NOSE BREAKER

尾八原ジュージ

さらばノーズブレイカー

 転送装置の計器が弾き出した数値から、ここが並行世界の新宿だということはわかっていた。しかし、元いた世界と何が違うのかはまだわからない。とりあえず人の来なさそうな路地裏に転送装置を隠すと、俺は街に繰り出すことにした。

 世界初の転移実験成功を喜ぶのはまだ早い。ここが本当に並行世界ならば、元の世界と何らかの違いが見られるはずだ。それを見つけなければ。

 やはり人の多いところの方が変化を観測しやすいだろう。そう考えた俺の足は自然と新宿駅に向いていた。元の世界でもよく利用する場所だ。

 駅を出入りする人の群れに入り込む前に、俺は一度あたりを見回した。もしもこの世界の俺と鉢合わせたら、何が起こるかわからないからだ。様々な仮説が提唱されているが、最悪の場合、ふたりとも消滅してしまうかもしれない。

 南口の改札手前で入場券を買い、元の世界の通貨が普通に使えたことに半ば感動、半ばがっかりしながら自動改札をくぐる。平日、ラッシュの時間は過ぎているものの、人通りは少なくない。すれ違う人々の体型、服装、歩き方、言語……見慣れたものとまったく変わらないように見える。

 本当にここは並行世界なのか? 転送実験は果たして成功したのだろうか。まったく実感が得られないのだが……早く元の世界との「明らかな差異」を見つけて、元の世界で待っている仲間たちに報告しなければならないというのに。

 もしこの実験が失敗しているとすれば、次の転移実験までにまたどれだけの時間と費用がかかるだろう。そうなればこれまでの借金は……などと歩きながら考えていたら、下腹が痛くなってきた。俺は昔から心配ごとがあると腹にくる。猛烈な便意が襲いかかってきた。

 幸いここは新宿駅、利用者の多い駅にはそこかしこにトイレがある。俺は下腹を押さえながら、さっそく目についた男子トイレに駆け込んだ。トイレのマークすら元の世界のものと同じである。おいおい勘弁してくれ、早いところ変わったところを見つけなければ……と、俺は思わず「ぐえっ」と声を漏らした。

 ない。個室がないのだ。小便器だけがずらりと並んでいる。これでは大便ができない。用が足せないじゃないか。

 俺は急いでトイレを出た。ちょうど目の前を、制服を着た駅員が通るところだった。

「すみません! トイレはどこですか?」

 駅員は不思議そうな顔をして、「お客様が出てこられたところがトイレですが……」と答えた。

「いえそうじゃなくて、個室があるところを探しているんですが」

「個室は女性用と多目的トイレのみの設置となっておりますが……お客様、お着替えでしたら申し訳ありませんが多目的トイレではなく、更衣室をご利用願います」

「いや、更衣室じゃその……大きい方ができないでしょう」

 腹がグルグルと鳴った。とっさに括約筋がググッと収縮する。しかし駅員はなおも不審げな顔で、

「トイレに大きい方も小さい方もないと思いますが……」

 と呟いた。

 嫌な予感がした。いや、もはやそれは予感というより確信に近かった。念願の「元の世界との明らかな差異」、その発見の兆しを見ながら、俺は新たな絶望に心が満たされていくのを感じた。

「う、うんこをしたいんです」

「は? 何を?」

「体内の不要物を固形の状態で排出したいんです……」

「えっ、えっどういうことですか? あっ、ご病気ですか!? 救急車!」

「違うんだって!」

 そこに「救急車」という言葉を聞きつけたのか、ガードマンが駆けつけた。

「どうかしましたか!?」

「こちらのお客様がその、なに? 固形の形で排泄をとかなんとか……」

 説明に困っている。それはそうだろう。おそらくこの世界の人間は「大便をしない」。うんこという概念自体がないのだ。おそらくこの駅員も、俺が具体的に何をしたいのかよくわかっていないに違いない。

「あー! それはあれだ、あははは」

 ガードマンが笑い出した。「それ、漫画のネタでしょ!」

「漫画?」

「えっ、ご存知ないんですか? 今『NOSE BREAKER』っていうのが滅茶苦茶流行ってるんですよ。排泄口から固形物を出して戦う男が主人公の、まぁ異能バトルものですね」

「排泄口から? 下品だなぁ」

「下ネタだからウケるんですよ! 食べたものによって能力が変わるんで、そこが奥深いっていうか頭脳戦なとこもあって。でも何にせよ出したものが滅茶苦茶臭いんで、主人公についたあだ名が『ノーズブレイカー』」

「はー。そんなのあるんですか。よく考えるもんだなぁ」

「斬新ですよね」

 いや、うんこじゃねえか。

 俺は心のなかで悪態をつきながら、ふたりの会話を聞いていた。できるだけ喋らないほうが楽だった。こめかみを脂汗が流れ落ちる。この世界で、そんなうんこで戦うみたいな漫画がヒットしているとは……転移成功の証拠として、できればコミックスを手に入れておきたいところだがそれどころではない。おそらくこの世界に大便ができる便所は、ない。この世界の人間がどんなかたちで排泄を行っているのか定かではないが、ともかくここにある水洗便器には、うんこを流す機能が備わっていないだろう。

「あっ、そうだ! ぼっとん便所! ぼっとん便所はありませんか!?」

 思わず大声を出したためにまた肛門がギュッとなった。が、我ながらいい考えだ。これならうんこだろうが小便だろうが流さなくて済む。

 が、駅員とガードマンは顔を見合わせ、

「今どきぼっとん便所はちょっと……」

「ていうかネタでしょ? このお客さん」

 と半笑いで話している。まぁそうか。ぼっとん便所なんてほぼ見かけることないもんな。クソッ。こいつらの表情がどうしようもなく気に障る。人が今まさに人生最大のピンチ、つまり「新宿駅の雑踏の真っただ中で、いい年こいた大人がうんこ漏らしそう」という未曾有の危機に見舞われているというのに、それに同情するものも、助けようとするものもいないのだ。

 かくなる上は移動するしかない。大便所のある場所、すなわち元の世界へ。一刻も早く転送装置のあるところへ行かなければ!

 グルグルグルグル……

「あっ!」

 焦ったことが裏目に出た。ゆるめの大便が怒涛の奔流となって、腸内を流れ始めたのである。決壊はもはや目前、それが経験則でわかる。尻にグッと力を入れ、内股になった俺は、もはや一歩も動くことができない。

 駅員とガードマンが、気味の悪そうな顔で俺を見つめている。きっと見るからに異様なのだろう、ちらほらと立ち止まる人もいる。撮影しているらしく、スマホを構えている姿もある。

 まずい。衆人環視の中でうんこを漏らす舞台が整いつつある。ちくしょう。

 こうなりゃやけくそだ。披露してやろうか? 俺の超絶特殊能力、本物のノーズブレイカーを。この世界で「うんこを漏らす」ことができる人間が俺しかいないというのなら、人前でうんこを漏らしたって恥でも何でもないのかもしれない。いや、むしろ凄いことなのではないだろうか? 俺はヒーロー・ノーズブレイカーに近い能力を持つ、おそらく世界で唯一の人間なのだ。脱糞はむしろ称賛されるべき、恥ずかしくなんかない……

 いや、やっぱり恥ずかしいわ! そんな急に意識改革できるか!

 こんなところで、こんな人前で脱糞したらたぶん一生のトラウマになる。もしくは新たな性癖の扉を開いてしまう。一生開かなくていい類のやつを。まずい! だが!

 

 ここまできた便意は! コントロールできない!


 頭の中に、故郷の両親の顔が浮かんだ。初恋の女の子が、仲の良かった友達が、高校時代の彼女が、そして研究所の仲間の顔が次々と浮かんでは消えた。

 じわ、と熱いものがパンツの中に漏れ出した。そのとき俺は、何か強く引き付けるような気配を感じた。

 糸で引っ張られるように振り向いたそこには、スマホカメラを構えた俺自身の姿があった。

 あれは俺だ。この世界の、俺だ。

「わはははははは」

 俺の上の口から漏れたのは笑い声だった。下の方はもうどうしようもなかった。

 俺の顔を見て、驚いたように口を開けたこの世界の俺の右目が、突然ポン、と消えた。同時に俺の右の視界が失われた。前に差し出した右手が、ぽかんと開けた口が、対応する部分が同時に、次々に消滅していく。やはり同じ世界に同じ人間は存在することができないのだ。

 ああ、皆にこのことを報告できないのが残念だ。隠しておいた転移装置はどうなるだろう。こんなところで消えてなくなってしまうなんて、思えばしょうもない人生だった。俺が遺せるものなんて何もない……いや、ある。この世界には存在しない、したがって対になって消滅することのないものが、今ズボンの中を、消えかけた足を伝っていくではないか。これを笑わずして何を笑えばいいだろう。

「えっ!? くっさ!」

 俺の意識の最後の残滓が、駅員の悲鳴のような声を聞き届けた。こうしてうんこだけが……否、この世界においてはなんだかよくわからない臭いものだけが、その場に残されたのだった。

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