始末屋繁盛記:2nd opinion

大竹久和

プロローグ


プロローグ



 無骨で粗野で大雑把で、どんな悪路でも走破してみせる無限軌道キャタピラの上にオレンジ色の四角い鉄の箱を乗せたようなシルエットの、観測用雪上車。そんな観測用雪上車のヘッドライトが照らし出すのは月明かりすら届かない漆黒の闇夜と、びうびうと吹き荒ぶ雪礫ゆきつぶてが織り成す、まさに白と黒のモノトーンの世界であった。

「……なあ、キム」

 すると雪上車の運転席に座っていた髭面の男が不意にそう言えば、彼からキムと呼ばれた助手席の男が振り返る。

「何だい、なかちゃん?」

「俺達がここで立ち往生してから、どのくらい経った?」

 中ちゃんと呼ばれた運転席の男がそう言って問い掛けると、助手席のキムが眠たそうにあくびを噛み殺して瞼を擦りつつも、幾重にも重ね着を繰り返した分厚い防寒着の袖を捲り上げた。そして左手首に巻かれたアナログ式の腕時計でもって現在の時刻を確認してみれば、文字盤の上の時針と分針は午前二時ちょうどを指し示している。

「停車したのが午後八時ちょっと前だったから、もう六時間が経過した事になるね。基地の皆は明日の捜索と観測に備えて、とっくに寝ている頃だろうさ」

 助手席のキム、つまり日本国の南極観測隊の隊員である木村真一郎きむらしんいちろうはそう言いながら、観測用雪上車のフロントガラスにびっしりとこびり付いた結露を防寒着の袖でもって拭い取った。すると遮熱処理が施されたガラスの向こうの戸外ではいつ止むとも知れぬ嵐が吹き荒れており、俗にホワイトアウトと呼ばれる雪による方向感覚の喪失によって、ほんの十m先の視界も確保出来ない。

「それにしても、まさか夏場の雪氷観測の帰り道で、こんな吹雪に遭遇する事になるとはなあ」

 キムと同じく分厚い防寒着に身を包んだ運転席の中ちゃん、つまりもう一人の南極観測隊の隊員である中田啓介なかたけいすけがそう言えば、観測用雪上車の車中に取り残された彼ら二人は同時に溜息を漏らす。

「ああ、こんな事なら、わざわざ自分から志願してまで南極なんかに来るんじゃなかったよ」

 溜息交じりにそう言った中ちゃんの言葉通り、彼とキムとを乗せた観測用雪上車が雪氷観測を執り行ったこの地こそ、地球上に残された最後の秘境として名高い南極大陸そのものであった。そしてそんな南極大陸の昭和基地を出発した彼らは季節外れの吹雪でもって行く手を遮られ、前後不覚に陥り、夜を徹しての立ち往生を余儀無くされてしまっているのである。

「……なあ、中ちゃん」

「ん? 何だ?」

「基地のライブラリに登録されているあの映画、もう観た?」

 ディーゼルエンジンと直結したオイルヒーターが稼働し、凍死しない程度の気温が保たれている観測用雪上車の車内でもってそう言って、助手席のキムが運転席の中ちゃんに問い掛けた。

「あの映画? どの映画だ?」

「ほら、あの南極の基地が舞台で、可愛らしい犬の頭がぱっかーんって割れたかと思ったら粘液まみれのミミズみたいな触手が背中からにゅるにゅる生えて来る、グロいホラー映画」

「ああ、あれの事か。まったく誰が好き好んで南極が怖くなるような映画なんかを、わざわざ南極に来てまで観なきゃならないってんだか、理解に苦しむよ」

 髭面の中ちゃんが顎鬚を撫でながらそう言ってかぶりを振れば、キムは重ねて問い掛ける。

「だったらさ、あの噂は知ってる?」

「噂?」

「どちらが先に人類史上初の南極点到達を成し遂げるか競い合ったスコットとアムンゼンの逸話は、中ちゃんも知ってるだろ?」

「おいおい、そりゃ知ってるさ! 馬鹿にすんなよ? スコットとアムンゼンの逸話と言えば教科書にも載ってるような、南極観測隊の隊員の基礎知識の一つだからな! ……それで、その逸話がどうかしたのか?」

「うん、俺が尋ねているのは全滅したスコット隊のメンバーの内の一人の、オーツ大尉に関する噂なんだよ」

 キムはそう言うと、天候の回復と夜明けを待つ観測用雪上車の車内で分厚い防寒着に身を包みながら、意味深長にほくそ笑んだ。

「オーツ大尉? 唯一遺体が発見されていないって言う、あのローレンス・オーツ大尉の事か?」

 運転席の中ちゃんがそう言って問い返せば、助手席のキムはここぞとばかりにほくそ笑みながら、噂の詳細を嬉々として語り始める。

「そうそう、そのオーツ大尉なんだがな? なんでも俺が聞いた噂によると、出るらしいぜ?」

「出る? 何が?」

「決まってんだろ、これだよ、これ」

 そう言ったキムは肩の高さまで持ち上げた両手首をだらりと垂らし、日本の伝統的かつ古典的なジェスチャーでもって、いわゆる幽霊や亡霊を意味してみせた。

「実は遺体が発見されていないオーツ大尉は未だに死んでおらず、ある種のゾンビとなって生き残り、姿を消してから百年以上が経過した今この瞬間も南極点の周囲を彷徨さまよい歩いてるんだってよ!」

 キムはおどろおどろしいゾンビの顔真似と声真似をしながらそう言うが、そんな彼の様子を中ちゃんは一笑に付す。

「ふん、馬鹿馬鹿しい。映画やゲームの中の話じゃあるまいし、そんなゾンビみたいな荒唐無稽な物がこの世に実在するもんか! それに万が一実在したとしても、南極の寒さの前じゃカチコチに凍り付いちまって、一歩も動けやしないからな!」

「いやいや、それが実在するんだってば! しかもこんな吹雪の夜には人間の匂いを嗅ぎ付けたオーツ大尉のゾンビが基地の近くにまで出没し、雪原に取り残された観測隊員達を片っ端から食い殺すって噂だぜ?」

 南極観測隊の隊員である中ちゃんを脅かすべく、彼の同僚のキムがそう言い終えた、まさにその瞬間。彼ら二人を乗せた観測用雪上車のヘッドライトが照らし出す仄白い灯りの中に、不意に大柄な人影がぬっと姿を現した。

「ひいっ!」

「出た!」

 いきなり虚を突くような格好でもって姿を現した人影に、観測用雪上車の車内の中ちゃんもキムも飛び上がって驚き、悲鳴を上げながら恐れおののく。

「……」

 しかしながら、無言のまま観測用雪上車をちらりと一瞥したその人影は、決してローレンス・オーツ大尉の亡霊などではない。それは場違いな黒い三つ揃えのスーツと真っ赤なネクタイ、それに駱駝色のトレンチコートと革靴と革手袋に身を包んだ、アフリカンニグロの特徴を色濃く残す褐色の肌の大女である。

「……女?」

 観測用雪上車のフロントガラス越しにそう言って恐れおののく中ちゃんとキムに見守られながら、トレンチコートの大女は一歩また一歩と着実な足取りでもって前進し続けると、やがて吹き荒ぶ雪礫ゆきつぶての彼方へとその姿を消した。彼女が姿を消した方角は、かつてスコットとアムンゼンが目指した南極点の方角に他ならない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る