最終話:ひとりを始めよう

 予定通り四十分ほどで、島が行く手を塞いだ。緑の豊かな丘を一つ、陸から持ってきて、ぽんと置いたような。

 桟橋や堤防は見えない。ゆっくり、砂浜に近づく。白く波の砕けた海へ、まずはオレが飛び込んだ。膝までもない浅瀬だが、背中が濡れた。


 船長さんに言われ、ロープを引っ張る。舟を乗り上げさせれば、先輩と明椿さんは濡れずに済む。

 無事に下舟し、釣り舟を見送った。「じゃあの」と、船長さんはカッコ良く手を上げた。


 戻る方向に、土原学園の町がある。でも水平線に見える陸地は、藍色の紐がただ放り投げてあるようで、位置の見当もつかなかった。


「ご近所さんがあるねえ」


 同じく海を眺める先輩が、はしゃいで指さす。たしかに、倍も大きな島が見えた。

 しかし遠い。仮に波がなかったとして、オレが泳ぎ着くのは無理だ。


「こっちみたいですね」


 後ろで明椿さんも指を突き出す。向けたのは山頂のほう、踏み分けた道が森の奥へ続く。

 踏み分けると言っても、人間の足じゃなかった。タイヤ、いやキャタピラ?


「ブルドーザーでも通ったみたいだね」

「そんな、いくら七瀬先生でも」


 まさかの思いが強く、咄嗟に否定した。だが轍を見れば、やはり重機の跡にしか見えない。

 という疑問はすぐに答えが出た。三分も歩けば開けた平地と小屋が見えて、手前に人の背丈ほどのショベルカーがあった。


「あんな物まで持ち込んだんだ」

「先生は、か弱いから。必要でしょうね」


 か弱い——まあ。

 明椿さんの評価に異論はない。そのか弱い人のぶち抜いたらしい、ちょうど三人で並べる道を進む。

 当然に舗装もない。坂の角度も自然のまま。一歩でも外れれば、そこはジャングルの只中。


「景色がいいねえ」


 斜面から大きな手を突き出したように、小屋の建つ土地は天然の展望台になっていた。

 端に向けて先輩が駆け、明椿さんも追う。

 オレはゆっくり、景色よりも小屋を観察しつつ着いていく。


 太陽と潮風に洗われ、真っ白の板壁。寸法も縮み、あちこちすき間だらけ。正直な第一印象は「よく崩れないな」だ。

 広さだけは三部屋分ほど。庇のない、おそらく玄関と思われる引き戸も。


「ねえねえ明椿さん、あっちも綺麗!」


 そっちも、こっちも、と。先輩が駆け回る。栗毛の子犬みたいで、抱き上げたくなる。

 転げ落ちないか、飼い主の心境にもなった。


 傍へ行くと、浜から三十メートルほどの急勾配が恐ろしげだ。生い茂る木々が、突き刺さりそうで怖い。


 しかしこれだけの高低差で、荒々しくも涼しい風の抜ける天国に思えた。広大な海がきらきらと、なにもないのにお腹がいっぱいになる気がした。


「先生、いないのかな」


 ひとしきり騒いでも、「おいこら」と出てくる気配がない。呟いた先輩に並び、改めて小屋を眺める。


「呼び鈴がありませんね」


 臆す風もなく、明椿さんは引き戸の周囲を探す。でもやっぱりないようだ、遠慮がちに作った拳が戸を叩く。

 嵌まった小さなガラスが賑やかに喚くものの、やはり応答がなかった。


「いないみたいですね」


 じゃあどこへ? とは悩まない。まさかジャングル探検ではないだろうから、行き先は一つだ。

 この島に商店街や飲み屋街があれば別だが。


 浜から上ってきた坂を、さらに上へ。やはりキャタピラで拓かれた道を五分くらい。辺りに甘酸っぱい柑橘の匂いが漂い始めた。


 周りの森と明らかに違う、黄金色の実を抱えた木々。夏みかんだ。

 伸び放題の下草にもめげず、整然と並ぶ。およそ五メートル間隔で七、八本先。オーバーオールの小柄な人影が見えた。


「あっ、七瀬先生!」


 叫んで、先輩が走る。腰に達すような草もあるのに、ものともせず。背中のリュックにはお土産の缶詰めなんかが満タンのはずだが。


 置いていかれた者同士、見合って笑った。栗毛のわんこは、本来の飼い主にもう飛びついている。

 明椿さんも、オレも、保存食やガスボンベを背負い直した。


「お久しぶりです」

「無事に卒業したらしいな」


 日に焼けた顔がツヤツヤだ。大きな麦わらのおかげか、それほど真っ黒とも思わなかった。


 見覚えのある脚立で、夏みかんをもいでいたようだ。腰の籠から一つずつ、投げて寄こしてくれる。

 スーパーの売り物より硬く、小さい。けど強い芳香は、比べ物にならない。


「ええ、まあ。オレたちは」

「オレたちは?」


 首を傾げつつ、先生は「まあ座れ」と案内してくれた。あつらえたような円い空間に、円いテーブルと籐のベンチが置いてある。


「三年の春、田村は退学しました。それに津守先生も、年度いっぱいで」

「そうか。好きにするさと思うが、良顕は当てがあるのか」


 いつもそうしているんだろう。長靴のまま、先生はベンチに横たわる。先輩と明椿さん、ついでにオレは、もう一つのベンチに。


「例の環境委員だった人たちが、東京でなにかしてるみたいで。でも田村と直接話すのが誰もいなくて」


 二年に上がって以降、田村と同じクラスにはならなかった。俵と一緒だったはずだが、あの時があんな様子で、仲良くもしないと思う。

 どの道オレが直接に知る機会はなかった。


「弥富か?」

「そうです。クラスの友だちから」


 先生の察した通り、先輩が三年の時のクラスメイトに聞いた話だ。問題の同級生は一人もいなくて、先輩は徐々に自分の教室へも通えるようになった。


 それはたぶん、茶髪女子の影響も大きい。先輩の事件を知らなかった一年生の間で一挙に広まり、名前の分かっている人たちは居場所をなくしたようだから。

 話したのか聞くと「はあ? 誰にも言わないって言ったでしょ。あたしは・・・・ね」と叱られたが。


「そうか、良かった」


 田村や津守先生のことなどどうでもいい。卒業しても、先輩に友だちがいる。たぶんそのことに、先生は微笑んだ。

 一番近い位置で、先輩も「はいっ」と笑う。


「辞めるとお聞きした時は驚きましたが。これが七瀬先生のやりたいことなんですね」


 茶でも淹れよう。と、焚き火を指示された。大きな石で、炉のようなものは組んである。

 頭より大きなヤカンを火にかけ、空と森と夏みかんを眺めて待つ。

 そのうちに明椿さんが、もらった夏みかんをしみじみ見つめた。


「せめてオレたちが卒業するまで待ってくれても良かった気がするけど」

「ね」


 さっきの仕返しではないが、明椿さんを味方に引き込む。

 先輩の卒業式の日、七瀬先生も辞めると発表があった。オレたち三人は驚かなかったが、タイムラグは一日だけだ。


 でも、無人島を開拓するような暮らしがしたい、とは何度も聞いていた。なんだか知らないけどタイミングが合ったんだな、と納得もした。


「何十年も前に放棄された島だ。ちょうどと言ってはなんだが、持ち主が亡くなった」

「買ったってことですか」

「七瀬学園名義だ。私は現地総督を仰せつかった」


 明椿さんは目を真ん丸にした。先輩は嬉しそうに「へえぇ、凄いですねえ」と。

 ちくしょう、可愛い。

 かく言うオレも驚いている。でも、まさかくらいには予想していた。


「仰せつかった、んですか」

「誰が起案しようと、スポンサーがやれと言わんことにはな」


 ニヤと笑う男前に、磨きがかかっている。本当に色々なタイミングがあったんだろう。

 そう思うと、ここにオレがいることを図々しく感じる。ごくり、唾を飲む音が予想外に大きく聞こえた。


「ゆくゆくは、小中学生に自然体験をさせる場所になる。その前に夏みかんの農場だが、まだ見ての通りに荒れ地でしかない」

「はい、お手伝いします」


 すかさず明椿さんが答え、先輩が手を挙げた。ふたりとも連休を利用して、収穫と草刈りを手伝うそうだ。明ければ学校があるのに、おそれいる。


「道具はそこの籠だ。しかしその格好では怪我をする、家で着替えてこい。鍵はない」


 生足が四本。惜しいが、怪我をしてほしくはない。涙を飲み、意義を唱えなかった。

 ただ、その前に言わなければ。ふたりを引き留めるのは、それが理由だ。


「あの、先輩。明椿さん、ちょっと。オレ、先生に言わなきゃいけないことがあって。ふたりにも聞いててほしい」


 ベンチを立ち、テーブルを挟んだ先生の真正面に。

 震える喉で深呼吸を繰り返しても、いったいなんだとは誰も言わない。トンビかカモメかが、ギャアッと嘲笑うだけ。


「七瀬先生、オレをここに置いてください。就職とか言うつもりはありません。土地を拓いて、土を起こして、新しい家も桟橋も作ります。食う物がなければ探してきます。なんでもやりますから、お願いします」


 いっそ土下座をしようかと思った。しかしそれは、きっと間違いだ。

 会釈よりもほんの少し、深く頭を垂れる。それも数秒、すぐに先生の顔をじっと見つめた。


「この島には電気も水道もガスもない。道を作るために、私は土木機械の免許を取った」


 先生は寝転んだまま、つまらなそうに見返す。今にもハナクソをほじりそうだ。

 だからって遠慮する理由はなかった。たぶん、きっと。


「オレは高校を卒業したばかりで、なにもできません。だから教えてください、オレも同じ免許を取ればいいですか。それとも船ですか、工事の資格とか要るんでしょうか」


 なるべく、まばたきもしない。そのせいで泣きそうになったが、射殺す気持ちで先生を睨む。

 いや、殺しちゃダメだ。だけどそのくらいに強い気持ちと示したかった。


 静かに、真白な風の槍が木々の頭上を切り払う。はらはらと数枚、足元に降る。

 それが三度。その間、誰も声を発しなかった。先生が起き上がる気配も。


「見嶋くん……」


 微かに、先輩の声がした。祈る形に合わせた両手を震わせて。

 そこへ明椿さんの手が伸びる。先輩の両手を包み、七瀬先生を見つめた。やはりまばたきを忘れたみたいに。


「やれやれ」


 ちょっと不機嫌な声で、先生は起き上がる。どこの戦国武将ですかって感じに、ベンチへあぐらをかいた。


「それほど安売りでいいなら、買ってやる。お前っていう人間のこれからを」

「あ——」


 ここにいて、いい。そう言われたと理解しても、声が出なかった。

 間違いなく嬉しかった。少し、怖かった。百パーセント、不安だった。だけどオレの居場所はここだと確信した。


「メシの保証もしてやれんが、初任給はくれてやる」

「え?」


 働いてもないのに? また唐突だが、要りませんとも言えない。頭の中が疑問符でいっぱいだ。

 おもむろに、先生は腰の辺りをゴソゴソ探る。収穫用の袋とは別に、小さなポーチを着けていた。


 中からひと握りの、白い塊が取り出された。とても大切な、今また初任給と付加価値の付けられたそれが「ほれ」と放られる。


「わっ、とっ!」


 二度、お手玉して受け取った。真っ白——ではなく、土と葉っぱに塗れた白き槍の女神アルテミスランサーを。


「私はひとり、お前もひとり。得手と不得手はあっても、総じて大差はない。気負わんでいいが、ひとり分。期待するからな」

「はいっ!」


 危うく握り潰すところだ。先生と、憧れの人と同じ、ひとり。これ以上の言葉はない。溢れそうになった涙を汗と一緒に拭い、オレは歩き始めた。

 七瀬先生と切り拓く、最初の一歩を。


 ― 今日から楽しむ高校ぼっち 完結 ―

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今日から楽しむ高校ぼっち 須能 雪羽 @yuki_t

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