第五幕


 第五幕



 やがてみるきぃ★ルフィーナとの激闘が繰り広げられた食堂を縦断し、ウラジーミル中央刑務所の獄舎の廊下を突き当たりまで渡り切った始末屋は、その最奥に位置する独居房と廊下とを隔てる鉄扉を「ふん!」と言う掛け声と共に蹴り開けた。そして蹴り開けられた鉄扉を乗り越えた彼女が狭く薄暗い房内へと足を踏み入れると、壁際に設置されたベッドの縁に腰掛ける一人の中年男性の姿が眼に留まる。

「貴様がボリス・アキモフ博士か?」

 突然の闖入者に驚くばかりの中年男性に、駱駝色のトレンチコートに身を包んだ始末屋はそう言って問い掛けた。

「パパ!」

 すると彼女の問い掛けに対する返答を待たずして、始末屋の背後から姿を現したヴァルヴァラが中年男性の元へと駈け寄り、タートルネックのニットセーターと綿のズボンに身を包んだ彼をぎゅっと固く抱き締める。

「パパ、会いたかった! すっごくすっごく、会いたかったの!」

「ヴァルヴァラ? 本当にヴァルヴァラなのか? 日本に残して来た筈のお前が、どうしてここに?」

 そう言って困惑するばかりの白髪混じりの胡麻塩頭の中年男性、つまりヴァルヴァラの実の父であるボリス・イワーノヴィチ・アキモフ医学博士は、日本から遠く離れたロシアの地まで娘が迎えに来た事が信じられない様子であった。しかしながら我が子と再会出来た事を喜ばぬ親が居る筈も無く、ボリス・アキモフ博士は幼いヴァルヴァラの細く華奢な身体を抱き締め返しながら、独居房の出入り口の傍らに立つ始末屋に問い掛ける。

「キミは? キミがヴァルヴァラをここまで連れて来たのか? ヴァルヴァラを託した筈のアレクセイは、どこに居る?」

「あたしの名は始末屋。非合法組織『大隊ザ・バタリオン』に所属する執行人エグゼキューターの一人であり、それ以上でもそれ以下でもない。そして貴様がヴァルヴァラを保護するよう依頼したアレクセイは、既に『アーリアン・ドーン』の手によって殺害された」

 始末屋がそう言えば、ボリス・アキモフ博士は眼鏡の奥の瞳を曇らせながら落胆せざるを得ない。

「そうか、アレクセイは奴らに殺されてしまったのか……今更悔やんでも悔やみ切れない事だが、彼には悪い事をしてしまった。私がヴァルヴァラを託さなければ、彼も死なずに済んだものを……」

 旧知の仲であった友人の死を知らされたボリス・アキモフ博士はそう言ってがっくりと肩を落としつつも、始末屋に重ねて尋ねる。

「それで、始末屋さん……だったかな? 何故キミは、ヴァルヴァラをここに連れて来たんだい?」

「いちいち勿体ぶって、さん付けする必要は無い。呼び捨てで構わんから、あたしの事は始末屋と呼べ。それと、あたしは志半ばで死んだアレクセイから貴様と貴様の娘のヴァルヴァラを『アーリアン・ドーン』の魔の手から救い出し、末永く幸せに暮らせるようお膳立てしてやってくれと依頼された。だからこれから、貴様ら親子を安全な場所まで移送する」

「ちょっと待ってくれ。ヴァルヴァラはともかくとしても、私はここにかくまってもらっている以上、安全な筈だ。娘を連れて来てくれた事には感謝するが、私がここから出て行く事は却って危険を伴わないか?」

かくまってもらっている? アキモフ博士、貴様、ここに囚われているのではないのか?」

 始末屋はそう言って、ボリス・アキモフ博士に問い返した。

「いや、違う、そうじゃない。図らずも『アーリアン・ドーン』に追われる身となった私は、古い友人であるこの刑務所の所長の伝手つてを頼って、ほとぼりが冷めるまでこの独居房にかくまってもらう事にしたんだ。ここなら壁も厚いし窓も塞がれているし、安全だろうからね。それに、いざと言う時のために、その所長が用心棒も雇ってくれている。キミも会わなかったか? ええと、何て言う名前だったかは忘れたが、あのピンク色の髪をしたやたらと派手な身なりの少女に」

 そう言ったボリス・アキモフ博士の口ぶりから察するに、どうやら先程始末屋と戦ったばかりの魔法少女みるきぃ★ルフィーナは、このウラジーミル中央刑務所の所長に雇われた用心棒だったらしい。

「あの馬鹿みたいな格好の女の事なら、気にするな。それに、どちらにせよ、ここはもう安全な場所ではない。残念ながら『アーリアン・ドーン』の連中は、ほとぼりが冷めるのを待つまでもなく、既に貴様の所在を突き止めている。あたしが奴らの刺客を尋問して得た情報によると、近日中に、この刑務所を襲撃して貴様の身柄を確保する計画らしいからな」

「何だって?」

 捕らえたシュードラの脳髄から直接聞き出した敵の動向を告げる始末屋の言葉に、ボリス・アキモフ博士はひどく驚いた様子であった。

「つい今しがた言った通り、これから貴様ら親子を安全な場所まで移送する。早く準備を整えろ。ぐずぐずするな」

「分かった、ちょっと待ってくれ」

 そう言ったボリス・アキモフ博士は独居房の各所に置かれていた私物の類を鞄の中へと詰め直し、大慌てでもって身支度を整える始める。同じ獄舎の雑居房に収監されている囚人達とは異なり、濃緑色の囚人服を着せられていない事からしても、彼がこの刑務所に強制的に囚われている訳ではない事が容易に推測された。そして分厚い革のジャンパーを羽織ったボリス・アキモフ博士がボストンバッグを手にすると、身支度を整え終えた事を始末屋に伝える。

「よし、行こう」

 ボストンバッグを手にした彼がそう言えば、先頭に立って歩く始末屋はくるりと踵を返し、アキモフ親子を背後に従えながら独居房を後にした。そして来た道を引き返すような格好でもって、ウラジーミル中央刑務所の獄舎の廊下をヴァルヴァラと手を繋いで歩くボリス・アキモフ博士が、娘の身を案じて問い掛ける。

「しかしヴァルヴァラ、アレクセイの一件に関しては返す返すも残念で仕方が無いが、お前は無事だったのか? どこにも怪我は無いのか? 何か、怖い眼に遭ったりはしてないか?」

 すると実の父から問い掛けられたヴァルヴァラは「うん、大丈夫! ちょっとだけ怖い眼にも遭ったけど、いつだって始末屋が助けてくれたから!」と言いながら真っ白な歯を見せて微笑み、ぐっと拳を握り締めて小さなガッツポーズを決めてみせた。

「そうか、それならいいんだが……もし仮に身の危険を感じたら、いつでも私に言うんだよ? いいね?」

 そう言って安堵するボリス・アキモフ博士とヴァルヴァラの二人が始末屋に先導されながら食堂を縦断し、やがて雑居房の前を走る獄舎の廊下へと至ると、その雑居房に収監された囚人達が再び騒ぎ出す。

「おい、さっきの黒んぼの姉ちゃんがまた来たぞ!」

「それに、子供も一緒だ! やっぱり女の子だ! おい、その後ろの眼鏡の男はどこの誰だ? 誰だってんだよ!」

「お前ら、そいつを脱獄させにここに来たのか? だったら頼むから、俺も脱獄させてくれよ!」

「キスしてくれよ! 俺にキスしてくれってば!」

「子供とキスさせてくれ!」

 やはり口々にそう言って、歓声とも罵声ともつかない声を張り上げる囚人達の姿に、粗暴で粗野な雰囲気に慣れていないボリス・アキモフ博士とヴァルヴァラはその身を竦ませた。しかしながら始末屋だけはそんな囚人達には眼もくれず、彼女の手によって屠られた刑務官達の死体が転がる廊下を確固たる足取りでもって渡り切ると、戸外の通路へと続く鉄扉を蹴り開ける。

「ん?」

 始末屋とアキモフ親子の三人が獄舎を後にしてみれば、刑務所の正門へと続く通路沿いの柱の陰にうずくまる、一匹の警察犬の姿が見て取れた。始末屋の手によって口吻を掴み取られ、無慈悲にも鼻を齧られて戦意を喪失した、あの雄のジャーマンシェパードである。

「!」

 天敵とでも呼ぶべき始末屋の影がこちらへと接近しつつある事を察したジャーマンシェパードは、尻尾を後ろ脚の間に挟んだままくうんくうんと情けない鳴き声を上げ、再び彼女の眼の届かない場所を探して刑務所の敷地内をうろうろと逃げ惑い始めた。如何にも立派な体躯を誇り、一見すると獰猛そうなジャーマンシェパードの憫然びんぜんたる姿に、始末屋は軽蔑とも侮蔑ともつかない冷めた眼を向ける。

「なあ始末屋、これは全部、キミがやったのか?」

 やがて刑務所の正門の門扉を強引に蹴り開けた始末屋に、その傍らに転がる頭部が真っ二つに叩き割られた歩哨の刑務官の無残な死体を指差しながら、ボリス・アキモフ博士が尋ねた。

「ああ、そうだ。ここに来るまでに転がっていた死体は全てあたしが殺したものだが、何か問題が?」

「問題と言うべきか何と言うべきか……私がここに囚われていると言うキミの判断は誤解だったのだから、何も殺す必要は無かったのでは?」

「貴様がそんな細かい事をいちいち気にする必要も無ければ、あたしも気にしない。それにたとえ誤解であろうとなかろうと、あたしに銃口を向けた時点で、こいつらの命運は尽きたも同然だ」

「……」

 その筋では名の知れた非合法組織『大隊ザ・バタリオン』に所属する執行人エグゼキューターの一人、つまり裏稼業のならず者である始末屋の本質を瞬時に悟ったボリス・アキモフ博士は賢明にも口を噤み、これ以上無為な追求を繰り返して時間を浪費したりはしない。

「よし、アキモフ博士もヴァルヴァラも、二人とも早く車に乗れ。ぐずぐずするな。迂闊にも『アーリアン・ドーン』の連中にこちらの動きを察知される前に、この場から急いで立ち去るぞ」

 そう言って乗車を促す始末屋に急かされながら、シェレメーチエヴォ国際空港の駐車場で拝借したSUV車の助手席にボリス・アキモフ博士が乗り込み、後部座席の中央ににヴァルヴァラが乗り込んだ。そして運転席に乗り込んだ始末屋がシートベルトを締めてからスタートボタンを押してエンジンを始動させ、アクセルペダルを踏み込めば、トヨタ社製のSUV車は高い塀と鉄条網に囲まれたウラジーミル中央刑務所を後にする。

「それで始末屋、この刑務所はもう安全ではないとキミは言っていたが、これから私達親子はどこに連れて行かれるんだい?」

 刑務所の正門前を走るペスチャナヤ通りを強引にUターンしてからロシア連邦道路M7へと進入し、ウラジーミル市から見て西の方角、つまりモスクワ目指して疾走するSUV車の車内でそう言って、ボリス・アキモフ博士が始末屋に尋ねた。

「取り敢えず、旅客機でもってモスクワからフォルモサへと移動する。そこでチ・ホアにかくまってもらった上で、あたしが『アーリアン・ドーン』を壊滅させれば、晴れて貴様らは自由の身となる筈だ」

「チ・ホア? それは、誰ですか?」

「彼女はあたしの古い友人だ。少しばかり人の道から外れたベトナム出身のフォルモサ市民だが、まあ、そこそこ信頼出来る」

 始末屋がそう言えば、ボリス・アキモフ博士は重ねて尋ねる。

「幾らあなたが強くても、あの『アーリアン・ドーン』を壊滅させるなどと言う事が、本当に出来るんでしょうか?」

「問題無い。それが貴様ら親子が末永く幸せに暮らせるようお膳立てすると言う依頼を達成する唯一の手段なら、あたしはそれを実行するまでであり、一度引き受けた依頼は何があろうと完遂するのがあたしのモットーだ。例外はあり得ない」

 疾走するトヨタ社製のSUV車の運転席でハンドルを握りながら、さも当然とでも言いたげな表情と口調でもって始末屋がそう言った。すると後部座席のヴァルヴァラがシートベルトを外して身を乗り出し、そんな始末屋を称賛する。

「ねえねえ、パパ、聞いて聞いて! 始末屋ってば、凄いの! すっごくすっごく強くて大きくて格好良くって、あたしやパパの事を、いつだって身を挺して守ってくれるんだもん!」

 後部座席から身を乗り出したヴァルヴァラが、父に再会出来たと言う事実と始末屋の活躍ぶりに興奮しながらそう言えば、そんな彼女の腹の虫が不意に大音量でもってぐうと鳴いた。

「なんだヴァルヴァラ、貴様、腹が減ったのか?」

 始末屋がそう言って問い掛けると、盛大に腹の虫を鳴らしてしまったヴァルヴァラは顔面を真っ赤に紅潮させながら、無言でうつむいて自らのはしたなさに恥じ入るばかりである。

「別に、貴様が恥ずかしがる事もあるまい。腹の虫が鳴ってしまうのは止めようの無い生理現象だし、貴様だけでなくあたしだって腹は減る。それとヴァルヴァラ、交通事故の際にフロントガラスを突き破って車外に放り出されて死にたくなければ、走行中はシートベルトを外すな」

 そう言った彼女の言葉に従い、ヴァルヴァラがシートベルトを締め直したのを確認すると、始末屋はウインカーを出してからハンドルを切ってロシア連邦道路M7沿いの一軒の店舗の駐車場へと進入した。

「あたしもそろそろ腹が減ったから、ここで飯にするぞ」

 ブレーキペダルを踏み込みながらそう言った始末屋がSUV車を停車させたのは、長時間の長距離移動を余儀無くされる運送業者やノマドと呼ばれる浮浪民を主な顧客層とするドライブインであり、その駐車場には多くのトラックやキャンピングカーなどが所狭しと停められている。

「いらっしゃい、お好きな席にどうぞ」

 ドライブインのレストランの店内へと足を踏み入れると、ロシア人にしては人当たりの良さそうな太った中年のウエイトレスがそう言って、始末屋とアキモフ親子の三人を出迎えた。

「肉が食いたい。何か、がっつり食える肉料理はあるか?」

 そこそこ広くて清潔で、アメリカのダイナーを意識したらしい造りの店内の窓際のテーブル席にどっかと腰を下ろした始末屋が開口一番そう言えば、太ったウエイトレスが彼女の要望に応える。

「それなら、ステーキが一番じゃないかしら? うちのお肉はプライムビーフ社の最高級品だから、とっても美味しいのよ?」

「だったらそのプライムビーフ社とやらの最高級の肉を、分厚い塊のまま2㎏ほど焼いて持って来てくれ。焼き加減はミディアムレアで、味付けは塩と胡椒、それに少量のバターとニンニクだけでいい」

「ええ、ええ、かしこまりました。ミディアムレアのステーキ2㎏を、味付けは塩胡椒とバターとニンニクだけね? あたし、あなたみたいに一杯食べる大きな女の人って、大好きよ?」

 健啖家である始末屋の豪快で大雑把な注文に、彼女が上客であると判断したらしい太ったウエイトレスはそう言って、やはり人当たりが良さそうに微笑んだ。そしてヴァルヴァラとボリス・アキモフ博士の二人もまたテーブルの上に置かれていたメニューを確認しつつ、それぞれの食べたい物を注文する。

「あたし、パスタが食べたい! お肉とトマトのパスタ!」

「そうだな、私はそれほどお腹が空いてはいないので、ハムか何かのサンドイッチでも貰えるかな?」

「奥様はステーキで、お嬢ちゃんはパスタで、旦那様はサンドイッチね? でしたらすぐにでも、うちのシェフが最高に美味しい料理をこしらえて来ちゃうから、ちょっとばかり待っててちょうだいな」

 そう言って注文を復唱し終えた太った中年のウエイトレスは、如何にも腹回りの贅肉が邪魔そうなえっちらおっちらとした覚束無い足取りでもって、レストランの厨房の方角へと歩み去った。すると始末屋の斜向かいの窓側の席に腰を下ろすヴァルヴァラがテーブルの上に身を乗り出し、その可愛らしい顔に悪戯っぽい笑みを浮かべながら、彼女に耳打ちする。

「ねえねえ、あのおばさんってば、あたしがお嬢ちゃんで、パパが旦那様で、始末屋が奥様だってさ! 肌の色も髪の色も全然似てないのに、あたしと始末屋が親子に見えたのかな?」

「別に、親子だからと言って、似ている必要もあるまい。世の中には血が繋がっていない親子も居れば、子連れの再婚や養子縁組だって決して珍しくないだろう。貴様は子供のくせに考え方が古いな、ヴァルヴァラ」

 しかしながら素っ気無くそう言った始末屋は、ヴァルヴァラの素朴な疑問を至極真っ当な理屈でもって否定するが、勿論彼女はそんな面白味の無い返答が聞きたかった訳ではない。

「うん、まあ、確かにそうかもしれないけどさ! もう!」

 どうやら始末屋の返答が意に沿わず、機嫌を損ねてしまったらしいヴァルヴァラは唇を尖らせながらそう言って、如何にもつまらなさそうに肩を竦めた。すると始末屋はそんなヴァルヴァラを一旦無視して、彼女の向かいの席に腰を下ろすボリス・アキモフ博士に改めて問い掛ける。

「それで、アキモフ博士。貴様が『アーリアン・ドーン』について知っている事を、洗いざらいあたしに教えろ。奴らの刺客を一匹捕らえて尋問したが、どうやら組織の根幹には関わっていない下っ端だったらしく、充分に有益な情報を聞き出すまでには至らなかったからな」

「私が『アーリアン・ドーン』について知っている事ですか……」

 革のジャンパーに身を包んだボリス・アキモフ博士はそう言って、ゆっくりと言葉を選びながら、訥々と語り始めた。

「端的に一言で言ってしまえば、奴ら『アーリアン・ドーン』は、新興のネオナチの一派です」

「ネオナチ?」

「ええ、そうです。第二次世界大戦で日独伊の枢軸国の最先鋒であったドイツの国家社会主義ドイツ労働者党、つまりナチスが連合国に敗北して解体されて以来、世界各地にその思想信条を継承する様々な組織が生まれては消えて行きました。そしてそれらの組織そのものや、継承されたナチ的なファシズムに準じたイデオロギーを、総じてネオナチと呼称します」

「いくらあたしだって、そのくらいの事は知っている。馬鹿にするな。あたしはその組織の構成と規模、それに貴様と貴様の娘であるヴァルヴァラを拉致しようとした理由を知りたい」

 歯に衣着せず、始末屋がそう言えば、ボリス・アキモフ博士は白髪が混じった顎鬚を撫で擦りながら語り続ける。

「いわゆるネオナチに分類されるべき組織は、世界中に数限りなく存在します。しかしながら、その大半が反ユダヤ主義を掲げるヨーロッパ系の白人集団を母体として成り立っているのに対し、件の『アーリアン・ドーン』は少々異質なのです。彼らは現在のインド北部に分布する古代アーリア人の末裔、つまりインド・アーリア人がその母体となり、世界はアーリア人によって支配されるべきだと言うアドルフ・ヒトラーとナチスの思想に深く傾倒しています」

「ああ、成程。確かにあたしが捕らえた奴らの刺客も、如何にもインド人らしい浅黒い肌の男だった」

 始末屋はそう言いながら、彼女が捕らえた『アーリアン・ドーン』の刺客の一人、つまりルドルフ・シュードラがインドのカラリパヤットの武具の一つであるウルミを操っていた件を思い返していた。

「そして、その『アーリアン・ドーン』を統率する最高指導者こそ、アドルフ・ブラフマンと名乗る男なのです」

「アドルフ・ブラフマン……聞いた事もない名だな。本名か?」

「いえ、確証はありませんが、まず間違い無く偽名でしょう。かつてナチスの総統であったアドルフ・ヒトラーにちなみ、また同時に自分が彼の正当な後継者である事を内外に誇示するための、ある種の名跡みょうせきの様なものだと考えられます」

「成程、名跡みょうせきか。それで、そのアドルフ・ブラフマンとやらが最高指導者を務める『アーリアン・ドーン』の目的は? 奴らは何故、貴様ら親子を拉致しようと試みた?」

 彼を指差しながらそう言った始末屋の問い掛けに、ボリス・アキモフ博士は深い溜息交じりに首を横に振る。

「甚だ残念ながら、その詳細はようとして知れません。しかしながら彼ら『アーリアン・ドーン』は人間の遺伝子を対象としたウイルスによるゲノム編集が技術的に可能かどうか、私の所属する大学と研究室に何度も何度も繰り返し問い合わせ、共同研究を持ち掛けて来ました。勿論ネオナチに協力する気はありませんから、それを固辞した事は言うまでもありません。そして遂に私が生きた人間のゲノム編集を可能とするレトロウイルスの開発に成功すると、彼らは培養されていたウイルス株と共に、その開発責任者である私の身柄をも奪取せんと試みたのです」

「ゲノム編集?」

「そうです、レトロウイルスによるゲノム編集です。まるで自惚うぬぼれているようで恐縮ですが、私はこう見えても、これらの分野ではそれなりに名の知れた世界的権威の一人ですからね」

 その言葉尻とは裏腹に、そう言ったボリス・アキモフ博士は自分がその道の権威である事が誇らしげな様子であった。

「ねえパパ、そんな怖い人達にしつこく追い掛け回されていて、この先あたしとパパは大丈夫なの?」

 すると誇らしげな父の様子に水を差すような格好でもって、二人の会話を黙って聞いていたヴァルヴァラがそう言って問い掛ければ、彼女の隣に座るボリス・アキモフ博士は首を横に振らざるを得ない。

「分からない。奴らが一体どこまで追って来るのか、どうすれば逃げ仰せられるのか、パパにも分からないんだ」

 如何にも現実主義者らしいボリス・アキモフ博士がそう言えば、そんな彼を始末屋がたしなめる。

「おい、アキモフ博士。貴様も人の親なら、たとえ嘘であっても「大丈夫」の一言くらい言ってやれ。それに貴様ら親子は、何があろうとあたしが必ず救い出し、末永く幸せに暮らせるようお膳立てしてやる。それが今は亡きアレクセイの依頼内容であり、一度引き受けた依頼は何があろうと完遂するのがあたしのモットーだ。例外はあり得ない」

「……」

 始末屋の正鵠を射た一言に、どうやら自らの発言が適切ではなかったと判断したらしいボリス・アキモフ博士は言葉を失い、肩を竦めながら背中を丸めて恥じ入るばかりであった。しかしながら始末屋はそんな彼の態度を意に介さず、一旦言葉を切ってから、先程までの『アーリアン・ドーン』に関する問答を改めて再開する。

「つまりインド・アーリア人からなる『アーリアン・ドーン』の連中は姑息にも、貴様が獲得したゲノム編集の技術とレトロウイルス欲しさに暗躍し、貴様と貴様の娘を拉致しようと試みたと言う訳か」

「ええ、まさにその通りです。職場である大学の研究室からの帰途に於いて拉致され掛けた私は身の危険を訴え、旧友であるロシア当局の実力者の伝手つてを頼り、ウラジーミル中央刑務所の独居房にかくまわれる事になりました。そしてヴァルヴァラの身柄は一時的にアレクセイに託し、行く行くは彼女の生まれ故郷であるサンクトペテルブルクの地で三人揃って落ち合うつもりだったのですが、そのアレクセイが殺されてしまうとは……」

 白髪混じりの胡麻塩頭の下のその顔に沈痛な面持ちを浮かべたボリス・アキモフ博士はそう言って、かぶりを振りながらアレクセイの死を悼むものの、始末屋の疑問は尽きない。

「インド・アーリア人を母体としたネオナチと、レトロウイルスによるゲノム編集。この二つに、何か関係が?」

 始末屋がそう言って小首を傾げれば、ボリス・アキモフ博士は重要なヒントとなり得る単語を口にする。

「参考になるかどうかは分かりませんが、彼らは一度だけ、うっかり口を滑らせて『アーリアナイズ・プロジェクト』と言う聞き慣れない単語を漏らした事があります。一体どこの誰を、アーリア人化ナイズすると言うのでしょうか?」

 ボリス・アキモフ博士もまたそう言って小首を傾げた、まさにその時だった。不意に屋根の向こうの遥か上空からばらばらと言う激しいエンジンの回転音と風切り音が耳に届いたかと思えば、その音が次第次第に大きくなりながら、何か大きな物体がこちらへと接近しつつある気配を始末屋らは感じ取る。

「ヴァルヴァラ、アキモフ博士、どうやらあたし達は、少しばかりのんびりし過ぎていたらしい」

 こちらへと接近しつつある大きな物体、つまり窓の向こうのドライブインの駐車場に着陸した二機の軍用ヘリコプターを視界に捉えた始末屋は、そう言って自分の愚かさを断じざるを得ない。

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