第十幕


 第十幕



 左右一振りずつの手斧を手にした始末屋は、議事堂にも似たレセプションホールの巨大な鷲と鉤十字ハーケンクロイツのレリーフの下で豪奢な造りの椅子に腰掛けたアドルフ・ブラフマンを亡き者にすべく、そちらの方角へと足を向けた。

「おい、止まれ、始末屋! 今すぐ止まるんだ! それ以上こっちに近付くようなら、こいつの命は無いぞ!」

 するとそう言ったアドルフ・ブラフマンは椅子から腰を上げ、その椅子に手錠でもって繋がれたヴァルヴァラを強引に抱き寄せると、腰のホルスターから抜いたルガーP08自動拳銃の銃口を彼女のこめかみに押し付けながら後退あとずさる。背格好がよく似た少年少女であるアドルフ・ブラフマンとヴァルヴァラの二人が並び立つその姿は、遠目には幼い男女が仲睦まじく身を寄せ合っているように見えなくもない。

「よりにもよって子供を人質を取るとは、貴様ら『アーリアン・ドーン』も随分と落ちぶれたものだな」

 やはり皮肉交じりに始末屋はそう言うが、人質に取られたヴァルヴァラの身の安全を第一に考えるならば、彼女がその足を止めざるを得ない事は自明の理であった。そして足を止めた始末屋に、微細なエングレーブ、つまり彫金模様が施されたルガー拳銃を手にしたアドルフ・ブラフマンは重ねて要求する。

「よし、それじゃあ次は、その手に握る武器を捨てろ! さあ、さっさとその斧を捨てるんだ!」

 そう言ったアドルフ・ブラフマンの言葉に従い、始末屋は左右一振りずつの手斧を床へと放り捨てた。

「よし、そのまま後退し、そこに転がっているクシャトリヤのナイフを拾え! そしてそのナイフでもって自分の首を切り、自害するんだ! 早くしろ!」

 アドルフ・ブラフマンがそう言って命じれば、命じられるがままに後退あとずさった始末屋はクシャトリヤの死体の脇に転がっていたククリナイフを拾い上げ、その切っ先を彼女自身の喉元へと突き立てんとする。

「そうだ、そのまま自害するんだ!」

 ヴァルヴァラを人質に取ったアドルフ・ブラフマンがそう言って、始末屋に重ねて命じた次の瞬間であった。彼が始末屋の動向に気を逸らされている隙に接近した第五の人影が、アドルフ・ブラフマンに背後から飛び掛かると、その手に握られたルガー拳銃を奪い取ろうと試みる。

「なんだ、糞、何をする!」

 そう言って抵抗するアドルフ・ブラフマンに飛び掛かった第五の人影とは、白髪混じりの胡麻塩頭の中年男性、つまりヴァルヴァラの実の父であるボリス・イワーノヴィチ・アキモフ医学博士であった。

「ヴァルヴァラから手を放せ! もうキミを助けてくれる男は死んだんだ!」

 ボリス・アキモフ博士はそう言いながらアドルフ・ブラフマンと取っ組み合い、ヴァルヴァラを人質に取った彼の手から彫金模様が施されたルガー拳銃を奪い取ろうと、徒手空拳のまま孤軍奮闘する。

「糞、この白髪頭の老いぼれめ!」

 すると浅黒い肌のインド・アーリア人の少年であるアドルフ・ブラフマンはそう言いながら、ルガー拳銃の銃口をボリス・アキモフ博士に向けると、そのまま躊躇無く引き金を引き絞った。ぱんと言う乾いた銃声と共に射出された直径9㎜の鉛の拳銃弾がボリス・アキモフ博士の腹部に命中し、その衝撃でもって、彼は後ろ向きにつんのめるような格好でもってその場にどうと転倒する。

「ふん!」

 しかしながら、このボリス・アキモフ博士の捨て身の抵抗も、決して無駄には終わらない。何故ならアドルフ・ブラフマンの気がヴァルヴァラからその父親へと逸れた瞬間を見計らった始末屋が、まさに間隙を突くような格好でもって、手にしたククリナイフを投擲したからである。そして投擲されたククリナイフは虚空を切り裂きながらアドルフ・ブラフマン目掛けて飛び来たると、そのままルガー拳銃を握る彼の右の手首をすぱっと切断してみせた。

「ぎゃあっ!」

 右の手首を切断されたアドルフ・ブラフマンは苦悶の声を上げ、真っ赤な鮮血をその断面から噴き出しながらその場にひざまずけば、そんな彼の足元には彼の手首から先が彫金模様が施されたルガー拳銃を握ったままごろりと転がる。

「ヴァルヴァラ、無事か?」

 すると絨毯敷きの床にひざまずいたまま苦悶の声を上げ続けるアドルフ・ブラフマンを他所に、そう言った始末屋は、人質に取られていたヴァルヴァラの元へと駆け寄った。そして彼女の手首に掛けられた鋼鉄製の手錠をいとも容易たやすく引き千切ってみせれば、自由の身となったヴァルヴァラは彼女の父の身を案じる。

「パパ! パパ、大丈夫?」

 ヴァルヴァラがそう言って実の父であるボリス・アキモフ博士の身を案じると、転倒したままだった彼は腹部の銃創を手で押さえながら立ち上がろうと試みるものの、その腹部に走る激痛に再び転倒してしまった。

「ああ、私は大丈夫だ。それよりもヴァルヴァラ、お前は無事なのか? どこか怪我してないかい?」

 ボリス・アキモフ博士はそう言って強がってみせるが、直径9㎜の鉛の拳銃弾が貫通した彼の腹部からはぽたぽたと鮮血が滴り落ち、どう見ても無事では済まされない。

「あたしは大丈夫! でもパパは、パパは大丈夫なの? ほら、こんなに血が出ちゃってるじゃないの!」

 父の元へと駆け寄ったヴァルヴァラがそう言えば、冷静沈着を旨とする始末屋はアドルフ・ブラフマンが再度彼女を人質に取らないように床を転がるルガー拳銃を一旦拾い上げて放り捨ててから、ボリス・アキモフ博士の傷の具合を確認する。

「銃弾は背中まで貫通しているし、出血量もそれほど多くはない。おそらく重要な臓器は傷付いていないから、早めに治療すれば決して死ぬ事は無いだろう」

 そう言った始末屋の見立てに、ボリス・アキモフ博士とその娘のヴァルヴァラはホッと安堵した様子であった。そして彼女が肩を貸しながらボリス・アキモフ博士を立たせようと試みていると、不意に床にひざまずいていたアドルフ・ブラフマンが、くっくと不敵な笑みを漏らし始める。

「まさか、これで勝ったつもりじゃないだろうね、始末屋?」

「それは、どう言う意味だ?」

 不敵にほくそ笑むアドルフ・ブラフマンの言葉に、始末屋がボリス・アキモフ博士に肩を貸しながらそう言って問い返した。

「僕ら『アーリアン・ドーン』が極秘裏に企図するアーリアナイズ・プロジェクトは、既に実行に移された! 今頃はそこに居るアキモフ博士が分離培養した、ゲノム編集を可能とするレトロウイルスが新型コロナワクチンを装って全世界にばら撒かれ、全人類はアドルフ・ヒトラー総統閣下の遺伝情報をその身に宿しながらアーリア人化ナイズされるのだ!」

 まるで勝ち誇ったかのような表情と口調でもってそう言った幼きアドルフ・ブラフマンは、かっかと高笑いを漏らしながら彼ら『アーリアン・ドーン』の勝利を宣言し、むしろ憐れむような視線を始末屋らに投げ掛けて止まない。

「成程。だから貴様は、レトロウイルスの分離培養の要である筈のアキモフ博士を躊躇無く撃ったと言う訳か」

「ああ、そうとも、その通りだとも! アドルフ・ヒトラー総統閣下の遺伝情報が埋め込まれたレトロウイルスさえ完成してしまえば、そんな白髪頭の老いぼれは、もう用済みだからね!」

 そう言って始末屋の疑問に答えながら高笑いを漏らすアドルフ・ブラフマンの勝利宣言に、彼に老いぼれ呼ばわりされたボリス・アキモフ博士が水を差す。

「なあブラフマン、キミには悪いが、残念ながらキミ達『アーリアン・ドーン』の計画は頓挫せざるを得ないんだ」

「何? それはどう言う意味だ?」

 予期せぬボリス・アキモフ博士の言葉を耳にしたアドルフ・ブラフマンは、切断された右の手首を押さえて止血しながら驚愕と困惑の声を上げた。するとそんな幼き最高指導者に、ボリス・アキモフ博士は撃たれた腹部から流血しつつも解説する。

「私がレトロウイルスだとうそぶいてキミ達に差し出したのは、ただのバクテリオファージだ。人体には無害だし、当然の事ながらアドルフ・ヒトラーの遺伝情報が埋め込まれてもいなければ、ゲノム編集を行ったりもしない」

「そんな馬鹿な! だとしたら僕らがばら撒いたウイルスは、何の効果も及ぼさないと言うのか?」

「ああ、その通りだ。世界中に拡散されたバクテリオファージは時間に経過と共に他のウイルスによって淘汰され、やがてその姿を消すだろう。キミ達の計画は、完全に頓挫したのだ。もう諦めたまえ」

 ボリス・アキモフ博士がそう言えば、アドルフ・ブラフマンはがっくりと肩を落としながら膝から崩れ落ち、絨毯敷きのレセプションホールの床にへたり込んでしまった。

「……何故だ?」

 するとアドルフ・ブラフマンはひどく落胆し、愕然とした表情をその顔に浮かべて床にへたり込んだまま、始末屋の手によって止血の処置が執られたボリス・アキモフ博士を問い質す。

「何故だ、何故なんだ、アキモフ博士? 何故キミの様な一介の医学博士ごときが、人を殺す事を厭わない僕らを騙すような無謀な真似が出来たと言うんだ? もし仮に僕らを騙していた事が露見したならば、人質に取られた実の娘の身の安全は保障されなくなってしまうと言うのに、どうして人の親であるキミがそんな危険リスクを冒す事を躊躇しない?」

 このアドルフ・ブラフマンの問い掛けに対するボリス・アキモフ博士の返答は、眼の前のインド・アーリア人の少年にとっては信じられない内容ながらも、実に簡潔かつ単純明快なものであった。

「それは、始末屋を信じていたからだ」

「何だと?」

「私は私とヴァルヴァラをキミら『アーリアン・ドーン』の魔の手から必ず救い出してくれると言う始末屋の言葉を、固く信じて疑っていなかったからだ。だからこそ、こうしてキミらを騙しおおせながらも、危険リスクを冒す事を躊躇わなかったと言う訳なのさ」

 ボリス・アキモフ博士が生粋の現実主義者らしからぬ理屈でもってそう言えば、そんな彼を始末屋が激励する。

「よくやった、そしてよく言ったぞ、アキモフ博士。どうやら貴様にも、少しは男らしいところが残されていたらしいな」

 始末屋は至極淡々とした口調でもってそう言うが、アキモフ親子を含めた彼女ら三人と違ってまんまと騙される格好になってしまったアドルフ・ブラフマンはぎりぎりと奥歯を噛み締めながら、まさに恨み骨髄に徹すとでも表現すべき怒りの形相をその顔に浮かべていた。

「糞! 糞! 糞! 何故だ! 何故だ! 何故だ! 何故キミら劣等人種どもは、こうも僕の計画の邪魔立てばかりするんだ! 全人類がアーリア人化ナイズされれば差別も貧困も消滅し、全ての問題が解決されると言うのに、そんな僕の崇高な理念がどうして理解出来ない!」

 まるで癇癪を起こした幼子が地団太を踏むように、切断されていない左の拳でもって何度も何度も床を叩き続けるアドルフ・ブラフマンはそう言って、その思想信条の歪さを隠そうともしない。

「おい貴様、貴様は本当に、そんな些細な事でもってこの世から差別や貧困が消え去るとでも思っているのか?」

 すると始末屋がそう言って問い掛ければ、アドルフ・ブラフマンはさも当然とでも言いたげに返答する。

「当然だ! 当たり前じゃないか! ありとあらゆる人々が余す所無く同じ肌の色、瞳の色、髪の色を平等に分かち合えば、おのずと人種差別は過去のものとなるに決まってる! 何故なら彼ら彼女らは一つの遺伝子を共有し、等しく血を分けた兄弟となるのだからな!」

 アドルフ・ブラフマンはそう言うが、駱駝色のトレンチコートに身を包んだ始末屋は決して彼の言葉に賛同しない。

「さっきから聞いていれば随分と御大層な物言いだが、その全てが単なる詭弁だな。きっと貴様は、均一化する事だけが平等を実現する唯一の手段だとでも勘違いしているのだろう。この世には様々な要素を兼ね備えた人間が存在し、それらが各々の個性を尊重し合ってこその平等だ。均一化ではなく、差異をこそ重んじろ。自分が他者と違う事を恥じるのではなく、胸を張って勝ち誇れ。それこそが、差別をこの世から無くすための確実な第一歩だ」

「差異をこそ重んじろ? 胸を張って勝ち誇れ? そいつはまた、随分と簡単に言ってくれるじゃないか、始末屋。しかし残念ながら人間の本性は、そんなあやふやな精神論同然の綺麗事でもって解決するほど、崇高でも純粋でもない。物理的に、強制的に平等にしてやらないと、奴らは眼を覚ましやしないんだからな! だから僕がこの手でアーリア人化ナイズしてやってこそ、人類は次のステージに立てると言うのに、何故キミらはそんな僕を邪魔立てする!」

「決まっている。貴様らがどう思っているのかは知らないが、あたしはアーリア人になどなりたくないからだ」

 始末屋がそう言えば、アドルフ・ブラフマンは少しばかり驚いたような、きょとんとした表情をこちらに向けた。

「何? 何だと? アーリア人になりたくない? キミの様な劣等人種が高貴なるアーリア人へと生まれ変われる、千載一遇の好機チャンスなんだぞ? 何故キミは差別されるべき劣等人種でありながら、この好機チャンスをみすみす見逃すような真似をすると言うんだ?」

「そんなものは、こちらから願い下げだ。あたしは自分の事を劣等人種だなどとは微塵も思っていないし、そもそもここに居るヴァルヴァラもアキモフ博士も貴様らも、人種の違いでもって卑下も尊重もしない。ただそれだけの事だ」

「アーリア人であっても、卑下も尊重もしない……だったら僕は、自分がアーリア人であると言う事以外に、これから一体何を誇りに思いながら生きて行けばいいんだ? 僕の事を薄汚いインド人呼ばわりして蔑み、見下した連中を、どうやって見返してやればいいんだ?」

 その両の瞳からぽろぽろと大粒の涙を零れ落としながらそう言ったアドルフ・ブラフマンの言葉に、始末屋は容赦無く処断を下す。

「そうか、やはり貴様が言うところの差別の撤廃とやらは、ただの欺瞞だったのか。所詮貴様は差別された事を何らかの手段でもって覆したい、なんであれば自分が差別する側に回りたいと言った、歪んだ欲望の持ち主に過ぎなかったと言う訳だな」

「……」

 そう言った始末屋に断じられてしまったアドルフ・ブラフマンはその場にへたり込んだまま肩を落として項垂れ、返す言葉も無い。

「とにかく、これで貴様らが画策するアーリアナイズ・プロジェクトとやらは完全に頓挫した。貴様もさっさと『アーリアン・ドーン』を解体し、ネオナチ活動なんぞからは足を洗って、真っ当な人生を歩むがいい」

 最後にそう言ってアドルフ・ブラフマンに更生を促した始末屋は、腹部を撃たれたボリス・アキモフ博士に肩を貸しながら彼を立たせると、その実の娘であるヴァルヴァラと共に蹴り開けられた鉄扉の方角へと足を向けた。

「さあ、行くぞ。もうここに用は無い」

 そう言いながらレセプションホールから立ち去ろうとする始末屋の、駱駝色のトレンチコートに包まれた背中に向けて、アドルフ・ブラフマンは宣言する。

「待て、始末屋! 僕は、僕は決して諦めないぞ! 必ずや、必ずやキミに一矢報いてやる! 覚えてろ!」

 アドルフ・ブラフマンは今にも血涙を流さんばかりの剣幕でもってそう言うが、始末屋はある種の宣戦布告とも解釈出来る彼の言葉を背中で聞き流しながら、やがて一度も振り返る事無くレセプションホールを後にした。アキモフ親子も含めた彼女ら三人が姿を消した広範にして浩蕩な議事堂にも似たレセプションホールに、ぽろぽろと涙を零し続ける小柄なアドルフ・ブラフマンただ一人だけが、まるで公園の砂場に置き忘れられた超合金の人形の様にぽつんと取り残される。

「畜生……」

 ぼそりと呟くように、もしくは痩せ細った腹の奥底から絞り出すような掠れた声でもってそう言った彼の言葉は、もはや誰の耳にも心にも届かない。

「ねえねえ始末屋、やっぱりあなたってば、あたしとパパを助けに来てくれたのね! 凄い凄い! こんな南極まで助けに来てくれるだなんて、ホントに信じらんない!」

「当然だ。一度引き受けた依頼は何があろうと完遂するのが、あたしのモットーだ。例外はあり得ない」

 傷心のアドルフ・ブラフマンをその場に置き去りにしたままレセプションホールから立ち去った始末屋は、巨大な要塞内に縦横無尽に張り巡らされた通路を確かな足取りでもって歩きながらそう言って、彼女を手放しで称賛する白いダウンコート姿のヴァルヴァラの声に応えてみせた。

「それで始末屋、これからあたし達はどこに行くの? ここから脱出して日本に帰る方法は、もう考えてあるの?」

「ここに来る途中で、格納庫を通過した。そこに駐機されていたヘリを奪い、この要塞を脱出する」

 そう言った始末屋とアキモフ親子の三人は要塞の通路を真っ直ぐ縦断するような格好でもって渡り切り、やがて魔法少女みるきぃ★ルフィーナと血で血を洗う激闘を繰り広げた格納庫へと足を踏み入れると、そこに鎮座していた一機のMi26輸送ヘリコプターの元へと歩み寄る。

「始末屋ってば、こんな大きなヘリコプターも操縦出来るの? うっかり墜落しちゃったりしない?」

「ああ、問題無い。任せろ。この世に存在するほぼ全ての車輛や航空機を操縦出来るように、あたしは訓練されている」

 始末屋はさも当然とでも言いたげな表情と口調でもってそう言いながら、肩を貸していたボリス・アキモフ博士とヴァルヴァラの二人をMi26輸送ヘリコプターの貨物室の座席に着かせると、格納庫の各種設備を制御するコントロールルームへと足を踏み入れた。そして大小様々なボタンやスイッチが並ぶ制御盤を手際良く操作しつつ、航空機が離発着する際の障害となるドーム状の屋根を開口させると、再びアキモフ親子が待つヘリコプターの元へと引き返す。

「よし、アキモフ博士もヴァルヴァラも、準備はいいな?」

 専門用語で言うところのペイロード、つまり一度に積載及び運搬出来る貨物の総重量が優に20tを上回るMi26輸送ヘリコプターのコクピットのパイロットシートに腰を下ろした始末屋はそう言って、背後の貨物室の二人に問い掛けた。

「うん、いつでも発進して大丈夫!」

「私も大丈夫です、いつでも発進してください」

 貨物室のアキモフ親子がそう言えば、操縦桿を握った始末屋は頭上の二基のターボシャフトエンジンを始動させ、八枚羽のメインローターを高速回転させながら彼女ら三人を乗せたMi26輸送ヘリコプターはゆっくりと離陸する。

「ねえねえ始末屋、始末屋がこうしてあたし達を助けてくれたって事は、これでもう、あたしとパパは『アーリアン・ドーン』の怖い人達から追い掛け回される事も無くなるのかな?」

 すると離陸したMi26輸送ヘリコプターが開口したドーム状の屋根を通過し、彼女らが囚われていた要塞、つまり『アーリアン・ドーン』の南極総本部から今まさに飛び立たんとしたところで、居ても立ってもいられなくなったヴァルヴァラが貨物室の座席から腰を上げてパイロットシートの始末屋に問い掛けた。そしてコクピットに足を踏み入れてみればちょうど東の地平線から朝陽が昇り掛けており、彼女はその眩しさに顔を背け、思わず眼を細めざるを得ない。

「ああ、その筈だ。貴様もボリス・アキモフ博士も、もうこれ以上奴らから追われる事もあるまい。それに貴重な労働力である構成員どもがこれだけ殺害され、肝入りだった計画は頓挫し、貴様ら親子に手を出せばあたしが黙ってはいない事を思い知らされた『アーリアン・ドーン』は二度と立ち直れないだろう。なにしろ最高指導者であるアドルフ・ブラフマンがあのざまなのだから、組織の存続が見込めないのも尚更と言うものだ。それとヴァルヴァラ、飛行中は危険だから、ちゃんと自分の席に着いてシートベルトを締めろ。これは命令だ」

 始末屋がそう言って命じた次の瞬間、ヴァルヴァラはコクピットのキャノピーの向こうの眼下に彼女らを乗せたMi26輸送ヘリコプターを追い掛ける小さな人影を発見し、思わず驚きの声を上げる。

「始末屋、あれを見て!」

「ん?」

 ヴァルヴァラが指差す方角に眼を向ければ、そこには自分の足でもって南極大陸の雪原を駆け抜けながらMi26輸送ヘリコプターの後を追う、ヒットラー・ユーゲントの制服にも似た半ズボンを穿いたアドルフ・ブラフマンの姿が見て取れた。

「覚えてろよ、始末屋! この僕を今ここで殺さなかった事を、絶対に後悔させてやるからな!」

 朝焼けに燃える大空に向けて、喉が張り裂けんばかりの大声でもってそう言って宣言した、浅黒い肌のインド・アーリア人の少年であるアドルフ・ブラフマン。彼は凍れる大地に降り積もった雪に足を取られて無様に転倒するものの、そんな『アーリアン・ドーン』の最高指導者には眼もくれず、始末屋が操縦するMi26輸送ヘリコプターは空の彼方へと飛び去ってしまうばかりである。

「……絶対に後悔させてやるからな……」

 視界から消え去りつつあるMi26輸送ヘリコプターの後ろ姿を見送りながらそう言ったアドルフ・ブラフマンの姿を、たまたまその場に居合わせた南極大陸固有の野生動物であるコウテイペンギンだけが見つめていたが、このペンギン科の鳥類の眼に彼がどう映っていたかは定かではない。

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