エピローグ
第115話:海の向こう
◇◇◇
あれから、もう少しで三年が過ぎる。
今日こうして舟に乗り、胸いっぱいなんて言葉では足らないほど潮風を嗅ぐとは、あのころ思いもしなかった。
土原学園を卒業して、最初のゴールデンウィーク。オレは日本海の荒波を進む。
「見嶋くん。そこ、波かからない?」
最大人員十五人と書かれた、屋根もない釣り舟。
それは同時に、舟を打つ波にも無防備ってことだ。右へ左へ、どころか上下にも揺さぶられる。が、これくらい耐えなければ、これからの目的なんてとても——
「ダメですよ弥富先輩。見嶋くんは、ああいうの好きなんだから。気が済むまでやらせてあげないと」
「そっか、ごめんね」
背中から、とても平和で幸せな声が聞こえる。海の男ごっこはやめ、おとなしく舟べりの席へ戻った。
捲っていた長袖Tシャツも元通りに。
「せっかくの連休にすみません」
「ううん、こちらこそだよ。去年は参加できなかったし、ふたりと遊びたかったもん」
対面へ、うなじも露わに髪を短くした先輩が座る。密かな呼び名をどうするか、絶賛検討中だ。
まあでも、なんとなくスッキリした感じがする。髪のせいだけじゃなく、きっと毎日が楽しいんだろう。
「短大、お忙しいんじゃないですか?」
先輩の隣、明椿さんの黒髪はさらに伸びた。巫女のコスプレをしたら絶対に似合う。
白いシャツと、初めて見るデニムのハーフパンツ。きっちり閉じた脚は、どんなに揺れても動かない。
「そうでもないはずなんだけど。要領悪くて、ひとりでバタバタしてる。だけどあさってまで、ちゃんとお休みだから」
細い先輩の声も漏らさず聞こえるくらい、風が優しい。渡しを頼んだ船長さんいはく、急げば二十分のところ、四十分の速度と。
「大変ですね。それならゆっくり過ごしてください」
最初はキツネみたいと思った鋭い目が、柔らかな弧を描く。
同じく先輩の眉も、同じカーブで笑みを作る。ふとした時にルの字を見るが、段々と機会が減った。
いつか、完全になくなるといい。ないものねだりで見たくなるだろうが、その分の写真はスマホに膨大だ。
「ゆっくりできるのかな」
「収穫と言っても、まだ実験段階だそうですし」
「私、やったことないよ。楽しくて、ゆっくりしてられないかも」
「じゃあストレス発散ですね」
まだ傷一つないスマホは、卒業してアルバイトに励み、自分で買おうとした。でもばあちゃんが店に着いてきて、「お祝いよ」とお金をくれた。
何年か先、壊れた時にどうしよう。今から悩む。
さておき。サッと取り出し、四本並んだ脚――でなくて、並んだオレの仲間を撮る。
気づいて手を振る先輩。お見合い写真かなっていう明椿さん。ふたりとも変わったけど、変わらない。
「明椿さんも大丈夫だったの?」
「ええこの時期は、よそで大会をやってるので。学校も高校よりゆったりしてるくらいです」
セーラー服みたいな先輩の白い襟が、顔にかかる。「なにこれ」と慌てるのを明椿さんが「あはっ」と直す。
微笑ましいが、羨ましくて妬ましい。たまに恵美須さんとも出かけると聞いた。毎回でなくていいから交ぜてくれ。
「会計士だっけ、税理士?」
「うーん。迷ってるというか、取れるものなら全部取ってしまいたいと思ってます」
「凄いね。難しそうなのに」
「いつか、の話です。保育士だって尊いお仕事ですよ」
もはや将来でなく、足下になった進路の話が耳に痛い。聞こえないふりで、舟の行く先を眺めてごまかす。
それなのに先輩がこちらを向いた。なくなるように、と願ったばかりの困り眉で。
「見嶋くんは本気?」
「……いやあ、オレは先輩のところで保育されたいです。お子ちゃまなんで」
なんておふざけで、やり過ごせるはずがなかった。盗み見れば明椿さんも、いつか見たような硬い表情で睨む。
「そんなことない、見嶋くんは立派な部長さんだったよ。やろうと思えば、色んなことができるはずだよ」
「ですね。クラスでは、いるのかいないのかでしたが。見嶋くんのレクリエーションで新入生が居ついてくれたのは間違いないです」
明椿さんは褒めているのか? 先輩みたいに手放しも困るので、ちょうどいいが。
「いやいやいやいや。入ったのが女の子ばかりだったし、文芸と関係ないことばっかりだったし」
おととしがふたり、去年は三人。文芸部も人数を増やした。
みんなタイプの違う女の子ばかりで、実にめでたかった。反面、部長を譲る相手には迷った。
「それでもだよ。見嶋くん、
それはない。たしかにあの日ほどのことは二度となかったが、ほかにも落ち込んでばかりだった。
先輩に。明椿さんに。新しい部員に。
ああ言えば良かった、言わなきゃ良かった。ああすれば良かった、しなきゃ良かった。
毎日、毎日、後悔しなかった日はない。
「オレが変わったって、分かりません。自分ではヘタレのままだと思ってますし。だけど七瀬先生に教えてもらったんです」
唇のひび割れた気がした。思い浮かべはしても、久しく。少なくともこの一年は、声に出さなかった名前。
せえの。と息を合わせたように、三人ともが同じほうを向いた。この舟の進む先を。
「ずっと。できないことが恥ずかしくて、できるふりで合わせようとしてました。でもひとりの人間が、そんなになんでもできるわけないんですよ」
見られていないならちょうどいい。
七瀬先生の言いたかったのは、こういうことか。答え合わせのつもりで吐き出した。
それこそ自信がないなら、とっとと誰かに聞けよ。と言われるだろうけど、肝心なことにはやはり臆病になる。
「だから部室でタコ焼きしたり、ゲームのトーナメントやったり。オレはこんな奴だけど、それでも良ければ部員でいてよって。文芸部はこうじゃないと思ったら、ごめんって」
顧問だったあの人と、やってることは変わらない。それでもオレは楽しかったから、同じ気持ちがひとりでも増えれば嬉しい。
そんな言いわけじみた独白に、頷きが二つあった。
「良かったんだよ、それで。うちの部は」
ありがたいことに、先輩は言葉にもしてくれた。ただし進む風に顔を背けず、気持ちがここから薄れているのも間違いない。
「早く、会いましょう。七瀬先生に」
きっとみんな同じ思いを、明椿さんが呟く。
もちろんだ。でなければオレは、本気かと問われたことに答えられない。
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