第114話:白き女神の帰還
「おいこら」
とってつけたような低めた声。空いた手が、オレの手首をつかむ。
「私を見ろ。目を逸らすな、私を見ろ」
見てる。じっと続けて見られないだけで、見てる。
口にも出さなかった言いわけが通用するはずもなく、また「おい!」と。先生の細い腕がオレを揺らす。
危うい。
「目を逸らし、戻したところで。今までもぎ取らずにきたものを、いつの間にか握ってたなんてことはないんだよ」
ひと言を発するたび、先生はオレを揺すった。するともちろん先生自身も揺れ、石けんと柑橘を混ぜたように風が匂う。
「やりたいなら手を伸ばせ、欲しいと言え。届かなければ、人を頼れ。お前にはその資格がある」
いい香りだし、懐かしい。タク兄がそんな匂いをさせてはなかったはずだけど。
なんてことを上の空で考えたわけでなく。匂いと言葉が、あの夏の境内を思い出させた。
あのころ、誰かに嫌われてるかもと案じたことはない。ベーブレが楽しくて、みんなでいるのが嬉しくて、タク兄が好きだった。
ほかに余計ななにもない、ただそれだけ。
「お前がお前を信用せんのは勝手だがな、私の評価までなかったことにするな。そこは私の領分だ」
見つめた。先生の口を。
たぶん口紅が付いている。おそらくピンクで、自然な唇と思わす色。
不思議な気分だ。タク兄でない人の口から、タク兄のような、オレを励ます言葉が次々出てくる。
「私は私で生きていく。お前もお前で勝手に生きろ。弥富も、明椿も。ただ、時に並んで歩くのもいいだろう。お前の優しさは、そう思わす」
優しいのは先生だろう。
分かり合える誰かは、オレにずっと現れない。だからタク兄との再会もなかったことにしよう。
と思っただけで、ほとんど言葉にできなかった。のに、答えを教えてくれた。
そうか、と受け入れること。実行すること。オレでなければ出来ない部分を残して。
「お前、どこを見ている?」
「唇」
「——このスケベ野郎」
握った両手のそれぞれが、オレを突き飛ばす。素直に答えたのに。そういう意味じゃないのに。
「勝手な期待って、プラスのこともあるんですね」
ソファーの半分に、仰向けで寝転ぶ。真っ白い天井へ、無数のカモメが飛んでいる。
「当然だ。しかし好意が、お前のプラスになるとは限らん」
きっと先生も寝転んだ。張りのある座面が、小さな身体にも波を立てる。オレを揺するほどでなく。
「難しいですね」
「難しいというより、面倒くさい。だから私にはできん」
どうやらオレは、ソファーの半分を使っていいらしい。
いつ、ベッドにするからどけと言われるか分からないが。それまでは。
今この時だけでなく、これから先も同じかは自信が持てない。
でも、まずは同じと仮定して進んでみよう。そう思えた。
「そういえばオレ。やりたいことがあって、ここに来たんですよ」
「んん?」
勢いをつけ、起きる。さっきよりも大きな波が、七瀬先生を揺らした。
いつの間にやらポテトチップを開けていて、ものともせずに食べ続ける。
まあ気にしない。カバンを引き寄せ、中を探った。空っぽ同然で、求める硬いプラスチックの感触にすぐ辿り着く。
「これ、返さなきゃって。ずっと後悔してて」
取り出した真珠色が、夏の終わりの陽射しに映える。目に刺すほどでなく、しかしキラキラと輝いて、四歳のオレには宝石以上に見えたはずだ。
あの日もこんな色だったか?
ふと考えたが、思い出せるはずもない。歯を食いしばり、抵抗する腕を強引に突き出した。
先生は寝転んだまま、腹の上の
今さら返されても困るかな。不安がよぎり、無視を決め込む。この人なら、必ず受け取ってくれると。
「要らん」
起き上がりもしない。そんな物より食い物とばかり、先生の手はポテトチップの運搬を再開する。
「ええ……」
「今さら置き物にもならん。お前にやる」
不要と言うのは当然だし、くれるのならありがたかった。
だが口を尖らせたい気持ちもある。ずっと持ち続けて、せっかく返す覚悟をしたのに。
「ええと、じゃあ。とりあえず受け取ってもらえませんか。で、またすぐください」
「面倒くさい」
おい誰か、さっきの会話を録ってないか。
そうだこの部屋にはカメラが仕掛けてある。それを。
とまではしないが、ちょっと言いたい。
昔はなんでも率先してやってたのにな、とも。これは言ってはダメなやつだけど。
「分かったんですよ、タク兄はもういないって」
しかめた顔が「あん?」という声に、なに言ってんだとルビを打たせる。
「オレがタク兄と呼んだのは、あの神社にしかいないんです。ここで出会ったのは、女の人で。一緒にメシ食ったのは、七瀬先生なんですよ」
もし。中学生にしか見えないこの先生が、タク兄でなかったとして。それでも文芸部に入ったし、これからも居続けたい。
「だから昔のことに、ケリをつけさせろ。か?」
思った通りが、先生の声で聞こえた。
オレが笑ったのは、きっと照れ笑い。言い当てられたのと、同じ考えに行き着くんだって気恥ずかしさ。
「さっさと寄越せ」
ため息で、のそのそと先生も起き上がる。こっそりわき腹のところで、油のついた手を拭いながら。
出された小さな手へ、両手で丁重に載せる。九年と何ヶ月かぶり、
「ふん……ところでお前、これを返すために来たって。でっちあげたろ」
要らんと言ったわりに、先生はしげしげと眺めた。と思っていたら、突然にあらぬことを。
「ででで、でっちあげなんて」
「共学になったばかりの、元女子高。いくらでも彼女を選び放題」
じとっと細めた目が、大正解を吐き出す。それは互いの中央へ、ぼとっと落ちた。
言ったっけ? そんなバカな。
過去最高の回転数で脳を動かしても、思い出せない。
「そんな奴に持たせてはおけんな」
「えっ、なんでですか」
どういう関係があるのか。先生は白いベーブレを、オレから遠ざける。
ください。返して。返せ。いくら言っても、強行に手を伸ばしても、叶うことはなかった。
「嫌だ」
避ける先生が、珍しく声を出して笑ってくれて。せめてこれが慰めと思っておこう。
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