「ヘアカットプラン」 ②

 あのぶんぶんと左右に暴れている三つ編みは、もう俺にみつけてくれと訴えるために揺れているような気さえしてきた。だってこうして大勢が歩いている坂道でも、こんなにすぐ岸谷をみつけてしまう。

 今日も隣には姉ちゃんらしきさらさらヘアが歩いていた。が、俺はちょっと驚いた。さらさらと風に靡く髪は、ばっさりと短く切られていたからだ。なんとまあ、思いきったことをしたものだと俺は思った。細い頸が露わになり、耳の高さからふんわりと後頭部の丸みを包んだショートヘアはすらりとした体型に映えて、とても似合っていた。

「じゃあね、晴名はるな

 坂道を登りきって姉妹が二手に分かれるとき。姉のほうがそう云うのが聞こえたが、妹のほうは――岸谷は言葉を返すこともなく、俯いたままだった。



 そしてその日の放課後。俺はまたよってき屋に行こうと歩いていて――フェンスに群がる小スズメ共の様子がなんだかおかしいのに気がついた。きゃーきゃーではなく、ざわざわしているのだ。

 グラウンドに目をやると、すぐにその原因がわかった。片倉先輩の傍には、さらさらショートの岸谷姉がいたからだ。小スズメたちは驚きと途惑いと、羨望と嫉妬の混じった声を漏らしていたらしい。

 俺も途惑っていた――手紙を渡すだけでも苛められるから、と云っていたのに、なんであんなふうに一緒にいるんだ? 手紙にも、学校では話したりできないと書いたと、確かそう云っていたのに。

 そんなことより。俺は踵を返し、よってき屋とは反対の方向へと走りだした。

 坂道を下る。勢いづいてつんのめりそうになりながら、俺は岸谷を探した。ぱらぱらと下校する女子の姿はあったが、俺は見向きもせずにひたすら走った。きょろきょろと探す必要など感じなかった。そこに岸谷がいれば、あの三つ編みがあれば俺は必ずみつける。

 そして、坂道を下りきった電柱の影に彼女の姿を捉え、勢い余って五、六歩ほど過ぎたところで足を止めて振り返ると。

「――もういやだ、こんな髪……! なんで、なんでお姉ちゃんの髪はあんななのに、私の髪はこんなんなの……!? なんでお姉ちゃんばっかり――」

 小さなハサミを持ち、解いた髪を切ろうとしていた岸谷のその手を、俺は掴んだ。はっとしたように岸谷が体を強張らせる。俺は云った。

「なにやってんだよ、こんな小さいハサミで! 切るにしたってこんな――」

「いいのほっといて! 切るの! もうこんな髪切っちゃうんだから! もう、もうっ――」

「だから! 切るのはいいけど、おまえの髪がこんなんで切れるわけないだろ!」

 うわあぁーーっとさらに大きな声で泣かれ、俺はしまった、と唇を噛んだ。そうじゃない、それは云っちゃいけないんだった。えっと――

「と、とりあえず……泣くな! ちゃんと綺麗に切ろう! 俺に任せてくれ、俺のことを信じて、今からちょっとついてきてくれ。な? だからちょっと、落ち着けって! 頼むから泣くな!」

 ソーイングセットかなにかの小さなハサミをそっと取りあげ、俺はいつまでもしゃくりあげている岸谷の傍でただ立ち尽くし、泣きやむのを黙って待った。





 岸谷は今、うちの美容室で俺の母さんに髪を切ってもらっている。

 俺は初め、たぶん広がるから短くしすぎないように、頸が隠れる程度の長さで、内側の髪は長めに残して自然に外ハネさせて、それにかぶさるように段差をつけて梳いて……と、ハサミを持つ母さんに細かく指示をしていたのだが、うるさい誰に云っている、邪魔だから引っこめ、二階へやで待ってろと云われ、しぶしぶ従った。

 あの太い三つ編みを毎日毎日見つめながら、俺はずっと考えていたのだ。どんな髪型で、どんなふうにカットすればあの太くて硬くて多い髪が活かせるかと。鬱陶しがられながら、かなりしつこくああしてこうしてと云ったつもりだが、母さんにちゃんとそれが伝わっただろうか。ちゃんと、俺の思うとおりにカットされているだろうか。

 俺は檻の中の熊のように部屋中をうろうろと何度も往復しながら、様子を見に行くべきか、いや大丈夫だ任せておこう、いやでもやっぱり、と迷いに迷っていた。

 ――やっぱり心配だ。母さんの腕前を信用していないわけではないが、あの髪についてだけは俺のほうがよくわかっている。もしもちょっとでも扱い方を間違えてしまい、いい仕上がりにならなかったら、岸谷がまたショックを受けてしまう。それは避けなければいけない。

 俺は、もうカットが終わっていてもおかしくはないくらいの時間が経ってから、そうとは気づかず部屋を出てばたばたと階段を下りていった。すると――

「英二、来たのー? ちょうどよかった、今もうブローも終わったところ。見てあげて」

 そんな言葉が聞こえてきて、俺は少し不安な気持ちで店舗のほうへと入っていった。

 岸谷は持っていた手鏡を置いて、スタイリングチェアから降りるところだった。肩口を母さんにタオルでぱたぱたとはたかれながら、すっと立って俯いていた顔を上げ、ゆっくりと俺に向く。

 ――斜めに流した前髪、ふんわりと耳にかぶさるボブの内側から、長めに残した髪が肩のラインに沿って、自然に外向きにカールしている。

 俺の思い描いていたとおりだ。

「……あ、あの……、ありがとうございました。えっとその、お会計……」

「ああ、いいのよ。うちの英二の頼みを聞いただけだから、お代はいいの。もらうんなら英二からもらわなきゃね」

「で、でも……」

「そんなことより、梳くのに時間かかっちゃってごめんねえ。――ほら英二! もう暗くなるから送っていってあげなさい」

「えっ……い、いいです、大丈夫です。……あの、本当にありがとうございました……!」

 岸谷はそう云って、慌てたようにガラスの重いドアを開け、足早に去っていってしまった。

「ほら、なにやってんの! ちゃんと追いかけて、送ってってきなさいって!」

 母さんにそう急かされ、俺は云われたとおり跡を追うべきなのかどうか迷いながら、途惑い気味に足を動かしたが。

「――あの子だったのね。あんた、ここんとこずっとヘアカタログ見ながらああでもない、こうでもないって髪型の絵、描いてたでしょう?」

「なんで知って……!」

「居間で寝落ちてたとき、ノートを見ちゃったのよ。でも、謝らないよ? ちゃんとあんたのプランどおりに、丁寧にカットしたんだから」

 だからろくに説明を聞きもしなかったのに、俺の思い描いていたとおりの仕上がりだったのか。これでは怒れない。俺は苦笑いしながら、そういえばまだ云ってなかったなと礼を云おうとして――初めて見るかもしれない、母さんの寂しそうな、でも嬉しそうな複雑な表情に言葉を呑みこんだ。

「……あの子のあの髪質にいちばんぴったりなスタイルだったと思うよ。いいカットプランだった。あんた、きっといい美容師になれるわ」

 ――少し驚き、俺は照れながら頷いた。

「なるよ。……ありがとう、母さん」

「ん。……ほら、早く行っといで」

 俺は岸谷の跡を追いかけた。



 岸谷にはすぐに追いついた。岸谷は俺が追いかけてきたことにちょっとびっくりしたようだったが、俺が並んで歩き始めても、なにも云わなかった。

 そうしてお互いになにを話すこともなく、十五分ほども歩いた頃。岸谷がぴたりと足を止め、俺に向いた。

「今日は本当にありがとう。……明日からもう三つ編み、引っ張れないね」

「悪かったって。……その、ずっと気になってたから、つい――」

「ふふっ、怒ってないよ」

 岸谷が笑った。俺は、耳の裏で花火が上がったような音を聞いた。どっかん。いや、どっくん、か? もう日が暮れて気温が下がってきているはずなのに、なんだか自分の周りだけが暖かいような気がする。どこかから湯気が上がっているような気もする。なんだろ、これ。

「もう、家、すぐそこだから……。送ってくれなくてもよかったのに、ごめんね」

 そう云って歩きかけた岸谷に、俺は云った。

「だめだろ送らなきゃ。ここらも偶に不審者情報とかあるし、暗くなってからひとりで歩くんじゃねえよ……髪切って、めっちゃ可愛くなったんだから」

 えっ。

 えっ、という顔で岸谷が目を丸くした。

 えっ。……俺、今なんて云ったっけ。

「だ、だ、だからその、お、俺さまの素晴らしいカットプランでうっかりおまえを可愛くしちまったから、そ、その責任をとってこれからは、遅くなる日は俺が送ってってやるってこった。わかったな!」

 なに云ってんだ俺。岸谷も、呆気にとられたような顔をしていると思っていたら、ぷっと吹きだして笑い始めた。

 もう俺は、穴を掘ってもぐらのように家に帰りたい気分に陥った。

 が。

「うん、わかった。……これからよろしくおねがいします」


 ――はっと我に返ったように気づいたとき、岸谷はもう道路の向こう側にある家のドアの前で、こっちを振り返り手を振っていた。

 つられるようにして片手を上げ、俺は岸谷の姿が見えなくなってからも、ずっとその場でそのポーズのまま、かたまっていた。


 これからよろしくおねがいします――って、どういう意味なのか、明日ちゃんと訊かなきゃ。

 俺はなんとなくふわふわと軽い足取りで帰路につき、自宅の美容室の前まで来ると立ち止まった。

 『パーマ』と描かれた丸い看板、大きなウィンドウいっぱいに貼られた何枚ものポスター。『ユキエ美容室』のネオンサインも赤いオーニングももうすっかり古びていて、お世辞にもいまどきのお洒落な雰囲気じゃない。

 でも、うちの母さんの腕は、都会の流行りの店にも負けてない。なにしろ、俺のカットプランのとおり、ヘアデザインどおりのスタイルにちゃんと仕上げたんだから。

 美容師になるのは、小さな頃からの夢だった。ずっとそう願い、母さんの仕事ぶりを見てきた。

 もうあと何年かの近い将来、俺は美容師になる。美容師になってこの店を継いで、改装して綺麗にして、大きくもして、そして――

「おまえの髪は、ずっと俺が切ってやるからな」

 それがどういう意味を持つのかよくわかっていないまま、俺はそうあらためて決意を胸に刻んだ。







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♪ "Melody Fair" Bee Gees, 1969

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