Track 09 - I Really Don't Want to Know

「少年」

 思わずシャッターを切ってしまったのは、その少年があまりにもものうげで、今にも消えてしまいそうだったからかもしれない。

 舗道を挟んで斜め向こう、ピンクのネオンサインが出ているその建物の中は、界隈では国外にまで知られている有名なゲイバーだった。前髪を垂らし、街灯の光を避けるようにして俯き加減に立っているその少年は、まだそんな店に出入りできるような年齢ではなさそうに見えた。せいぜい十五か十六というところだろうか。そのくらいの歳で客をとっているような輩も珍しくはないが、それならもっと相応しい通りや場所がある。こんな、有名すぎて観光客までもが集まってくるような店の前で立つ莫迦は、此処いらにはいない。

 ではあの少年は、あんなところでいったいなにをしているのだろう? なんとなく気になって見ているうち、三人ほどのグループが通りの向こうから近づいてきて、その少年に話しかけた。ファインダー越しに様子を見てみる――男は下卑た笑いを浮かべ、少年の股間へと手を伸ばした。おいおい、と思ったが、なにかしようとしたわけではないようだった。男はちょっと少年をからかうと、大口を開けて笑いながら店の中へと姿を消した。

 からん、と閉じたドアに向かって、少年が唾を吐き棄てる。おとなしそうな外見には似つかわしくないその行為に俺は思わずカメラを下ろし、口笛を吹いた。

 ――少年が、俺に気づいた。

 どこかへ去ってしまうかと思ったが、少年は暫し探るような視線をこっちに向けたあと、目を逸らしてそのままその場に立ち続けた。

 どうしようかと俺は少し迷ったが、カメラをバッグへ片付けると舗道を渡り、店の入り口を目指しつつ少年の傍まで歩み寄った。

 そもそもこの夜も更けた時間、こんなところにいたのはこのバーで遊んでいこうと思ったからである。仕事用のカメラでちょっといい感じの夜景を何枚か撮りながら歩き、もうじき目当ての店に着くというところだった。被写体として見逃すことのできない、絵になる立ち姿の少年を見かけていなければ、とっくに中に入って一杯飲んでいただろう。

 少年はすぐ傍で立ち止まった俺に向き、なにか云うのを待つようにじっと見つめてきた。

 少し迷って、俺は云った。

「誰か待ってるのか? それとも、なにか困ってる?」

「ここで一杯奢ってくれる人が誰かいないかなって、待ってる」

「ここって、この店でか? ここがどういうところだかわかって云ってる?」

「飲みながら適当に相手をみつけて、ファックするところ」

「おいおい。……若く見えるが、いくつだ」

「十八になってるよ。IDアイディーもある」

「IDはあるのか。ならなんでひとりで入らない」

「……金がないんだ」

 そう云って少年は、一瞬むっとしたような、拗ねたような表情を見せた。どうやら本当に金に困っているらしい。つまり、この店に入ってなにをするつもりなのかも想像はつくが――しかし、見たところその類いとは思えなかったし、仮にそうだったとしてもこのまま無視するのは気が引けた。

 とりあえず、少年の云うとおり一杯と、なにか腹の膨れるものだけ奢ってやるか。俺はしょうがないなと少年の背中を押し、一緒に店内に入った。



「俺はジョルト。おまえは?」

「……トードル……、テオでいいよ」

 店内のいちばん手前のエリアであるバーで、テオと名乗ったその少年はバーテンダーになにか手帳のようなもの――濃い赤紫色に見えた――を開いて見せ、スクリュードライバーを注文した。俺は「なにか食おう。フィッシュ&チップスSült hal sült krumplivalはどうだ?」と尋ねたが、テオは「フィッシュ&チップスがあるの?」と、なんだか厭そうに顔を顰め、いらないと首を振った。なんだ、腹は減っていなかったのかと思いながら、俺は「ドリーヘルDreher」といつものビールを注文し、テオのぶんといっしょに支払った。

 ここでワンドリンクさえ頼めば、もうあとは片隅で飲んでいようが踊ろうが、相手をみつけて奥へ行こうが勝手にすればいい、ということになっている。

 奥というのは所謂プレイルームだ――まるで洞窟のような通路を進むと、両側には蟻の巣のように並ぶたくさんの小部屋があり、役に立っているのかどうかわからない申し訳程度のカーテンが垂れ下がっている。さらに奥へと進むとぽっかりと広い空間があり、大きな拘束具がどんと置いてあったり、天井から鎖でぶら下がっていたりする。特別なイベントの夜にはそこでが行われたりもする。

 今日はそれほど混んでいるほうではなかったが、バーカウンターはひとりで飲みながらちらちらと後ろを振り返り相手を探している若い男たち、三人ほど並んで騒いでいる常連たちなどが席の半分を埋めていた。厄介事を避けるため、俺はテオの腕を引いてそのグループから離れ、反対側の端へと移動した。

 こういうところで余計なちょっかいを掛けてくるのは、大抵あんなふうに連れだって来ている客だ。ひとりで相手探しに来ている奴は、滅多に下手なことはしてこない。

 カウンター席に腰を落ち着け、俺はくいとビールを呷ると、テオに向かい、尋ねた。

「……で? 一杯奢ったが、これからどうする」

オーラルだけでいいなら二万、ファックしたいなら五万フォリント」

 なんだ、やっぱり商売するつもりだったのか。そんなふうには見えなかったのに、と俺はなんとなく軽い失望を覚え「どうして店の前になんか立ってたんだ? もっと向こうにそれ目当ての奴が集まる通りがあるだろう」と訊いてみた。すると。

「……余所者は歓迎されないみたいだったし。この辺りを仕切ってる怖い人に目をつけられたくないからね」

 そんな答えが返ってきた。俺はなるほど、と頷いた。テオのハンガリー語は流暢だったが、いまどきの若者が話すようなくだけたところがまったくなかった。言葉の違うどこかの国から来て、まだそれほど日が経っていないのかもしれない。さっきちらりと見えた赤紫色は、パスポートだったのだろう。

「じゃあ俺がビールを飲んだだけで帰るって云ったら、おまえは?」

「カモが釣れるまでここにいるよ」

 がはは、とカウンターの反対側から下品な笑い声が響いた。さっきの三人組がなにやら冗談を云い合い、テーブルを叩いて騒いでいる。プロレスラーのようなごつごつとした躰に張りつくTシャツ、伸ばし放題な髭。唾を飛ばしながら大口を開けて喋るその様子に、俺は友達になりたいタイプじゃないなと顔をしかめた。

 そのとき、不意に頭の中に、あの下品な男がテオを好きに嬲る様子が浮かんだ。思わずぶんぶんと頭を振って厭な想像を打ち消す。悍ましい。俺も名前さえ知らない相手とのワンナイトを愉しみに来ているわけだし、偶に羽目を外しすぎることはあるが、あんな汚らしい粗野な男がテオのような少年をもてあそぶなんて、そんなことはありえないと思った。

「……どうかした?」

「……ああ、いや。なんでも――」

 しかし、自分が帰ってしまえばそうなる可能性は、なくはないのだ。もしもテオが、金さえ貰えば相手がどんなふうであろうと気にしないと思うなら――

「その、商売のことなんだが……相手を見て断ったりすることはあるのか?」

 俺は自分でもよくわからないうちに、そんなことを訊いていた。するとテオは、少し考えこむように小首を傾げ、こう答えた。

「……大抵は断ってみても代金に色を付けてくれるだけで、諦めてはくれないね。目を瞑ってれば誰とやったって同じだし、下手に逆らって酷い目に遭うのもごめんだし。金さえ貰えばそれでいいって感じかな」

 俺はビールを呷った。が、二口程飲んだだけで中身は空になってしまった。口の中はからからになったままだった。二本めを注文し、ポケットから財布を出して一〇〇〇フォリント札を一枚抜く――カウンターに置いた残りはまだたっぷりとあった。だが、それはふつうに飲んだり食べたりする余裕があるというだけだ。このなかから家賃も払わなければならないし、衝動的に大きな出費ができるほど余っているわけではない。――そのはずなのに。

「ごちそうさま。まだ飲んでるんなら俺、もう離れるね。通路にでも立ってれば誰かと思うから」

 そう云ってテオが席を立つ。俺ははっとして、その細い手首を掴んだ。テオは緩慢な動作で振り返り、俺を見た――驚いたようでも途惑ったようでもない、なにかを見透かしたような冷めた視線。カウンターにドリーヘルの瓶が置かれた。ぎごちない動作で手を離し、俺はもう一方の手で瓶を取り、一口飲んだ。

「……まだ飲んでるんでしょ? 俺はそろそろ稼ぎたいんだけど」

 薄暗い店内を照らす淡いライトが、大きな瞳に長い睫毛の影を落とす。見つめるものの色を映しこむ、吸いこまれそうに静かな深い湖のような、いったん囚われたらもう溺れるしかないような――

「……五万、だったな」

 自分が口にした言葉に、俺はなんてこった、こんなつもりじゃなかったのにと内心で狼狽うろたえた。



 通路を照らすオレンジ色の灯りは薄いカーテン越しでもほとんど入ってこず、古びたカウチがあるだけの狭い部屋はかなり暗かった。けれどまあ、目的が目的だけにこのほうが落ち着ける。時折、狭い通路を人が往き交うとカーテンが揺れ、差しこむ光がちらついた。

 テオはカウチに腰掛け、まだカーテンの前で立ち尽くしている俺を見つめると「どうする? まずはしゃぶる? 脱ぐ? それとも脱がせたい?」と尋ねてきた。その口調があまりにもあっさりとしていて慣れたふうだったので、俺は顔を顰めた。

「……いったい、いつからこんなことをやってるんだ」

 思わずそう訊いてしまい、俺はすぐに後悔して首を振った。俺はなにをやっているんだろう。そんなことを訊いて、いったいどうするつもりだったのだろう。こんなふうに金で買ったのは初めてだが、自分だって偉そうなことを云えるようなことはしてきていない。もう二十歳を過ぎた頃にはここと同じような店で相手を探して、毎晩のようにクルージングを愉しんでいたのだから。

 このテオという少年だって、もう十八だと云ったのだ。IDが偽造でないなら、それは本当なのだろう。十代とはいえ、俺が遊び始めた歳とそう変わらない。若く見えるだけだ。妙な罪悪感や、倫理観を働かせる必要はないんだ――

「こんなことっていうのがなにかにもよるけど、まあ十五とか――」

「いい。答えなくて」

 テオの言葉を遮り、俺はカウチに近づいた。テオが不思議そうに小首を傾げ、俺を見上げる。左肩に掛けていたカメラバッグを下ろしてカウチの端にそっと置くと、それを見てテオが「邪魔じゃない? なにか大事なものでも入ってるの」と云った。

「仕事道具だ」

 俺は簡潔にそう答え、テオの着ているシャツに手をかけた。ボタンも外さないまま頭からすっぽりと脱がせると、少し癖のある長めの髪がふわりと乱れた。

 テオは俺を見ている。そして俺はテオから、そのなんの感情も浮かべていない瞳から視線を逸らせなかった。じっと見つめあったまま、俺はそっと撫でるようにテオの髪を指で梳き、ゆっくりと顔を近づけ口吻けた。




       * * *




 ――テオと会ったあの日から、一週間ほどが経った。

 仕事で撮ったものと一緒にプリントアウトしたテオの写真を、俺は何故か大事にバッグの中に仕舞っていた。

 あれから何度かあの店に行ってみたが、テオをみつけることはできなかった。

 別に、またテオとやりたいと思っていたわけじゃない。それどころか、会いたいと思ったつもりさえなかった。また会って、いったいどうしようというのか。

 俺はお愉しみのために五万フォリント払い、テオはそれを受けとって帰っていった、それだけの関係だ。そもそも俺は特に若いのが好きというわけではないし、金を払ってまで愉しまなくちゃいけないわけでもなかった。いつも適当に相手をみつけて遊んでいるのだ。それなのに。

 あの夜、あの場所で気怠げに壁に凭れていたテオという少年に、どうしてこんなにも惹かれてしまったのか。囚われてしまったのはファインダーを覗いたあの瞬間か、それとも声をかけたあのときか。あの小部屋で口吻けたときだろうか、それとも。

 ――俺の腕のなかで堪えきれず声を漏らしながら、酷くしてくれないと困ると悃願してきた、あのときだったのだろうか。


 俺は部屋の窓から外を眺めた。こんな廉普請やすぶしんなフラットからではこの街の眩い夜景も、賑やかな通りもなにも見えない。今夜もあの少年はこのブダペストの空の下、どこかで誰かに抱かれているのだろうか。俺と会うまでにいったいどのくらい、似たようなことを繰り返してきたのだろう。考えたくない、想像したくもないと俺は思った――脱がせてみても、まだほんの子供に見えた華奢な躰を、俺はできるだけ辛くないようにと丁寧に抱いた。けれどそれが――優しく触れられることが、テオにとっては泣きだしそうなほど途惑うことだったなんて。

 やりきれない。俺は窓を閉め、キッチンに向かうと頭を麻痺させるに充分な本数のビールを抱え、部屋に戻った。





 翌日の夕方。俺は結局、またあのバーに来ていた。

 バーテンダーにテオの写真を見せ、最近来ていたかと尋ねたが、いちいち憶えてはいない、たぶん来ていないと当てになりそうにない答えを返された。

 しかしまあ、毎日たくさんの男が訪れるこの店だ。いくら滅多に見かけない十代の少年とはいえ、どうしてはっきりわからないんだと責めるのも酷だろう。

 俺はビールを一本だけ飲んで店を出ると、なんとなく目についた斜め向かいにある雑貨屋に、足を踏み入れた。

 煙草やライター、ジッポーオイル、ちょっとした文具やスキンケア用品、ガムや飴など、雑多に物が並んだ狭い店の片隅に、店番をしている老婆の姿があった。なにも買わないのも悪いなと思い、俺はリップクリームとガムをカウンターに置いて、会計を済ませたあと婆さんに写真を見せた。

「あぁ、えっと……ちょっと顔がわかりにくいかもしれないが、この子、この店には来てないか」

「どれ。……さぁてね、来てないと思うよ」

「そうか。ありがとう」

 期待はしていなかった。俺は、なにかのポスターが貼られている大きなウィンドウを指し、婆さんに云った。

「なあ、もしもここからこの少年を見かけたら、俺に教えてくれないか。裏に番号を書いておくから」

「どうかね、遠目じゃ顔はよくわからないからねえ」

「見かけるとしたら、あそこらへんの壁に凭れて立ってると思うから、きっとわかるよ。頼まれてくれるか」

 引き受けるともなんとも答えてはくれなかったが、婆さんはしげしげとテオの写真を見つめたあと、びーっとセロファンテープを千切り、そのウィンドウに貼り付けた。

「ありがとう」

 俺は礼を云い、その店を後にした。

 ここまでやっても、俺はまだ自分がなにをしたいのかよくわかっていなかった。ただテオにもう一度会いたいだけなのか、不幸そうな陰翳かげをまとったテオを救いたいとでも思っているのか――

 はっきりと自覚できるのは、自分がどうしようもなくテオに惹かれてしまっているということ、ただそれだけだ。あの懶げな、長い睫毛に縁取られた大きな瞳が目の裏に焼きついたまま片時も忘れられないというのに、彼の過去など一切知りたくはないと思うほど。







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♪ "I Really Don't Want to Know" Gene Clark, 1973

  (Originally recorded by Eddy Arnold, 1954)

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