わっ!? ……ど、どうしたんだよ、なに、どこかつらいのか? 大丈夫?」

「大丈夫……ごめん。ごめんね佑。大丈夫、別に病気だったりしないから、心配しないで」

 私は莫迦だ。大莫迦だ。

 髪型を変えたとか、一緒に出かけて買った服だとか、リップの色を変えたとか――くだらない。そんなのはぜんぶ自分が満足していればいいことだ。佑は本当に、そういったものに関心がないから気づかないだけなのだ。本当に大切なことが見えていなかったのは私のほうではないか。彼は私のことをこんなにしっかりと見てくれていたのに、それに気づかなかったなんて。

 佑が渡してくれたお店の紙ナプキンで目許を押さえながら、私は俯いて呼吸を整え、顔を上げた。

「――佑。いきなりで悪いんだけど……これからの私たちの人生について、相談があるの」

 ちょっと硬い言い方になってしまった。佑は一瞬ぽかんと不思議そうな顔をしたが、すぐに頷くと、坐り直して姿勢を正した。

「うん、なに? なんでも云って」

 私はくすっと笑った。こういう折り目正しい感じ、とっても彼らしい。

「ありがとう。……実はね、赤ちゃんができたから、結婚をどうするか、仕事はどうしたらいいか悩んでるの。一緒に考えてくれる?」

「え? 赤ちゃん?」

 佑は目を大きく見開いたあと――あたふたと慌てたようにこう云った。

「……あ、あ、ああああ赤ちゃんができたって、ほんとに!? た、大変じゃないか、ここ……あ、今はどこも店内禁煙か、よかった……! でも煙とか大丈夫!? もっと早く云ってくれればオーガニックのレストランとかにしたのに……肉とかそりゃあ食えないわな。もう帰ろう、帰って家で安静にしてないと……! あ、靴屋も寄ろう、それと本屋も! なんだっけ、たまひよ? みたいな雑誌も買って勉強しないと」

 佑は顔を紅潮させ、そんなことを云いだした。彼がこんなに早口で喋るのは珍しい。少々呆気にとられながら、私は「いや、そんなに神経質になることはないんだけど……その、産んでいいってこと?」と尋ねた。

「へっ? あ、当たり前じゃないか! それ以外の選択肢なんて、これっぽっちも思いつかなかったよ!」

「よかった……ありがとう。……ところで、靴屋ってなに?」

「ヒールの低いの買うんだよ。転んだらやばいだろ?」

「いや、もともとそんなに高いの履いてないけど……じゃあ、その、結婚は……」

「そうか! たまひよだけじゃなくてゼクシィも買わないと! ……じゃない、先ず英莉名えりなんち行ってご両親に挨拶しなきゃだね。いつが都合いいかな、火曜日?」

「佑、いろいろ慌てすぎ」

 ほっとするやらおかしいやら感激するやら。なんだかくすくす笑いが止まらず、涙もちっとも止まらなかった。なのに、佑はそれに追い打ちをかけるように、こう云った。

「――あ、その前にもっと大事なことがあった。……英莉名。俺と結婚して、俺と君の子供を産んでください」

 はい、と声にはならず、私は両手で顔を覆いながら何度も何度も頷いた。もう、いったいこの人はどれだけ体中の水分を出させる気だろう。ぽろぽろと溢れ続ける涙をハンカチで拭い、深呼吸して、私は烏龍茶を一口飲んだ。佑はじっと私を見つめていたが、ぐしゃぐしゃにメイクが崩れているはずの顔を見せても気にならなかった。

「……指環、明日一緒に買いに行こうな」

「うん」

 頷きながら、いつものデートのように気合を入れたお洒落はせず、ジーンズとスニーカーなどのカジュアルな恰好で行こうかな、なんて思う。

 きっと、そんなことなら佑は、歩いていて楽そうだし安全でいいねと気づいてくれるに違いない。




       * * *




 そして迎えた挙式の日。

 ブライズルームで、私は美容室四店舗のオーナーでありヘアメイクアップアーティストでもある父に、髪をセットしてもらっていた。

 父はいつも私の髪をカットするときよりも丁寧に時間をかけて、この日のためにパーマをかけた髪をゆるく巻き、アップにしてくれていた。

「――いつかこの日が来ると思ってたが、ちょっと想像してたより早かったな」

「結婚なんて、もっとずっと先だと思ってたもんね。私も」

 鏡越しに見る父の顔はなんだか感慨深げに見えたけれど、話す言葉は意外といつもどおりだった。

「お母さんがウェディングドレスを着たときは、さすがにできなかったんでなあ。まあ、まだばあちゃんが元気で現役だったんで俺の云ったとおりにやってくれたが」

「へえ、お母さんのときはおばあちゃんがやったんだ。……できなかったって、ふつう花婿はやんないでしょ」

「そうだけど、いろいろ準備してる段階では完全にやる気でいたんだよ」

 仕上げに、ブーケに使っているのと同じ大輪のカサブランカを挿し、淡水パールの付いたピンで留めて。

「……綺麗だよ、英莉名。世界で二番めに綺麗な花嫁さんだ。さて、じゃあそろそろ義姉ねえさんたちにバトンタッチするか」

 俺もモーニングに着替えてこないと、と父がブライズルームを出ていく。ヘアメイクが済んだあとはガウンを脱いで、いよいよドレスを着るのだ。母は黒留袖なので無理だが、未紗みささんとプロの介添人アテンダーがそれを手伝ってくれる。

 父と入れ替わるようにして三人が来てくれ、十五分ほどかけて、私はすっかり花嫁の恰好になった。

「英莉名ちゃん、すっごく綺麗」

「ありがとう、未紗さん。……お母さんも」

 母は既に涙ぐんでいた。

「……うん、本当に綺麗よ、英莉名。……やだ、お化粧落ちたらお父さんに叱られちゃう」

「お父さん、今日は大忙しだったのね。そのアップ、ヘプバーンみたいで素敵。似合ってる」

 和服姿の母は、髪を映画『ティファニーで朝食を』のオードリー・ヘプバーンのような、クラシカルなアップスタイルにしていた。染めていない黒髪に、ダイアモンドのようなクリスタルの飾りがついたヘアコームが映えている。

「ふふ、ありがとう。お父さんったら相変わらず髪が多いなあ、重いなあってぶつぶつ云いながらやってくれてね。そんなこと、いつも触ってるんだからわかってるだろうにね」

「あれはね、英二くんなりの照れ隠しなのよ。まったく、いつまで経ってもラブラブなんだから」

 そうだ、英二くん呼んであげないと、と未紗さんがドアを開ける。すると外で待っていたのか、モーニングに着替えた父と、弟のりょうがすぐに揃って入ってきた。

 ちょっと照れくさかったけれど、私はドレス姿を披露するように父のほうを向いた。

「……どう? ほんとはもっとシンプルなのにしたかったけど、お腹が目立たないようにってこんなフリルだらけ……似合わないかな」

馬子まごにも衣装ってやつだね」

 先に遼がそんな憎まれ口を叩くと、父が泣き笑いの表情でゆるゆると首を振った。

「まったくだ……こんなに早く俺をじいさんにするなんて、酷い娘だ。俺まだ四十代だぞ」

「お父さん、『馬子にも衣装』のまごはその孫じゃありませんよ」

「そうなのか」

「お父さんさ、酷いとか云ってるけど、このあいだ女の子だといいなって云ってたじゃん」

「ばらすなよ、遼」

 意識してのことなのか、普段と同じくだけた雰囲気にかえって涙が滲んでくる。

「ああ、泣くな泣くな。いいか英莉名、涙がでてきたら零れないうちにティッシュを折って、端っこに吸わせるんだぞ。押さえるとメイクがよれるからな」

 そう云いながらティッシュを取って折ってくれる父に、私はつい泣きながら笑ってしまったが。

「ちょっとちょっと、晴名まで泣かないの。まだ早いわよ、英莉名ちゃんが手紙読むまで我慢しなさい」

 見ると、母までがぼろぼろと泣いていた。

「ご、ごめんなさい……。だって、懐かしいんだもの。お父さん、今とまったく同じことを私たちの結婚式のときも云ってたから」

「そうだっけ? ……ってか、そんなことより新郎は?」

「ああ、佑はなんか、本番での感動を増したいんでその前には見ないって云ってた」

「なんだそれ。何度見たって感動するもんは感動するけどな。――ああバカ、押さえるなって云ったのに! 直してやるからちょっとそこ坐れ」

 涙が止まらない母の肩を抱き、メイクボックスを開ける父を見ながら、私は心のなかで呟いた。

 お父さん、お母さん。今日まで本当にありがとう。私、お父さんとお母さんみたいな夫婦をお手本にして、温かい家庭を築きたいと思います。




       * * *




 モーニング姿の父にエスコートされてヴァージンロードを歩き、聖壇前で待つ新郎のもとへ。

 健やかなるときも、病めるときも、富めるときも、貧しきときも、死がふたりを分かつときまで――司式者の問い掛けに「はい、誓います」と答え、お互いに指環をはめあって。ベールを上げて誓いのキスをし、私たちは荘厳な雰囲気のチャペルの中、家族と親類、同僚、友人たちに見守られ、夫婦になった。

 式が恙無つつがなく進み、佑とふたりヴァージンロードを退場すると次はフラワーシャワー。もともとはライスシャワーだったらしいのだが、最近は鳥がたくさん啄みに来て問題になったり、食べ物を粗末にするのが不評だったりして花びらを撒くほうが人気らしい。佑も、ブライダル情報誌を見てお米を撒くのはいやだなあと云ったので、フラワーシャワーを選んだ。

 佑の腕に手をかけ、チャペルからガーデンに出た途端、薄紅色や黄色の花びらが浴びせられる。おめでとう、おめでとうと友人たちに取り囲まれながら、私はふと後ろのほうに佇み、微笑んでいる母をみつけた。

 すると、その背後から現れた父が籠の中の花びらを母の頭に降らせ始めた。振り返った母が両手を振りあげ、父は満面の笑みでその手をとる。それを見て、私は吹きだしそうになった。いつだったか聞いたことがあるけれど、父は高校で同じクラスだったときも、あんなふうに後ろから母にちょっかいを掛けていたそうだ。

 もう、本当に仲がいいんだからと思っていると――

「……あんな家族になろうね」

 佑も気づいたらしい。小声で云われた言葉に、私はにっこりと頷いた。







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♪ "So Much in Love" Art Garfunkel, 1988

 (Originally recorded by The Tymes, 1963)

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