第二幕


 第二幕



 肉汁溢れるローストポークを中心とした各種の豚肉料理、それにオーガニック野菜のサラダやスープなどのコース料理と一品料理を一通り食べ終えると、やがて始末屋ら三人は席を立った。

「ごちそうさま、どの料理もとても美味しかったんじゃないかしら?」

 先頭に立つ始末屋が会計を終えて退店し、ヴァルヴァラが彼女に続いたかと思えば、最後尾を歩くグエン・チ・ホアがそう言いながらレストランを後にする。

「もうこんな時間か」

 ついと頭上を仰ぎ見ながらそう言った始末屋の言葉通り、彼女ら三人がレストランで舌鼓を打っている内に陽は傾き、年の瀬も間近な師走の空はすっかり茜色に染まってしまっていた。

「仕方が無い。一旦ホテルに戻って、作戦を練り直すぞ」

 そう言った始末屋がホテルの方角へと足を向け、アーケードに覆われたひさご通りを南下し始めると、ヴァルヴァラとグエン・チ・ホアの二人もまた彼女の背中を追って歩き始める。

「お帰りなさいませ」

 やがてホテル『野乃』へと帰還した始末屋は、礼儀正しい会釈と共にそう言って出迎えたフロントの女性スタッフには眼もくれず、彼女ら三人が宿泊する予定の客室へと脇目も振らずに取って返した。そして鍵が掛かっていた扉を力任せに蹴り開けたかと思えば、客室に足を踏み入れるなりトレンチコートをベッドの上に放り出し、これから何をすべきか宣言する。

「よし、部屋着に着替えたら風呂に入るぞ。ヴァルヴァラ、チ・ホア、貴様らもついて来い」

 有無を言わせぬ表情と口調でもってそう言った始末屋は、トレンチコートに続いてスーツやワイシャツなどの衣服を次々と脱ぎ捨て、やがてホテル側が用意した簡素な部屋着に着替え終えた。そして彼女に倣い、ヴァルヴァラとグエン・チ・ホアの二人もまたダウンコートとアオザイを脱いで部屋着に着替えると、始末屋を先頭にしながら大浴場の方角へと足を向ける。

「ねえあなた、あたし達、これからお風呂に入るの?」

「ああ、そうだ。風呂に入って、今後の作戦を改めて練り直す。それと貴様、あたしの事は始末屋と呼べ」

 問い掛けるヴァルヴァラにそう言って返答した始末屋らは廊下を渡り、三人揃ってエレベーターに乗ると、やがてホテルの地下一階の大浴場『凌雲の湯』へと辿り着いた。そして脱衣所で全裸になってから檜の香り漂う浴室へと足を踏み入れ、掛け湯でもって身体を洗い、滾々と天然温泉が湧き続ける湯船にその身を浸す。

「ふう」

 実に210㎝にも達する身の丈と鍛え抜かれた長い手足、それにアフリカンニグロの特徴を色濃く残す褐色の肌を誇る始末屋は、熱く柔らかな鉱泉に肩まで浸かりながら深く嘆息した。するとそんな始末屋に、これまたアジアンビューティーとでも評すべき美しさを誇るグエン・チ・ホアが、如何にも東洋人らしいきめ細やかな素肌を惜しげも無く晒したまま問い掛ける。

「それで、始末屋? あなた、これから一体どうするつもりなのかしら? 例の『アーリアン・ドーン』とやらの手掛かりも無いし、依頼人であるアレクセイも死んじゃったんでしょう?」

「そうだな、今は未だ、我慢の時だ。標的ターゲットであるヴァルヴァラを拉致し損ねた事を知れば、必ずや『アーリアン・ドーン』の方から彼女を奪い返しに姿を現す。そうなれば、こちらの思う壺だ。奴らを捕らえて尋問し、なんであれば拷問した上で、その正体と目的を白状させればいい」

「それはまた随分とあなたらしい、雑な作戦じゃないかしら?」

 長く艶やかな黒髪を結わえたグエン・チ・ホアは呆れ顔でもってそう言うが、作戦の立案者である始末屋は湯船に浸かりながらほくそ笑み、彼女から雑だと評された事など意に介さない。

「ねえ始末屋、あたし、また誘拐されちゃうの?」

 すると第二次性徴の途上にあるヴァルヴァラが気遣わしげにそう言って、未だ未だ未成熟の幼い裸体を晒しながら、始末屋に問い掛けた。

「大丈夫だ、心配無い。貴様をそう易々と拉致される事も無ければ、仮に拉致されたとしても、必ずや奪い返してみせる。何故なら貴様と貴様の父親を救い出すのが今回の依頼内容であり、一度引き受けた依頼は何があろうと完遂するのがあたしのモットーだ。例外はあり得ない」

 ぶっきらぼうに、それでいて自信ありげにそう言った始末屋とグエン・チ・ホアが左右からヴァルヴァラを挟み込むような格好でもって湯船に浸かり、彼女ら三人は川の字になりながら天然温泉を堪能し続ける。

「さあ、次はサウナだ」

 やがてすっかり身体が温まり、溜まりに溜まった疲労と老廃物が湯船を湛える熱湯に溶け出す頃になってから、そう言った始末屋がおもむろに腰を上げた。そして大浴場の一角に備え付けられたサウナルームの室内に、ヴァルヴァラとグエン・チ・ホアの二人を背後に従えながら足を踏み入れると、実に100℃を越えるような猛烈な熱気と湿気にその身を晒す。

「ところでチ・ホア、貴様は明日以降、いつまで東京に留まるつもりだ? あと何日、あたしを手伝える?」

 まるでオーブンの中に放り込まれたローストビーフかローストチキンさながらに、褐色の肌をじりじりと炙り焼くサウナの熱気に耐えながら、乳首も性器も陰毛も隠さぬ全裸の始末屋がグエン・チ・ホアに尋ねた。

「あら? あたしはもう東京での仕事は片付いたから、明日にはフォルモサに帰るつもりよ? だから始末屋、申し訳無いけど、あなたが引き受けた依頼を手助けする事は出来ないんじゃないかしら?」

 やはり彼女ら二人が左右からヴァルヴァラを挟み込むような恰好でもって、三人揃って川の字になりながらそう言ったグエン・チ・ホアに、全身汗だくになった始末屋は憂慮の言葉を伝える。

「そうか、それは参ったな。出来れば『アーリアン・ドーン』の奴らを捕らえて尋問する際に貴様の力を借りたかったんだが、その望みが叶わぬとなると、少しばかり手間取るかもしれん。……なあ、チ・ホア。もう何日かだけでも、あたしと行動を共にしてくれないか?」

「そうねえ、どうしようかしら? フォルモサのお店をいつまでも臨時休業にしておく訳にも行かないし、困っちゃうじゃない?」

 始末屋からもう数日、東京に留まれないかと請われたグエン・チ・ホアがそう言って考え込んだ、まさにその時だった。不意に彼女ら二人の間に座るヴァルヴァラが体勢を崩したかと思えば、そのままくらくらと眼を回しながら昏倒する。

「おっと」

 すると彼女の隣に座る始末屋が咄嗟に素早く手を伸ばし、もう少しでサウナルームの板敷きの床に頭を打つところだったヴァルヴァラの身体を支え、小さく華奢なその身を抱き寄せた。

「あらあら、どうしたのかしら? たぶん、のぼせちゃったのね? お風呂のお湯もサウナも熱かったし、あたし達みたいな大人ならともかく、こんな小さな子供にはちょっと酷だったのかしら?」

 そう言って状況を整理するグエン・チ・ホアに見守られながら、始末屋はお姫様抱っこの要領でもって、ぐったりと力無く横たわるヴァルヴァラの未成熟な身体を軽々と抱き上げる。

「まったく、世話が焼ける」

 溜息交じりにそう言った始末屋は、室温が優に100℃を超えているサウナルームの扉を蹴り開け、すっかりのぼせ上がってしまっているヴァルヴァラを抱き上げたまま洗い場へと移動した。そして一人では立つ事もままならぬ彼女の全身の汗を冷たいシャワーでもって洗い流すと、その熱く火照った身体を再び抱き上げながら、ロッカールームを兼ねた脱衣所へと取って返す。

「おい貴様、大丈夫か?」

 脱衣所に並ぶ背もたれの無い藤椅子の一つに彼女を座らせた始末屋は、ホテルの備品である扇風機の風を当ててやりながらそう言って、湯あたりでもって意識が朦朧としているヴァルヴァラに問い掛けた。

「……うん……だいじょぶ……だいじょぶ……だいじょぶだから……」

 ヴァルヴァラはそう言うが、どれだけ贔屓目に見ても、まるで譫言うわごとの様にぶつぶつと同じ言葉を繰り返すばかりの彼女が無事であるとは言い難い。

「駄目だな。仕方が無い、ここで暫く休んで行くぞ」

 彼女の容態を確認した始末屋はそう言うと、手にしたバスタオルをばたばたと激しく仰いで風を送り、籐椅子に座ったままぐったりしているヴァルヴァラの火照った身体を冷やしてやろうと尽力する。

「……ああ……」

 ぶんぶんと羽を回転させる扇風機、そして始末屋が仰ぐバスタオルから送られて来る風を全身で浴びながら、ヴァルヴァラは気持ち良さそうに眼を細めて微笑んだ。そして天然温泉を求める宿泊客達が絶え間無く行き来する脱衣所の片隅で、およそ二十分間ばかりも休憩し続ければ、やがて混濁していた彼女の意識もはっきりし始める。

「チ・ホア、ちょっと代わってくれ」

 するとそう言った始末屋はばたばたと仰いでいたバスタオルをグエン・チ・ホアに手渡すと、女湯の隣の男湯へと足を向ける宿泊客達の眼も厭わずに、一糸纏わぬ全裸のまま脱衣所を後にした。そして脱衣所の暖簾のれんの向こうの廊下の方角から何かを叩くような音が聞こえて来たかと思えば、程無くして、白い液体が詰まった人数分のガラス瓶を手にしながら彼女は帰還する。

「ほら、貴様らも飲め」

 果たして全裸の始末屋がそう言いながらグエン・チ・ホアとヴァルヴァラに手渡したのは、ホテルの廊下に設置された自動販売機で売っている、良く冷えた瓶入りの牛乳であった。

「……あ、ありがとう……」

 牛乳瓶を受け取ったヴァルヴァラが、未だちょっとだけ意識を混濁させながらお礼の言葉を口にすると、始末屋は彼女自身の分の牛乳をごくごくと豪快に飲み下す。

「いいから、早く飲め。美味いぞ」

 命じるようにそう言った始末屋の言葉に従い、湯あたりしてしまったヴァルヴァラは扇風機の風に当たりながら、少しばかり覚束無い手つきでもって手渡された牛乳瓶のプラスチック製のキャップを取り外した。そして始末屋を見習って瓶の中身をごくごくと豪快に飲み下せば、幼い彼女の火照った喉や胃袋に冷たい牛乳の滋味が染み渡り、まさに生き返るような心地である。

「ふう」

 瓶一杯の牛乳を飲み干したヴァルヴァラは腹の奥底から絞り出すような深い深い溜息を漏らし、ようやく正気を取り戻した。

「あらあら、ヴァルヴァラってば、大丈夫なのかしら? のぼせてない? 一人で立って歩ける? ん?」

 そう言って彼女の身を案じるグエン・チ・ホアに見守られながら、籐椅子から腰を上げたヴァルヴァラが一歩また一歩としっかりとした足取りでもって歩いてみせれば、空の牛乳瓶を手にした始末屋が彼女に命じる。

「よし、もう大丈夫だな。だったらヴァルヴァラ、貴様もチ・ホアも、早く部屋着に着替えろ。部屋に戻るぞ」

 やはりぶっきらぼうな表情と口調でもって始末屋がそう言えば、牛乳を飲み終えた彼女とグエン・チ・ホア、それにヴァルヴァラの三人はホテルが用意した部屋着に着替え直した。そしてエレベーターに乗って大浴場が在る地下一階から客室が在る階へと移動し、廊下を渡ったところで、不意に先頭を歩く始末屋が足を止める。

「あら始末屋、どうしたのかしら?」

「静かに。あたし達の部屋に、誰か居る。チ・ホア、貴様はヴァルヴァラの身を守りながら、ここで待っていろ」

 問い掛ける彼女を制しながらそう言った始末屋は、グエン・チ・ホアとヴァルヴァラをその場に残したまま廊下を渡り切り、やがて彼女らが今夜宿泊する筈の客室の扉の前へと辿り着いた。

「ふん!」

 そして気合一閃、臨戦態勢へと移行した始末屋が鼻息荒く客室の扉を蹴り開ければ、長く鋭利でしなやかな刀身が彼女に襲い掛かる。

「誰だ?」

 襲い掛かる、いや、より正確に言うならば虚空を切り裂きながら弧を描いて飛び来たる刀身による一撃を、紙一重のタイミングでもって回避してみせた始末屋。彼女はホテルの廊下の床を蹴り、客室内へと素早く転がり込むと、そこに居る筈の何者かにそう言って問い掛けた。すると照明が落とされた客室の、夜のとばりが下りた薄暗がりの向こうから、まるで人を小馬鹿にするかのような笑い声が聞こえて来る。

「ほほう? 今の俺様の攻撃をかわしてみせるとは、女、貴様もまた只者ではないな?」

 果たして薄暗がりの向こうから嘲笑交じりにそう言ったのは、頭がつるつるに禿げ上がり、ガスマスクでもって顔を覆う一人の痩せた男であった。そしてその身を包む黒い革のトラックスーツの胸元には鉄十字、腕には鉤十字ハーケンクロイツかたどった腕章が巻かれた彼の手には、まるで新体操のリボンか鞭の様にしなやかに曲がりくねるインドの刀剣ウルミが握られている。

「貴様、さては『アーリアン・ドーン』の刺客だな?」

「その通り! 俺様こそ『アーリアン・ドーン』の刺客が一人、ルドルフ・シュードラ様よ! 女、貴様に引導を渡す者の名を覚えておくがいい!」

 ひどく耳障りな高笑いと共にそう言って名乗りを上げたシュードラは、薄暗い客室の窓辺に立ったままこちらを睨み据え、まるで猛獣使いの様な手付きでもって素早く右腕を振り抜いた。すると枯れ木の様に痩せ細った彼の手に握られている、刃渡りがおよそ4mから5mにも及ぶウルミの刀身が眼にも止まらぬ速さでもって飛び来たり、やはり猛獣使いが操る鞭のそれにも似た軌跡を描きながら始末屋に襲い掛かる。

「くっ!」

 インドの刀剣ウルミによる波状攻撃に晒された始末屋は、その薄く鋭利な刀身から逃げ惑い、彼女らしからぬ醜態を晒すばかりだ。

「ほらほら、どうしたどうした! 女、貴様も図体がでかいばかりで、手も足も出ないのか? ならば俺様のカラリパヤットの超絶技巧の前にひれ伏し、屠殺された豚の様に切り刻まれ、惨めに息絶えるがいい!」

 シュードラは絶え間無くウルミを振るいながらそう言うが、嗜虐的な彼の言葉通り、始末屋は防戦一方にならざるを得ない。何故ならトレンチコートを脱いで部屋着姿になった彼女は必殺の得物である手斧を手にしておらず、その膂力を生かした接近戦に持ち込もうにも、広範かつ不規則なウルミの間合いに迂闊に足を踏み入れる訳にも行かないからである。

「さあ、死ね! 死んでしまえ、このメス豚め! この俺様の足元に、死んでひれ伏すのだ!」

 やがて勝利を確信したシュードラは再びの高笑いと共にそう言うと、やはり猛獣使いさながらに、一際素早く右腕を振り抜いた。すると亜音速にも達するウルミの切っ先が衝撃波を伴いながら始末屋に襲い掛かり、無防備な彼女の喉元を、真っ赤な鮮血が流れる頸動脈ごと切り裂かんとする。

「!」

 だがしかし、始末屋は間一髪、このウルミによる亜音速の一撃を受け止めた。その薄さと軽さ故に骨を叩き割るほどの威力を発揮し得ないウルミが柔らかな喉元を狙って来ると予測していた彼女は、いわゆる真剣白刃取りの要領でもって、飛び来たるその刀身を左右の掌で挟み込んだのである。

「馬鹿な!」

 ウルミによる必殺の一撃を受け止められてしまったシュードラは驚愕の声を上げ、我が眼を疑いながら恐れおののくが、始末屋に刃を向けた時点で彼の命運は尽きていたと言う他無い。

「馬鹿め」

 そしてぼそりとそう言うなり彼との距離を一気に詰めた始末屋は、その長い手足を生かした強烈な上段後ろ回し蹴りを、恐れおののくばかりのシュードラの側頭部に叩き込んだ。

「ぷおっ」

 まるで棍棒の様に硬く重い始末屋の鍛え抜かれた踵でもって、無防備な側頭部を蹴り飛ばされる格好になったシュードラ。彼はガスマスクごと頭蓋骨を破壊され、喉から頓狂な声を漏らしながらその場に崩れ落ちると、白眼を剥いてぶくぶくと泡を噴いたままぴくりとも動かない。

「よし、もういいぞ。二人とも、入って来い」

 昏倒したシュードラが完全に意識を失ってしまっている事を確認した始末屋が、ウルミを無造作に投げ捨てながらそう言えば、ホテルの廊下で待機していたグエン・チ・ホアとヴァルヴァラが姿を現す。

「あらあら、なんだか大変な事になっちゃってるんじゃないかしら? その人、あなたが殺しちゃったの?」

「いや、こいつは未だ生きている。頭蓋骨は砕いたが、死なない程度に加減しておいたからな」

 グエン・チ・ホアの問い掛けに対してそう言って返答した始末屋の言葉通り、自ら率先して『アーリアン・ドーン』の刺客を名乗ったルドルフ・シュードラは、重度の脳挫傷の兆候が見受けられながらも息絶えてはいなかった。

「それで始末屋、この人、これからどうするつもりなのかしら?」

「決まってる。貴重な情報源だ」

 始末屋はそう言うと、ホテルの客室のベッドの上に脱ぎ捨ててあった彼女のスラックスから革のベルトを抜き取り、昏倒したまま動かないシュードラへと歩み寄る。


   ●


 やがて白眼を剥いて泡を噴きながら昏倒していたシュードラは、上段後ろ回し蹴りを喰らってしまった側頭部が割れるような凄まじいまでの頭痛に耐え切れず、その意識を覚醒させた。

「はっ!」

 不意に目覚めてみれば、彼自身の痩せた身体が革のベルトと紐状に裂いたバスタオルでもって椅子に縛り付けられている事に気付き、シュードラは身動きが取れないまま困惑する。

「起きたか」

 ホテル『野乃』の客室の片隅で、そう言った女の声に彼が顔を上げると、そこには部屋着姿の始末屋とグエン・チ・ホアが立っていた。そして身動きが取れないシュードラを見下ろす彼女ら二人の背後のベッドの上には、やはり部屋着姿の幼いヴァルヴァラの姿もまた見て取れる。

「放せ! ほどけ! 今すぐ俺様を解放しろ!」

 シュードラはホテルの備品である椅子に縛り付けられたままそう言ってばたばたと暴れるが、当然の事ながら、せっかく生きて捕らえた情報源をあっさり解放するほど始末屋も馬鹿ではない。

「黙れ。暴れるな」

 端的にそう言った始末屋は、彼女が放った上段後ろ回し蹴りによって頭蓋骨が陥没してしまっているシュードラの側頭部を、握り拳でもって殴り付けた。すると普段の彼女の膂力からすれば充分手加減しているにもかかわらず、殴られたシュードラは激痛に喘ぐ。

「ぎゃあっ!」

 殴られた側の耳の穴からぼたぼたと真っ赤な鮮血を滴らせながら激痛に喘ぐシュードラの姿に、始末屋の隣に立つグエン・チ・ホアは興奮を隠し切れない。

「あらあら、また随分と痛そうじゃない? これってやっぱり、折れた骨の破片が脳髄にも刺さっちゃってるのかしら? だとしたら、きっともうすぐこの人ってば、死んじゃうんじゃなくて?」

 グエン・チ・ホアは歓喜と興奮でぞくぞくと背筋を震わせながら、まるで邪気の無い幼子の様な表情と口調でもってそう言って、心から嬉しそうにくすくすとほくそ笑んだ。するとそんな彼女の様子に、もうすぐ死んでしまうと評されたシュードラは戦慄せざるを得ない。

「いや、そう簡単に死なれては困る。可能な限り多くの情報を、こいつから聞き出さなければならないからな」

 まるで道端に転がる蝉の死骸に語り掛けるような口調でもってそう言った始末屋は、くすくすと嬉しそうにほくそ笑むグエン・チ・ホアの様子に戦慄しているシュードラへの尋問を開始する。

「さあ、ルドルフ・シュードラとやら。貴様が所属する『アーリアン・ドーン』の正体と目的、そしてその規模と所在地を白状しろ。白状しなければ、死ぬより苦しい眼に遭う事になるぞ?」

 始末屋はそう言うが、当然の事ながらシュードラも簡単には口を割らない。

「ふん! そんな脅しに乗るものか! 我らが『アーリアン・ドーン』の刺客は、痛みに耐える訓練を受けているからな! だからどれほど拷問されようとも、いや、たとえ死んでも一言も口を割る事は無いのだ!」

「その割には、さっき頭を殴った際に悲鳴を上げていたが?」

「ぐっ……」

 揚げ足を取られる格好になったシュードラはそう言って歯噛みし、如何にもばつが悪そうに眼を逸らしながら、これ以上一言も喋らないとばかりにぐっと固く口を噤んだ。するとそんな彼の様子にギアを上げた始末屋は、ぐるりとこうべを巡らせて背後を振り返り、ベッドの縁に腰掛けていたヴァルヴァラに命じる。

「ヴァルヴァラ、今すぐトイレに行って、扉を閉めて耳を塞いでいろ。あたしが迎えに行くまでは、決して出て来るんじゃない」

 始末屋がそう言って命じれば、命じられたヴァルヴァラは素直にトイレへと移動し、扉を閉めて耳を塞いだ。

「なんだ? 俺様を拷問する自分の姿を、子供には見せられないとでも言うのか? それはまた、随分とお優しい事だな!」

 シュードラはそう言うが、そんな彼の言葉を始末屋は訂正する。

「いや、違うな。常人が、それも未だ幼い子供が予備知識無しに目撃すると気が狂いかねんから、一旦退避させただけの事だ」

「気が狂う?」

 鸚鵡返しにそう言って、シュードラは始末屋に問い掛けた。しかしながらそんな彼を無視した始末屋は、彼女の隣に立つグエン・チ・ホアに要請する。

「どれほど拷問されようとも、いや、たとえ死んでも口を割らないと言うのなら、脳に直接聞くしか方法はあるまい。さあ、チ・ホア、貴様の出番だ」

「ええ、任せてちょうだい?」

 やはり心から嬉しそうにそう言ったグエン・チ・ホアは腰を曲げて身を屈め、美しい彼女の顔を、椅子に縛り付けられたまま身動きが取れないシュードラの顔に寄せた。そして二人の顔が残り10㎝ほどの距離まで接近したところで、不意にグエン・チ・ホアは、彼女の左眼に当てられた医療用の眼帯を捲り上げる。

「?」

 最初、シュードラには、それが何なのか分からなかった。眼帯が捲り上げられて姿を現したグエン・チ・ホアの左の眼窩は真っ暗で、まるで南米アマゾンか東南アジアの大森林に生える巨木のうろの様に何も無い空虚で空疎な世界が、どこまでも続くのみである。

「!」

 しかしながら、その何も無い筈の眼窩の奥底に、得体の知れない何かが居た。それはおどろおどろしくも禍々しい、そして神をも畏れぬほど冒涜的な、この世の摂理に背く異形の存在である。

「ひいっ!」

 思わず悲鳴を上げてしまったシュードラの眼と鼻の先で、まさに文字通りの意味でもってぱっくりと口を開けたグエン・チ・ホアの左の眼窩の奥底から、その異形の存在は黄ばんだ乱杭歯らんぐいばが生えた瞼を乗り越えながら這い出して来た。そしてぬるぬるの粘液にまみれた、蛸の足にも似た鱗と棘と吸盤だらけの触手をこちらに伸ばすと、その先端がシュードラの耳の穴にゆっくりと侵入し始める。

「さあ、あなたの脳はどんな味がするのかしら?」

 グエン・チ・ホアが医療用の眼帯を捲り上げながらそう言った次の瞬間、彼女の左の眼窩の奥底から這い出して来た異形の存在、つまり這い寄る混沌の触手の先端が、頭蓋骨が割れたシュードラの脳髄に達した。

「ぎゃあああぁぁぁっ! ひいいいぃぃぃっ!」

 直接脳髄を弄り回される際の、彼が耐容訓練を受けたと言う物理的な痛みとはまた違った、言い知れぬ痛痒と生理的嫌悪感。そんな人知を超えた感覚に襲われたシュードラが悲痛な叫び声を上げる一方で、トイレに引き篭もったヴァルヴァラは洋式便器に腰掛けたまま耳を塞いで眼を瞑り、周囲の情報を遮断し続ける。

「きゃあっ!」

 するとトイレの扉の向こうのシュードラが、まさに断末魔の叫びとでも言うべき一際大きな悲鳴を上げたところで、その声が微かに耳に届いてしまったヴァルヴァラもまた身を竦ませながら叫んでしまった。つまりそれほどまでに恐ろしい、文字通りの意味でもって怖気立おぞけつような、凄まじいまでの悲鳴だったのである。

「……」

 ホテルのトイレに引き篭もり、左右の掌でもって耳を塞いでいても微かに鼓膜に届いてしまうシュードラの悲鳴に怯えながら、まるで這い寄るように迫り来る恐怖の念にヴァルヴァラは耐え続けた。もし仮に、こんな悲痛な叫び声を間近で直接耳にしてしまったとしたら、きっと自分みたいな小さな女の子は頭がおかしくなって気が狂ってしまうに違いない。そんな思いに囚われた彼女が洋式便器の上でがたがた震えていると、やがて不意に悲鳴が止んだかと思えば、トイレの扉が開けられて大柄な人影が姿を現す。

「ヴァルヴァラ、もういいぞ。出て来い」

 果たしてトイレの扉を開けてそう言った大柄な人影は、ベージュ色の部屋着に身を包んだ褐色の肌の大女、つまり始末屋であった。そこで洋式便器から腰を上げたヴァルヴァラが彼女と共に客室に取って返すと、そこには椅子に縛り付けられたままのシュードラの姿が見て取れるが、彼は白眼を剥いて口から泡を噴いたままぐったりと脱力し切ってしまっている。

「ねえ始末屋、この人、死んじゃったの?」

「いや、気を失っているだけだ。但し、既に脳を破壊し尽くされた廃人同然の精神状態だから、二度と正気を取り戻す事は無いだろう」

 白眼を剥いたシュードラを前にしながらのヴァルヴァラの問い掛けに、始末屋は事も無げにそう言って返答した。

「よし、あたしはどこかそこら辺に、こいつを捨てて来る。ヴァルヴァラ、チ・ホア、貴様らは先に寝るなりテレビを観るなり、好きにしろ」

 ホテルの備品である椅子に縛り付けられていたシュードラの拘束を解き、そう言った始末屋が廃人同然となった彼を担いだまま客室を後にすれば、残されたグエン・チ・ホアがヴァルヴァラに語り掛ける。

「ねえねえ、ヴァルヴァラ? あなたのお父さんが今どこに居るか、分かったんじゃないかしら?」

「本当? パパ、見つかったの?」

 既に医療用の眼帯を左眼に当て直したグエン・チ・ホアの言葉に、ヴァルヴァラはそう言ってぱあっと顔を輝かせた。

「ええ、本当よ? あたしはこう見えても、嘘は吐かないものね? それにお父さん、元気にしてるみたいじゃない? だから明日になったら始末屋があなたをお父さんの所に連れて行ってくれるから、楽しみにしていなさいね?」

「Ура!」

 図らずも彼女の父の無事を知らされる格好になったヴァルヴァラは母国語でもってそう言うと、万歳の姿勢のまま歓喜の雄叫びと共にぴょんと飛び跳ね、その小さな身体のポテンシャルを存分に発揮しながら喜びを露にする。

「あらあら、ヴァルヴァラったら喜んじゃって、お父さんが見つかったのがそんなに嬉しかったのかしら?」

 飛び跳ねて喜ぶヴァルヴァラを見守りながらそう言ったグエン・チ・ホアは、ついさっきまで彼女の左の眼窩の奥底から這い出した異形の存在がシュードラの脳髄を食い荒らしていた事などどこ吹く風で、その態度にはおくびにも出しはしない。

「帰ったぞ」

 すると程無くして廊下へと続く扉が蹴り開けられ、始末屋がそう言いながら客室へと帰還した。

「あら始末屋、意外と早かったじゃない? それで、あの男は一体どこに捨てて来たのかしら?」

「ホテルの裏手の路地に向かって、窓から投げ捨てて来た。この寒さでも運良く凍死しなければ、明日の朝には発見されるだろう」

 事も無げに始末屋がそう言えば、ヴァルヴァラが彼女に抱きついて尋ねる。

「ねえねえ、明日になったら、パパの所に連れて行ってくれるんでしょ? チ・ホアから聞いたよ?」

「ああ、そうだ。明日になったら、あたしと貴様で貴様の父親を迎えに行く。だから早起きするために、今日は早く寝るぞ」

 やはりぶっきらぼうな表情と口調でもってそう言った始末屋は、彼女に抱きつくヴァルヴァラの手を振りほどくと、客室の窓側に設置されたベッドの上にごろりと大の字になって寝転んだ。そしてそのまま眼を閉じ、就寝の体勢へと移行しようとする始末屋に、グエン・チ・ホアが尋ねる。

「ねえ、始末屋? 思っていたより早く『アーリアン・ドーン』の情報が手に入ったからには、もうあたしが東京に留まる理由も無くなったし、フォルモサに帰っちゃってもいいんでしょう?」

「ああ、そうだな。もう貴様に用は無いから、好きな時にさっさと帰るがいい」

「あらあら、あなたらしいと言っちゃえばそれまでの事だけど、それってちょっとつれない言い方じゃなくて? でもまあ、とにかくこれで、あなたとも暫くお別れなんじゃないかしら?」

 そう言ったグエン・チ・ホアもまた彼女のベッドに腰掛け、長く艶やかな黒髪を緩く結い纏めると、やがて就寝の準備を完了させた。するとそんなグエン・チ・ホアに一緒に髪を結ってもらったヴァルヴァラが、少しばかり躊躇した後に、思い切って始末屋のベッドへと潜り込む。

「ねえ、始末屋?」

「何だ?」

「また誘拐されたら怖いから、一緒に寝てもいい?」

「構わん。好きにしろ」

 始末屋がそう言えば、ヴァルヴァラは枕を頭の下に敷きながら、始末屋にぴったりと身を寄せるような格好でもって彼女と同じベッドの上に寝転んだ。そしてそっと眼を閉じて呼吸を整えると、就寝の挨拶を口にする。

「おやすみ」

「ああ、おやすみ」

 始末屋もまたそう言って、同衾するヴァルヴァラに向けて就寝の挨拶を口にした。そして彼女ら二人にグエン・チ・ホアを加えた三人はゆっくりと眠りに落ち始め、やがてぐっすりと夢も見ぬまま熟睡し、由緒正しき観光地として知られる浅草の街の夜は更け行くばかりである。

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