「過ぎ去りし夢のあとで」 ②
「――ここ、いいですか」
休憩もしたし、もう帰ろうかとも思ったが、追いたてられるように去るのも感じが悪いような気がした。青年が人懐こい、感じの良い笑顔だった所為もあったろう。
「もちろん。どうぞ」
ベンチにはまだじゅうぶん余裕があったが、私は少し端へ寄り、杖も反対側へ移した。
「どうも……。あの、お茶があるんですけど、よかったらご一緒にいかがです?」
青年はキャンバス地のトートバッグから缶ジュースよりちょっと高さがあるくらいの水筒を出し、云った。
「友達が今、あっちのほうでペットの里親募集イベントみたいなことをやってましてね。僕も撤収作業を頼まれて来たんですけど、早すぎたみたいで。付き合ってもらえませんか」
「ああ、譲渡会の……でも、このお茶は一人分なのじゃないですか?」
青年はにっと笑って、バッグからもうひとつ同じものを取りだした。
「自分のもちゃんとありますよ。これ、カバーを外して見てください。透明でしょ? まだただのお湯なんです。こうしてしばらく逆さまにしてるとお茶の色が出てきますから、お好みの濃さになったら戻して、蓋を外して飲んでください。淹れたてですよ」
「へえ、おもしろいですね。便利な世の中になったものだなあ」
「ほんとですね。紅茶は水筒に入れて時間が経つと酸化して、美味しくないですから」
あ、ちなみに茶葉はダージリンです、と云った青年に甘え、私は紅茶をいただくことにした。喉が渇いていたのだ。
「うん、美味しい」
「よかった。……ところで、譲渡会に行ってたんですか? 飼いたくなる子、いませんでしたか」
「いや、年寄り猫をもらおうと思ったんだけどね、独り暮らしだとだめなんだそうで、諦めたんだ」
「え、そうなんだ……おひとりなんですか。寂しいですね……そういう人にこそもらってもらえばいいのに」
「人のほうはよくても、犬猫のためにはよろしくないらしいね。せめて近所に身内か誰かがいないとって云われたよ」
「そうか、なるほど。うまくいかないもんですね」
青年はまたバッグに手を突っ込み、今度は四角いクッキーの缶を取りだした。蓋を開け、自分と私のあいだに置くと「合いますよ。どうぞ」と勧めてくれた。
「用意がいいですね。よくこんなふうに外でお茶をするの?」
「ええ、偶に。最近は秋が短いので機会は少ないですけどね。さすがに夏は暑いんで、ちょっとね」
狭いアパート住まいなものだから、開放的な気分を味わいたくなるのかもしれないです、と青年は云った。そしてぽり、ぽりとクッキーを食べ、お茶を啜ると「お宅はこの近くなんですか?」と尋ねてきた。
「ああ、バス停を二つほどの距離だよ。公園の向こう側に出たほうが近いんだ。今日はたまたま、散歩していてこっち側に来ただけでね」
「そうなんですか? じゃあ、うちから近いかも。……あの、さっきの話なんですけど、もしも俺とこれからも茶飲み友達でいてくれるなら、猫を引き取れるかもしれませんね?」
私は少し驚いて青年の顔を見た。
「ええ? いや……確かに、そうかもしれないけど……どうして?」
思いついただけなのかもしれないが、会ったばかりの人間が、どうしてそこまで云ってくれるのだろうと私は不思議に思った。
そして、不意にそのことに思い至った。
「――ひょっとして、さっき私が話した人が、なにか?」
私がそう云うと、青年はあはは、と笑って頭を掻いた。
「ばれちゃいましたか。実はそうです……片付けるのを手伝いに来る約束はもともとしてたんですけど、彼に人助け猫救けだと思って早く来いって呼ばれて。誰にも興味を示さなかった年寄り猫が呼んだ人がいる、でも独り暮らしでもらってもらえないって焦ってて――」
自分が近所の仲良しさんってことにすれば特別にオッケーが出るって云うんで、慌てて来ました。と、そう説明してくれた青年に、私はありがたく甘えることにした。
今はひとりで、ろくに近所付き合いもせずに暮らしてはいるが、別に人嫌いというわけではない。自分の性別について訊かれたり、あれこれ干渉されるのは好きではないが、この青年はそういうことも云ってきそうにないし、なにより紅茶が美味しかった。これから本当に茶飲み友達になるのもいい、そう思えたのだ。
それに、これもなにかの縁だろう――青年たちとも、あの老猫とも。そんなことを思い、私はふと気づいた。
こんな歳になって、もうあとは皆のところに行くだけ、なんて思って気にもせずにいたつもりだが……ひょっとすると、私は寂しかったのかもしれない。
お茶を飲み干し、茶漉しと茶葉入れのついた便利な水筒を返すと、私は青年と一緒にまたさっきの場所まで戻った。
「――よかったなー、おまえ。いい人にめぐり逢えて。今日からおうちができるんだぞー、わかってるか?」
「俺のおかげでしょ。でもほんとによかった、住所見たらめっちゃ近いんだもん。これからちょこちょこ様子を見に伺いますね」
「ああ、いつでも遊びにおいで。その子も喜ぶだろう」
彼らは私や当の老猫以上に、嬉しそうに顔を綻ばせていた。さっきの女性が一通りの説明を丁寧にしてくれ、ケージやトイレなどの貸し出しはできますが、キャンセルせず飼う場合、必要なものはトライアル期間のあいだに購入して揃えてください、とガイドブックのようなものを渡された。
「って云われても、大変ですよね。トイレとか砂とか、けっこう大荷物になるし……よかったら僕らが買ってきて届けますよ。車があるんで」
「そりゃあ助かる。ありがとう……なにからなにまですまないね」
「ありがとうはこっちの台詞ですよ。僕ら、アパート住まいでさえなきゃ何匹でも引き取るんですが」
「おい、適当なことを云うなよ。何匹でもは無理だろ……ま、こんな調子で、好きなのに飼えないからこの活動に参加してるんですよ」
頑張っていつかペット可のマンションに引っ越そうな。そう云って、彼らは微笑んで頷きあった。その様子を見て、ああ、そういうことだったのかと、腑に落ちた。彼らは男同士だが、おそらく友達以上の関係――家族なのだろう。ふたりが自然に見つめあう姿が眩しくて、私は目を細めた。
恋が成就したかどうかは別だが、今、私が十代なら、今のこの時代なら、彼女に打ち明けることができただろうか――
「はい、あとじゃあ、ここにサインをおねがいします」
女性に云われ、私ははい、と返事をしてペンを受けとった。
既に氏名や住所などは書いたあとだったが、今度は誓約書のようなものらしい。ざっと読んでサインし、もう一枚を捲ると体重や避妊/去勢手術が済んでいるかどうかなどが記されていた。貰い受ける猫について書かれた紙のようだ。年齢・推定十二歳くらい、雌雄・メス、品種・ミックス/雑種、毛色・白――
そして、そのいちばん上の文字に目が釘付けになった。
『名前・鈴(すず)』
――涙が溢れた。たかが猫の名前なのに……ただの、偶然なのに。
「ど、どうしたんですか!?」
「えっ、な、なにか……どこか痛いんですか!? いったいどう――」
「す、すまない……驚かせてしまった。なんでもないんだ……いや、なんでもなくはないか、その……これは、この子の名前なんだね?」
「名前ですか? そうです、鈴です。今はなくなっちゃいましたけど、保護したとき首輪に綺麗な鈴がついていたんです。もともと飼い猫だったのに棄てられたかどうかしたみたいで……で、保護したときに鈴と名付けたんです」
名前を呼ばれたと思ったのか、老猫――鈴が、にゃあ、と鳴いてこっちを見上げた。私は鈴を見つめながら、独り言のように、或いは鈴に語りかけるように、云った。
「……ずっと昔、まだ若い頃に大好きな人がいたんだ……、とうとう告白することはできなかったんだけどね。その人が、鈴という名前だったんだ」
ええ、それはすごい偶然ですね、なんか素敵。女性はそんなふうに感激していたが、青年たちふたりは、違った反応だった。
「……そうだったんですか。そのくらいの時代だと、いろいろ大変なことも多かったんでしょうね……」
「……さっき独り暮らしって話されてましたけど、じゃあもしかして、ずっと……?」
「十何年か前までは親と一緒だったけれどね。そういう意味では、ずっと独りだよ」
言葉を失ったのか、青年たちはなんともいえない表情で黙ってしまったが。
「でも……これからは鈴と一緒ですね」
「そうだよ。俺たちも、ご迷惑でなければちょくちょく寄せてもらいます。美味しいお茶を持って」
ありがとう、と云おうとすると、代わりに鈴が大きな声でにゃーお、と鳴いた。
* * *
さて、鈴がこの古い家にやってきた日から半年後。
家のなかではばたばたと荷物を片付ける青年たちふたりの姿があり、鈴はいったい何事かと眼を丸くして箪笥の上に避難していた。青年たち――
あれから本当に茶飲み友達になり、私はしょっちゅう家にやってくるようになった彼らとすっかり仲良くなった。
そしてあるとき、困りきった顔をしている彼らに話を聞いた――老朽化したアパートを建て替えたいので引っ越しを考えてほしいと、大家に云われたとのことだった。新築したアパートには敷金もなしで優先的に入居できるそうなのだが、工事のあいだ住むところは探さなければいけない。いくつか物件の紹介はしてもらったのだが、友人同士のルームシェアを許可していないところばかりで、途方に暮れていたらしい。
男女であれば、夫婦でなくても一緒に暮らしていることをとやかく云われることなど滅多にないのに、理不尽なことだ。気の毒に思った私は、こんな古い家でもしよかったら、部屋なら空いているよと云った。
嘗ては家族七人で住んでいたこともある、広さだけが取り柄の家だ。私は書斎と居間、寝室にしている六畳の和室しか使っておらず、空いている部屋はいくつもある。幸い風呂や洗面所とキッチンなど、水回りは一度リフォームしているから綺麗だし、いいところがみつかるまでの間だけでも使ってくれていい。その提案に、彼らは即断即決で乗ってきた。
そして、同性カップルのふたりと、ずっとクローゼットで生きてきた
特に生活が変わったわけでもない。変わったことといえば、朝飲むコーヒーを淹れてくれるのが倫瑠になり、一緒に朝食を食べたあと行ってらっしゃいと見送る相手ができたことと、執筆のお供にはコーヒーではなく、茶葉入れと茶漉しのついた水筒を並べ、淹れたてのダージリンを飲むようになったことくらいだろうか。
夕食は彰仁も倫瑠も仕事を終えて帰宅する時刻がばらばらなので、それぞれが買ってきたり作ったり、鍋や冷蔵庫に残っていたものを好きに食べたりと、特に取り決めもなく適当にやっている。そういえば、今までひとりではあまり食べなかったメニューも少し増えたかもしれない――彰仁が得意な手作り餃子とか、倫瑠の作る、懐かしい家庭の匂いがする、野菜がごろごろ入ったカレーとか。
そして鈴は、広い家でのんびり自由に過ごしている。私がデスクに向かっているときはたいてい縁側の、私から見えるところで寝ている。ぽかぽかと陽の当たる場所に敷いた座布団は、もう完全に鈴のものだ。
このまま独り、寂しく死んでいくのだと思っていた。叶わぬ想いに身を焦がしたあの青春の日々を、誰にも語ることなどないと思っていた。「鈴」という名前を、こんなに数えきれないほど呼ぶ日が来るなんて、想像もしたことはなかった。
何度となく夢みた、小説のなかに綴った理想とは少し違うけれど――
私は今、大切な家族と一緒に暮らし、幸せに過ごしている。
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♪ "Just My Imagination (Running Away with Me)" The Temptations, 1971
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