第一幕
第一幕
雪こそ降りはしないものの、日本海、もしくは遠くユーラシア大陸のロシアの方角から吹き抜ける北風が肌を刺すように冷たい師走の昼下がり。東京都台東区浅草の中心地である浅草寺から程近い一軒の牡蠣小屋の店先で、二人の成人女性が少し遅めの昼食、もしくは随分と早めの夕食にありついていた。
「やっぱり牡蠣は、生に限るんじゃないかしら?」
新鮮な牡蠣を提供する牡蠣小屋のオープンテラスとでも言うべきか、とにかく店先に設置されたテーブルを囲みながらそう言うと、ベトナムの民族衣装である純白のアオザイに身を包んだ若い女性は新たな生牡蠣を咀嚼する。
「ねえ始末屋、あなたもそう思わない?」
そう言って生牡蠣を嚥下したアオザイ姿の女性はそれなりに背が高く、鴉の濡れ羽色の黒髪は長く艶やかで、左眼に医療用の眼帯を当てている点さえ除けば如何にも生粋のアジア人らしい器量良しであった。そして彼女が始末屋と呼んだもう一人の成人女性、つまりテーブルを挟んだ向かいの席に腰を下ろすのは、駱駝色のトレンチコートに身を包んだ褐色の肌の大女である。
「いや、残念ながら、あたしは生牡蠣は苦手だ。勿論生でも食えない事は無いが、どうせなら牡蠣は、火を通した方がずっと美味い。どうやらこの点に関しては貴様とは意見が一致しないようだな、チ・ホア」
黒い三つ揃えのスーツと真っ赤なネクタイ、それに駱駝色のトレンチコートと革靴と革手袋に身を包んだ始末屋はぶっきらぼうな口調でもってそう言いながら、テーブルの上のカセットコンロで焼いた焼き牡蠣をむしゃむしゃと頬張る手を止めない。
「あらあら、あなたにも苦手な食べ物があるのかしら? てっきりあなたってばどんなゲテモノでももりもり食べちゃう女丈夫だと思ってたのに、それって意外じゃない?」
チ・ホアと呼ばれたアオザイ姿の女性は語尾の音程が上擦ってしまう少しばかり訛った日本語でもってそう言うと、手にしたワイングラスを傾け、生牡蠣との相性が良いとされるシャブリ産の白ワインを優雅に飲み下した。そしてそんなチ・ホアの優雅さとは対照的に、酒を飲まない
「ところでチ・ホア、こんな所でゆっくり酒を飲んでいると言う事は、東京での貴様の仕事は片付いたのか?」
「ええ、そうね? おかげ様で、都内の骨董市でもオークションでも想定以上の素敵な出物が見つかったんじゃないかしら? だからこうしてあなたと二人で杯を酌み交わしていても、今回の買い出しでもって手に入れた家具や古書をフォルモサのお店に並べられる日が待ち遠しくてしょうがないじゃない?」
熱々の焼き牡蠣を貪り食いながらの始末屋の問い掛けに、アオザイ姿のチ・ホアが、やはり語尾の音程が上擦ってしまう特徴的な口調でもってそう言った。遠くフォルモサの地で『Hoa's Library』なる店名のアンティークショップを経営する彼女は年末年始の休暇を利用し、旧正月の特売の目玉商品を入荷せんがため、ここ東京までわざわざ足を運んでいたのである。
「それで、始末屋? そう言うあなたの方こそ、東京で請け負った仕事は片付いたのかしら?」
「ああ、勿論だ。今回の依頼は半ば中華街と化した池袋を根城とするチャイニーズマフィアを壊滅させる事だったから、末端の下っ端連中まで皆殺しにするのに、少しばかり時間が掛かったがな」
トレンチコート姿の始末屋は事も無げにそう言いながら、数滴のタバスコを垂らした焼き牡蠣をむしゃむしゃと頬張った。非合法組織『
「それにしても、牡蠣ってどうしてこんなに美味しいのかしら? 幾らでも食べられちゃうじゃない?」
「ああ、そうだな。確かにこうも美味いと、幾らでも食えそうだ」
そう言った始末屋とチ・ホアの二人がそれぞれの口中へと焼き牡蠣と生牡蠣を放り込んだ、まさにその時であった。牡蠣小屋の前を走る伝法院通りの左手から大小二つの人影が姿を現し、その人影が右手の浅草寺の方角へと駆け抜けようとしたところで、不意に聞き慣れぬ外国語による罵声が彼女らの耳に届く。
「■■■! ■■■■■■■■■!」
罵声を耳にした始末屋とチ・ホアが顔を上げれば、全力疾走でもって伝法院通りを駆け抜けようとする大小二つの人影は革のコートに身を包んだ白人男性と、同じく白いダウンコートに身を包んだ白人の幼女であった。そして彼ら二人を数人の浅黒い肌の軍服姿の男達が罵声交じりに追跡し、その男達の手には、ドイツのモーゼル社製の自動拳銃が握られている。
「■■!」
再びの外国語による罵声を口にしながら狙いを定めると、白人男性と幼女を追跡していた軍服姿の男達の内の一人の気が逸り、モーゼル拳銃の引き金を引き絞った。すると乾いた銃声と共に直径9㎜の拳銃弾が射出され、ちょうど牡蠣小屋の店先に差し掛かった白人男性の背中に命中したかと思えば、体勢を崩した彼は幼女を巻き込むような格好でもって転倒する。
「アレクセイ! アレクセイ、立って!」
転倒した幼女は逸早く身を起こし、アレクセイと言う白人男性の名を口にしながら、流暢なロシア語でもって彼の身を案じた。しかしながら背中を撃たれたアレクセイの傷は存外深いらしく、コンクリート製のブロックで舗装された路面に横たわったまま立ち上がる事が出来ない。
「アレクセイ、立って! 立ってってば!」
「ヴァルヴァラ、逃げろ! 私に構わず逃げるんだ!」
立ち上がる事が出来ないアレクセイは激痛に耐えながらそう言って、彼がヴァルヴァラと呼んだ白いダウンコート姿の幼女に逃走を命じた。
「嫌だ、一人じゃ逃げられない! 立ってよ、アレクセイ! お願いだから、立ってってば!」
すると涙交じりにそう言ってアレクセイの命令を拒否したヴァルヴァラを、彼女らに追い付いた軍服姿の男達が背後から拘束し、強引に拉致しようと試みる。
「アレクセイ!」
「ヴァルヴァラ!」
互いの身を案じ合う二人を引き離すような格好でもって、立ち上がる事が出来ないアレクセイをその場に残したまま、ヴァルヴァラを拘束した軍服姿の男達は彼女もろとも国際通りの方角へと立ち去った。
「ヴァルヴァラ……」
浅草寺から程近い伝法院通りの路上に取り残されながら、拉致されてしまった幼女の身を案じてその名を口にするアレクセイ。すると牡蠣小屋の店先から事の成り行きを見守っていた始末屋が席を立ち、彼の元へと歩み寄ると、立ち上がる事が出来ないアレクセイに問い掛ける。
「おい貴様、無事か?」
始末屋はぶっきらぼうな口調でもってそう言うが、横たわったまま立ち上がる事が出来ないアレクセイの周囲の路面には彼を中心とした血の染みがじわじわと広がり、どう考えても無事で済む出血量ではない。
「……そこのキミ、頼む……どうか、ヴァルヴァラを助けてやってくれ……」
撃たれた背中の傷口から出血しながらそう言った瀕死のアレクセイに、始末屋が問い掛ける。
「それは、貴様からあたしへの新たな依頼か?」
「え? ……まあ、そうだ……」
何が何だか分からないままアレクセイがそう言って首を縦に振れば、始末屋はトレンチコートの内ポケットから自身のスマートフォンを取り出し、液晶画面に触れて掛け慣れた電話番号をタップする。
「もしもし、貴様だな? そうだ、あたしだ。始末屋だ。これより、新規の依頼人であるアレクセイより受諾した依頼に取り掛かる。至急、そちらで
「
するとスマートフォンの受話口越しに、妙にテンションの高い声と口調でもって何者かがそう言うと、その場に屈み込んだ始末屋が彼女のスマートフォンをアレクセイに手渡した。
「初めまして、アレクセイ様ですね?
「……アキモフ親子、つまり私の無二の親友であるボリス・アキモフと、その一人娘であるヴァルヴァラ・アキモフを『アーリアン・ドーン』の魔の手から救い出してやってほしい……そして出来る事ならば、彼ら二人が末永く幸せに暮らせるよう、お膳立てしてやってくれ……」
「
始末屋のスマートフォンの受話口越しに、依頼内容の最終確認の意味も込めながら、
「……私の銀行の口座に、およそ二十万ドルが預金されている筈だ……キミ達が一体何者なのかは知らないが、私の依頼が達成されるなら、その全てを引き出してしまっても構わない……」
そう言ったアレクセイの言葉が、彼の依頼が効力を発揮する合図となる。
「
「どっちに行った?」
始末屋はぐるりと周囲を見渡しながらそう言うと、行き交う通行人達の奇異の眼も厭わぬままアスファルトで舗装された路面に突然這いつくばり、その路面の匂いをくんくんと嗅ぎ始めた。そして警察犬も顔負けの常人離れした嗅覚を誇る彼女は間髪を容れず、拉致されたヴァルヴァラの行方を難無く嗅ぎ当てる。
「あっちか」
そう言った始末屋は国際通りの南、つまり東京駅の方角へと向かって、まるで世界最速の陸上動物であるチーターの様な俊敏さでもって猛然と駆け出した。オリンピックの短距離走のゴールドメダリストにも匹敵する、凄まじいまでの瞬発力である。
「あれか」
やがて片側三車線の国際通りをおよそ一㎞ばかりも南下したところで、全力疾走し続ける始末屋は前を走る一台の黒塗りの高級車、つまりベンツ社製のSUV車であるクラスGLEを視界に捉えた。そして彼女にしか嗅ぎ当てられないような微かな匂いながらも、そのベンツGLEの後部座席から、軍服姿の男達の手によって拉致されたヴァルヴァラの体臭がぷんと漂う。
「ふん!」
すると猛烈な速度でもって全力疾走し続ける始末屋はSUV車に追い付くなり両脚の筋肉とアキレス腱に力を込め、そのSUV車のサイドミラーを取っ掛かりにしながら路面を蹴って跳躍したかと思えば、並走するベンツGLEのボンネットに飛び乗った。
「■■! ■■■■■■■!」
聞き慣れぬ外国語による運転手の罵声を無視しつつ、決して降り落とされる事のないようボンネットにしっかりとしがみついた始末屋は、彼女の体躯によって視界を遮られながらも走り続けるベンツGLEの車内の様子をフロントガラス越しに観察する。
「よし、いい子だ」
後部座席の中央に乗せられたヴァルヴァラの無事な姿と、彼女がシートベルトを締めている事を確認した始末屋は革手袋を穿いた右の拳をぐっと固く握り締め、その拳でもって国際通りを走行し続けるベンツGLEのフロントガラスを一撃の下に叩き割った。そして叩き割られたフロントガラス越しに車内へと侵入した彼女の右手は運転席のハンドルを強引に掴み取り、それを力任せに回転させれば、急ハンドルを切る格好になったベンツGLEは勢い余って横転する。
「!」
横転したベンツGLEの車体はアスファルトでもって舗装された路面を横滑りすると、耳を
「ふん!」
国際通りの車道の中央で横転したままのベンツGLEに歩み寄った始末屋は、掛け声と共に気合一閃、そのベンツGLEのルーフ部分を強引に車体から引き剝がした。
「おい貴様、無事か?」
ベンツGLEのルーフを引き剥がした始末屋はそう言いながら車内を覗き込み、後部座席に座っていた筈のヴァルヴァラの安否を確認する。
「……だ、大丈夫……かな?」
果たして横転したベンツGLEの車内でそう言ったヴァルヴァラは、その身を包む白いダウンコートを皺だらけにしながらも、しっかりとシートベルトを締めていたおかげで無傷であった。ちなみに同じ後部座席の彼女の隣に座っていた軍服姿の男はシートベルトを締めていなかったがために、横転の衝撃でもって頭部を激しく強打し、すっかり昏倒してしまっている。
「よし、だったら早くそこから出て来い。いつまでもこんな所でぐずぐずしていては、警察が駆け付けて面倒な事になる」
そう言った始末屋が手を伸ばし、横転したベンツGLEの車内から脱出せんとするヴァルヴァラを手助けしようとした、まさにその時だった。昏倒してしまっているのとはまた別の軍服姿の男が運転席から這い出したかと思えば、腰のホルスターから抜いたモーゼル拳銃の銃口を始末屋に向ける。
「■■■■! ■■■■■■■!」
相変わらずの聞き慣れぬ外国語でもって軍服姿の男がそう言うと、浅黒い肌の彼から銃口を向けられた始末屋は微塵も動じる事無くトレンチコートの懐に両手を差し入れ、やがて引き抜かれたその手には左右一振りずつの手斧が握られていた。丹念に研ぎ上げられた鋭利な切っ先が陽光を反射し、ぎらりと輝く。
「■■!」
始末屋の鋭い眼差しから交戦の意志を汲み取った軍服姿の男は、彼女の眉間に照準を合わせながら、手にしたモーゼル拳銃の引き金を躊躇無く引き絞った。すると乾いた銃声と共に直径9㎜の拳銃弾が射出され、その速度は亜音速に達するものの、事前に射線を予知していた始末屋は手斧の斧腹でもってそれを受け止める。
「■■■■? ■■■■■■!」
銃撃を阻止された軍服姿の男はおろおろと泡を食った様子でもって慌てふためき、声を上げながら驚くが、一度でも始末屋に銃口を向けてしまった彼に生き残る術は無い。
「死ね」
非情にもそう言った始末屋はまるで大リーグのエースピッチャーの様な慣れた手付きでもって手斧を投擲し、投擲された手斧は虚空を切り裂きながら軍服姿の男の頭部に命中すると、その頭部を西瓜割りの西瓜さながらに真っ二つにかち割った。頭部をかち割られた男は悲鳴を上げて苦しむ間も無く、銃撃を阻止された際の慌てふためいた表情を崩さぬまま、真っ赤な鮮血と薄灰色の脳漿をぶち撒けて絶命する。
「……ナチス?」
絶命すると同時にどさりとその場に崩れ落ちた男の死体に歩み寄り、その頭部から手斧を回収した始末屋は、彼の身を包む軍服の色や意匠を観察しながらそう言って呟いた。確かにナチスドイツのそれにも似た軍服の胸元にはドイツ騎士団を意味する鉄十字の紋章が縫い留められているし、なんであれば左腕には、
「おい、そこの貴様……確か、ヴァルヴァラとか言ったか? 怪我が無いのなら、先を急ぐぞ。ついて来い」
手斧の一撃によって頭部をかち割られた男の死体と、それ以外にも横転事故の際に気を失ってしまった二人の軍服姿の男をその場に残したまま、そう言った始末屋は来た道を引き返すような格好でもって国際通りを北上し始めた。するとベンツGLEの車内から這い出した白人の幼女、つまりヴァルヴァラもまた彼女の後を追い、再び浅草の街の方角へと足を向ける。
「あら始末屋、思っていたよりも早かったじゃない? その様子だと、女の子は無事取り戻せたのね?」
やがて国際通りを徒歩でもって北上し、多くの観光客で賑わう浅草六区の六叉路を経由して牡蠣小屋の店先へと帰還した始末屋とヴァルヴァラを、純白のアオザイに身を包んだチ・ホアがそう言って出迎えた。
「アレクセイ!」
すると牡蠣小屋の店先に立つチ・ホアに見守られながら、伝法院通りの路面を背にして横たわるアレクセイの姿に気付いたヴァルヴァラが、今にも息絶えてしまいそうな彼の元へと駈け寄って
「アレクセイ、しっかりして! 痛いの? 背中が痛いの? ねえ、どうしよう、こんなに血が出ちゃってるじゃない!」
「なあ、チ・ホア。この男の傷は、どんな塩梅だ?」
「そうねえ、あたしの見立てだと、もって五分から十分ってところじゃないかしら? 一応さっき、消防にも電話でもって通報しておいたけど、たぶん救急車が到着する前に死んじゃうんじゃない?」
ぶっきらぼうな始末屋の問い掛けに、彼女に問われたチ・ホアもまた叩き潰した羽虫の死を看取るような淡々とした口調でもってそう言って、今にも尽きようとしているアレクセイの天寿を看破した。
「そんな訳だ、ヴァルヴァラ。残念ながら、その男はもう助からない。これ以上野次馬が集まって騒ぎになる前に、さっさとここから立ち去るぞ」
既に野次馬が集まりつつある現状を鑑みた始末屋は何の感慨も無くそう言うが、だからと言ってはいそうですかと納得して彼女に従うほど、ヴァルヴァラは馬鹿でも薄情でもない。
「嫌だ! 嫌だ! 嫌だ! こんな所に、アレクセイを置いては行けない! アレクセイと一緒じゃなきゃ、あたしはどこにも行かないから!」
すると涙ながらにそう言って首を横に振るばかりのヴァルヴァラを、彼女の足元に横たわるアレクセイが、最後の力を振り絞って説得する。
「……ヴァルヴァラ……私の事は構わないから……こちらの女性と共に今すぐこの場から立ち去りなさい……奴らは……あの『アーリアン・ドーン』の連中は……キミとボリスを必ずや拉致しようと再び姿を現すだろう……だからヴァルヴァラ……キミだけでも逃げるんだ……」
ヴァルヴァラの手を握りながら最後にそう言い残したアレクセイは、チ・ホアの見立てに反し、五分と経たぬ内に静かに息を引き取った。彼の死因は背後からの銃撃によって肝臓が破壊され、全身の細胞に充分な量の酸素を供給するだけの血液の喪失、つまり失血死である。
「アレクセイ! 嫌だ、眼を開けて! あたしを置いてけぼりにして死なないでよ、アレクセイ!」
息を引き取ったアレクセイを前にして、
「おい、ヴァルヴァラ。貴様が幾ら泣き叫んだところで、その男が生き返る事は無い。だから貴様は、今すぐあたしと一緒にここから立ち去るんだ。いつまでもぐずぐずしていると、置いて行くぞ」
「嫌だ! あたしはアレクセイと一緒にここに居る! 置いて行くつもりなら、そうすればいいじゃない!」
しかしながらヴァルヴァラがそう言って命令を拒否すれば、一旦溜息を吐いた始末屋は改めて方針を変更し、彼女の身を包む白いダウンコートの後襟をおもむろに鷲掴んだ。そしてそのまま常人離れした膂力を発揮すると、その場に留まろうとするヴァルヴァラの身体を文字通りの意味でもって引き摺りながら、俗にホッピー通りと呼ばれる飲み屋街の方角へと足を向ける。
「アレクセイ! 嫌だ、アレクセイ! ちょっとあなた、この手を放してよ! 放してってば!」
そう言って泣き叫ぶヴァルヴァラを力任せに引き摺りながら、ホッピー通りを淡々とした足取りでもって北上した始末屋とチ・ホアは、やがて今夜の宿である天然温泉が売りのホテル『野乃』へと辿り着いた。
「ツインの部屋を予約していた者だが、もう一人泊まる事になったので、エキストラベッドを用意しろ。勿論、追加料金は支払う」
ホテルの一階のフロントでもって始末屋が命じれば、命じられた女性スタッフは深々と頭を下げながら「かしこまりました」と言ってそれを快諾し、さっそくエキストラベッドの設置に取り掛かる。
「良し、いいぞ。入れ」
程無くしてベッドの準備が整うと、安全確認のために先んじて客室に足を踏み入れていた始末屋がそう言って、ヴァルヴァラとチ・ホアの二人を招き入れた。ホテルに到着するまでは駄々を捏ねる赤子の様に泣き叫びながら暴れていたヴァルヴァラも、さすがに観念したのか、今は幾分落ち着いた様子である。
「ヴァルヴァラ、あのアレクセイとか言う名の男と貴様の素性、それに貴様らを拉致しようとした『アーリアン・ドーン』とやらについて可能な限り詳しく教えろ。勿論言うまでもない事だが、確かボリスとか言った貴様の父親の居所についても、白状するんだ。いいな?」
エキストラベッドを設置し終えたホテルのスタッフ達が退室すると、ややもすれば高圧的な表情と口調でもってそう言って、ベッドの縁に腰掛けたヴァルヴァラを始末屋が問い質した。すると問い質されたヴァルヴァラは慎重に言葉を選びながら、ゆっくりと口を開く。
「あたしの名前は、ヴァルヴァラ。ヴァルヴァラ・ボリーソヴナ・アキモフ。今年の秋に十二歳になったばかりで、生まれたのはロシアだけど、七歳の頃からパパと一緒に日本に住んでるの」
そう言ったヴァルヴァラの全身をじろじろと食い入るように睨め回しながら、トレンチコート姿の始末屋は無言でもって、眼の前の幼女の容姿を改めて観察した。本人の弁によれば年齢は十二歳と言う事だが、確かにちょうどそのくらいの背格好であると同時に、碧色の瞳と腰まで伸びた艶やかな金髪は彼女が純血のロシア人である事を如実に物語っている。
「それで、そのパパとやらは、今どこに居る?」
「さあ、分かんない。十日くらい前に急にパパがうちに帰って来なくなってからは、ずっとアレクセイと一緒に東京中を逃げ回ってたし、アレクセイもパパがどこに居るかまでは知らないって言ってた」
「ならば、そのアレクセイとは何者だ?」
「パパの友達で、同じ大学の仕事仲間。あたしが未だロシアに住んでた小っちゃい頃からしょっちゅううちに遊びに来ていたおじさんで、あたしのもう一人のパパみたいな人だったの。なのに、そのアレクセイが、あんな事になっちゃって……」
父親にも等しい存在の最期を看取ったヴァルヴァラはそう言いながら項垂れ、小刻みに肩を震わせて涙ぐみ、喉の奥から漏れ出そうになる嗚咽をぐっと堪えて止まない。
「……アレクセイ……」
幼いヴァルヴァラが嗚咽を堪えながらか細い声でもってそう言って、今は亡き第二の父の名を滂沱の涙と共に口にした、次の瞬間。不意に彼女の腹の虫が、大音量でもってぐうと鳴いた。
「……」
ある意味不謹慎とも言える最悪のタイミングでもって腹の虫を鳴かせてしまったヴァルヴァラは言葉を失い、羞恥と慙愧の念に耐えられず、まるで天使の様に可愛らしいその顔を真っ赤に紅潮させる。
「なんだ貴様、腹が空いたのか?」
しかしながら始末屋は事も無げにそう言って、彼女もチ・ホアも、特にヴァルヴァラを責めたりはしない。
「だったら、飯を食いに行くぞ。あたしも牡蠣を食っている途中でごたごたに巻き込まれたし、未だ未だ食い足りない」
そう言った始末屋はベッドの縁に腰掛けたヴァルヴァラにジェスチャーでもって立ち上がるよう促すと、彼女ら二人にチ・ホアを加えた女ばかり三人揃って、ホテルの客室を後にした。そしてエレベーターで一階に下りるとフロントを素通りし、自動ドアを潜って戸外の空気にその身を晒したかと思えば、ホッピー通りの北に位置するひさご通りに足を踏み入れる。
「ここだ。この店で豚を食うぞ」
やがてチ・ホアとヴァルヴァラを背後に従えながらひさご通りを北上した始末屋はそう言って、駱駝色のトレンチコートの裾を靡かせつつも、一軒の小さなレストランの前で足を止めた。そこは豚肉の希少部位とオーガニック野菜を専門的に取り扱い、庶民の懐にも優しい価格でもってフレンチのコース料理を提供する、下町の地元民に愛された優良店の一つである。
「ランチには、未だ間に合うか? 間に合うならランチのコースを三人分、今すぐ用意しろ。急げ、大至急だ。ぐずぐずしていたら、その尻を蹴り上げるぞ」
入店するなりそう言って注文を終えた始末屋は、店の奥の四人掛けのテーブル席にどっかと腰を下ろした。そして彼女の向かいの席にヴァルヴァラ、その隣にチ・ホアが腰を下ろすと、眼の前の幼女に改めて尋ねる。
「それでヴァルヴァラ、確かアレクセイが『アーリアン・ドーン』と呼んでいたあの軍服姿の男達は、一体何者だ? 何故貴様と貴様の父親、それにアレクセイは、奴らに拉致され掛けたんだ?」
始末屋はそう言って問い質すが、問い質されたヴァルヴァラは首を横に振らざるを得ない。
「さあ、分かんない。だって、あたしは『アーリアン・ドーン』なんて、聞いた事も無いもん。それが今朝になってからアレクセイと一緒に泊まってたホテルにあいつらが押し掛けて来て、あたし達を無理矢理車に乗せて、どこかに連れて行こうとしたの。だから信号で車が停まった瞬間を見計らって逃げ出したんだけど、逃げる途中でアレクセイが撃たれちゃったから……あたしは何も知らないの……」
そう言ったヴァルヴァラが再び涙ぐみ、肩を震わせながら項垂れると、彼女の向かいの席に腰を下ろす始末屋は溜息交じりに
「そうか、参ったな。てっきり貴様からもう少し有益で具体的な情報が聞き出せるものと思っていたんだが、こんな事なら、あの時あの場所であの男達を尋問しておくべきだったか」
始末屋がそう言えば、そんな彼女に今度はヴァルヴァラが尋ねる。
「ねえあなた、あたしにばかり質問してないで、あなた達の事も教えてくれる? あなた達の名前は? どうしてあたしを助けてくれるの? ねえ、どうして?」
ヴァルヴァラの
「あたしの名は始末屋。非合法組織『
「あたしの名前は、グエン・チ・ホアよ? 親しみを込めて、チ・ホアって呼んでちょうだいね?」
始末屋とグエン・チ・ホアがそう言えば、ヴァルヴァラは重ねて尋ねる。
「二十万ドルと引き換え? つまりあなたは、お金を貰えるからあたしとあたしのパパを助けてくれるの?」
「まあ、そうだな」
「だったらもし仮に、アレクセイがお金を一ドルも持っていないのにあなたに依頼したとしたら、あたし達を助けてくれなかったの?」
ヴァルヴァラに問い掛けられた始末屋は暫し言い淀み、腕を組みながら小首を傾げ、慎重に言葉を選んでいる様子だった。
「……その質問には、今は答えられない」
思った事をずけずけと口にする彼女にしては珍しく、返答をはぐらかした始末屋。やがて彼女らの眼の前のテーブルに、レストランの女性スタッフがフレンチのコース料理を配膳し始める。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます