第七幕


 第七幕



 この広大な地球上に残された最後の秘境であり、また同時に宇宙そらよりも遠い場所でもある、南極大陸。そんな茫洋たる南極大陸の遥か上空を、一機の第四世代ジェット戦闘機、つまりフォルモサ空軍に所属する複座式のミラージュ2000B/N/Dが闇夜を切り裂きながら飛翔していた。

「間も無く予定通り、極点まで100㎞の地点を通過します! 加速の際の衝撃にご注意ください!」

 ターボファンエンジンをごうごうと唸らせつつも飛翔するミラージュ2000B/N/Dのパイロットシートに座るパイロットが無線機越しにそう言えば、背後のコ・パイロットシートに座る褐色の肌の大女、つまり駱駝色のトレンチコートに身を包んだ始末屋は無言で頷きながら戦闘機の進行方向をジッと見据える。

「上陸は許可されていませんが、これから如何なさいますか?」

 フォルモサ空軍の正規の兵士であるパイロットが、やはり無線機越しにそう言って背後の始末屋に確認を求めた。すると彼女は「あたしはここで降りる。貴様はもう、フォルモサに帰っていいぞ」とだけ言って、緊急脱出装置である射出座席の起動レバーに手を掛ける。

「本官は詳細は存じ上げておりませんが、ご武運をお祈りしています! どうか、ご無事で!」

 最後にそう言ったパイロットに見守られながら、凍てつく南極大陸の遥か上空で、始末屋は射出座席の起動レバーを力任せに手前に引き寄せた。するとミラージュ2000B/N/Dのキャノピーを機体に繋ぎ止めていた爆砕ボルトが次々に爆発したかと思えば、やがて全てのボルトを失ったキャノピーは機体の後方へと吹き飛んで大空の彼方に消え失せる。そして次の瞬間、緊急脱出ベイルアウトの準備が整った射出座席は、始末屋を乗せたまま天高く射出された。

「!」

 ロケットモーターでもって座席ごと高速で射出された始末屋の身体は垂直方向に押し潰されるような強烈な重力加速度Gが掛かり、背骨を中心とした全身の骨がギシギシと軋んで悲鳴を上げ、常人ならば胃の中身が逆流して嘔吐してしまっていた事であろう。しかしながら決して嘔吐する事無く上昇し続けた始末屋は、やがて射出座席に内蔵されたロケットモーターのガス噴射が停止すると、その上昇速度は徐々に低下し始めた。そして宙を舞う座席の高度が頂点に達すると同時に、これまた座席に内蔵されたパラシュートが開いて、顔色一つ変える事無く緊急脱出ベイルアウトを達成してみせた彼女の頭上を覆う。

「ふう」

 無事にパラシュートが開いた事に安堵する始末屋を乗せたまま、天高く舞い上がった射出座席は宵闇に包まれた南極大陸の上空をゆっくりと降下し始めた。頭上を覆う分厚い雪雲とそこから舞い落ちる大粒の雪礫ゆきつぶてによって、視界は黒ずんだ灰色一色に染まってしまっている。

「くっ!」

 頭上を覆うカーキ色のパラシュートのおかげでゆっくりと、とは言えそれなりの速度でもって降下し続けた射出座席が地表に落着した際の衝撃で尻をしたたかに打ち付けた始末屋の喉から、冷静沈着を旨とする彼女にしては珍しく小さな苦悶の声が漏れた。そしてひとしきり尻の痛みにぶるぶると全身を震わせてから、射出座席に身体を固定していたシートベルトのロックを全て解除し終えると、始末屋は自分の足でもって改めて大地に降り立つ。

「さて、と」

 そう言って気を取り直した始末屋が真っ赤なネクタイを締め直しながら周囲を見渡してみれば、右を向いても左を向いても、そこは雪と氷と闇夜に覆われた白と黒のモノトーンの世界だった。しかも立っているのがやっとな程の強風がびうびうと絶え間無く吹き荒び、大粒の雪礫ゆきつぶてが舞い散る吹雪の様相を呈しているのだから、自分が一体今どこに居るのかすらも判別がつかない有様である。

「極点は、あっちか」

 至極当然の事ながら、常識的に考えれば南極大陸の冷気と寒風から身を守れる筈も無いスーツとトレンチコート。そんな駱駝色のトレンチコートのポケットからスマートフォンを取り出した始末屋は、そのスマートフォンにインストールされていたアプリのデジタルコンパスでもって方位を確認すると、そう言いながら南極大陸の極点の方角へと足を向けた。

「……」

 無言で口を噤んだまま進行方向だけをジッと見据え、降り積もった真っ白な新雪を掻き分けて氷の大地を踏み締めながら、始末屋は一歩また一歩と着実な足取りでもって極点目指して歩き続ける。びうびうと全てを掻き消してしまうかのように吹き荒ぶ強風も、褐色の肌に覆われた頬をびしびしと打ち付ける雪礫ゆきつぶても、彼女の行く手を阻む事は出来ない。

「……」

 そして始末屋は宵闇に包まれた風雪吹き荒れる南極大陸を、常識外れな軽装のまま徒歩でもって縦断せんと試みつつ、かつて自分が一介の少女に過ぎなかった頃の出来事を回想する。


   ●


 手斧による必殺の一撃を側頭部にまともに喰らってしまった革のジャンパー姿の始末屋は、白く柔らかな新雪の上へと顔面から倒れ込んだ。

「痛っ!」

 そう言って苦悶の声を上げた始末屋は今現在の彼女よりもずっと若く瑞々しく、身長も若干ながら低く未成熟で、トレードマークである駱駝色のトレンチコートも未だ着てはいない。

「おいおい、グリズリーってば、大丈夫かい? 今しがたの蠅が留まるような単調な一撃を避けられもせずにまともに喰らっているようじゃ、今日もまた罰として、飯抜きで居残り練習する羽目になっちゃうんじゃないのかな? あたしが手加減して峰打みねうちで済ましてやっていなかったら、今頃キミは、頭を真っ二つにかち割られて死んでたんだからね?」

 地面に倒れ伏していたグリズリーと呼ばれた褐色の肌の少女、つまり若き日の始末屋が這う這うの体でもって立ち上がってみれば、彼女の視線の先に立つ小柄な人影が溜息交じりにそう言った。

「師匠! もう一度、もう一度だけ手合わせ願います!」

 立ち上がるなり左右一振りずつの手斧を構えながらそう言った若き始末屋が師匠と呼んだ小柄な人影、つまり頭部に一対の獣耳と、同じく一対の山羊か何かのそれの様な立派な角が生えた少女は呆れ返る。

「やれやれ、手斧による戦闘技術ばかりは未だ未だ未熟なくせに、その身体の頑丈さだけは相変わらず折り紙付きだね、キミは。だけど残念ながら、あたしはもうへとへとに疲れちゃったし、いい加減にお腹が空いて来ちゃったよ。だから飯抜きと居残り練習のペナルティは特別に無かった事にしてあげるから、今日の鍛錬はここまでだ。陽が沈んでしまう前に、帰って飯にしよう」

 そう言った獣耳と山羊角の師匠はくるりと踵を帰すと、若き始末屋に背を向けながら雪原を歩き始めた。そこで仕方無く、左右一振りずつの手斧を手にした若き始末屋もまた踵を返し、彼女の背中を追うような格好でもって雪原を歩き始める。そして彼女ら二人が居るこの場所は、どこか人里離れた雪深い山奥の、鬱蒼と生い茂る木々に囲まれた前人未踏の荒野に他ならない。

「ただいま」

 やがて雪原を縦断した師匠と若き始末屋の二人は一軒の丸太造りの山小屋の前へと辿り着くと、誰に言うでもなくそう言いながら、人の気配がまるで感じられないその山小屋の中へと足を踏み入れた。

「さあグリズリー、お腹を空かせたあたしのために、美味しい晩飯をこしらえてくれよ!」

 さして広くもない山小屋に足を踏み入れた若き始末屋が暖房器具と調理器具を兼ねた薪ストーブに火を入れれば、その薪ストーブの向こう正面の特等席に置かれた安楽椅子に腰を下ろした師匠がそう言って、弟子である彼女に文字通りの意味でもってのお膳立てを促す。

「分かりました、師匠」

 すると若き始末屋はちんちんになるまで熱された薪ストーブのコンロの上に大きな鉄鍋を置き、山の麓からここまで運んだ食材が詰め込まれたダンボール箱を手に取ると、さっそく晩飯の準備に取り掛かった。そしてヴィクトリノクス社製のペティナイフでもって一口大に切った大量の魚肉ソーセージとブロッコリー、それに固形のコンソメスープの素を鉄鍋に放り込んでから脂肪分たっぷりの牛乳でぐつぐつと煮込めば、始末屋謹製の万能鍋の出来上がりである。

「出来ました、師匠」

「おいおい、グリズリーってば、またこの万能鍋かい? そりゃまあ確かに食べられない事も無いけどさ、ここに来てから毎日毎日三食こればっかりじゃ、いい加減に飽き飽きだよ」

 始末屋謹製の万能鍋を前にした師匠はそう言って呆れ返り、がっくりと肩を落としながら、まるでこの世に存在する全ての負の感情を煮染めたかのような深い深い溜息を漏らした。しかしながら今この山小屋にはこれ以外に食べる物は存在しないので、壁際のテーブル席へと移動した彼女は取るものも取り敢えず、万能鍋の中身を自分の皿によそって食べ始める。

「ところでさ、グリズリー?」

「はい、何ですか、師匠?」

「右も左も分からない家出娘だったキミがこのあたしの弟子になってから、今年で何年になる?」

 味と見た目はともかくとしても、栄養価だけは無駄に高い万能鍋をむしゃむしゃと食みながら、獣耳と山羊角の師匠が若き始末屋に問い掛けた。

「あたしが児童養護施設を脱走した直後の十五歳の時に弟子入りして、今年で十八歳になりますから、もう三年目になります」

 そう言って返答した若き始末屋に、師匠は魚肉ソーセージとブロッコリーを咀嚼しながら重ねて問い掛ける。

「もし仮にあたしがキミを一人前と認めて、晴れて独り立ち出来たとしたら、キミもまたあたしと同じ『大隊ザ・バタリオン』の執行人エグゼキューターになる気なのかい?」

「ええ、そのつもりです」

 革のジャンパー姿の若き始末屋は彼女自身がこしらえた万能鍋と、かちかちに硬くなった乾パンとをぼりぼりと齧りながらそう言って、師匠の問い掛けに迷う事無く返答した。

「それならグリズリー、今ここで、キミに敢えて尋ねたい。あたし達の様な執行人エグゼキューターにとって、依頼人からの依頼とは果たして何なのか、キミはそれを理解しているかい?」

「依頼とは、一度引き受けた限りは何があろうと、例外無く完遂すべきものです。執行人エグゼキューターになった暁には、あたしはそれを、自分のモットーとするつもりです」

「成程ね。それは確かに殊勝な心掛けだ。しかしながらあたしがキミに聞きたいのは、そう言う意味ではないんだよ」

「と、言いますと?」

 眉根を寄せながらそう言って問い返す若き始末屋に、師匠は改めて尋ねる。

「あたし達が何故依頼を引き受けるのか、何故依頼を完遂するのか、その理由をはっきりと心掛けていなければ、たとえどれだけ依頼を完遂したところでそこから得られるものは何も無い。だからグリズリー、キミはキミなりに、その答えを心の中にでも見出しておきたまえ」

「依頼を引き受け、完遂する理由……」

 始末屋がスプーンを持つ手を止めながらそう言って思い悩んでいる内に、師匠はさっさと万能鍋と乾パンによる夕餉を食み終えると、再び薪ストーブの前の安楽椅子に腰を下ろした。

「まあ、何もそんなに深く考え込む必要も無いんじゃないかな? 時間は未だ未だたっぷりと残されているんだし、キミが今よりもっともっと大きくなって一人前と認められ、晴れて『大隊ザ・バタリオン』の執行人エグゼキューターとなった時にでも思い出せばいいさ」

 無責任にもそう言った獣耳と山羊角の師匠は安楽椅子の上でそっと眼を閉じ、赤々と燃え盛る薪ストーブが放つ放射熱にその身を委ねながら、こっくりこっくりと船を漕ぎ始める。

「……」

 舟を漕ぐばかりの師匠を他所に、何故依頼を引き受けるのか、何故依頼を完遂するのかと言った疑問の答えを探す若き始末屋は、いつまでも無言のまま自分の内心に問い掛け続ける事しか出来ない。


   ●


 びうびうと吹き荒ぶ強風と舞い散る雪礫ゆきつぶて越しのモノトーンの視界の片隅に、不意に見慣れぬ人工物が姿を現したので、過ぎ去りし日々の出来事を回想していた始末屋ははっと我に返った。見ればその人工物は、無骨で粗野で大雑把で、どんな悪路でも走破してみせる無限軌道キャタピラの上にオレンジ色の四角い鉄の箱を乗せたようなシルエットの観測用雪上車である。

「……」

 しかしながらいくら見慣れぬ人工物が眼の前に姿を現したとしても、それで歩みを止める始末屋ではない。彼女は一向に意に介した様子も無いまま極点目指して前進し続け、観測用雪上車のヘッドライトが照らし出す仄白い灯りの中へと進入すると同時に、その雪上車のフロントガラスの向こうをちらりと一瞥した。

「ひいっ!」

「出た!」

 するとフロントガラスの向こうの運転席と助手席に腰を下ろした二人の男達がそう言って、極寒の南極大陸には場違いな黒い三つ揃えのスーツと真っ赤なネクタイ、それに駱駝色のトレンチコートと革靴と革手袋に身を包んだ始末屋の姿を凝視しながら恐れおののいているのが眼に留まる。

「……女?」

 そう言って恐れおののく二人の男達を尻目に、駱駝色のトレンチコートに身を包んだ始末屋は一歩また一歩と着実な足取りでもって前進し続け、やがて観測用雪上車は吹き荒ぶ雪礫ゆきつぶての彼方へとその姿を消した。そして実に数時間に及ぶ孤独な雪中行軍を耐え抜いたかと思えば、遂に彼女は、一棟の巨大な人工の建造物をその視界に捉える。

「やっと辿り着いたか」

 まるで独り言つようにそう言った彼女の視線の先の建造物は、南極大陸の極点の真上に鉄とコンクリートをうずたかく積み上げながらその姿を為す、まさに万物を拒絶する巨大な要塞そのものであった。そしてこの要塞、つまり『アーリアン・ドーン』の本拠地こそ、彼女が目指すべき今回の旅路の終着点そのものに他ならない。

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