第9話 俺の額の傷のワケ

 衛生隊の腕章を腕につけて、安達たちの任務はますます忙しくなった。普通科連隊の演習や行軍、野営訓練についていき、怪我や急な体調不良に対応するようになった。また、ときに一般隊員に応急処置の指導も行う。

 これらの任務で何がいちばん大変かというと、彼らの訓練に衛生科の車両が並走できない場合は10キロだろうが、30キロだろうが、一緒に歩かなければならないということだ。しかも、その場で応急処置ができるように装備も背負ってである。

 大掛かりな訓練ともなると救護所を設置して、医官とそれらの対応にあたる。医官は主に、防衛医科大学校を卒業した幹部自衛官である。


 防衛省が保有する救急車アンビュランスや1トン半救急車、通称アンビはスポットに配置され、万が一に備えている。

 災害派遣などでも出動する高規格救急車である。正面、側面、後方に大きく赤十字が示され、回転赤色灯とサイレンも装備されている。搬送人数の多さと悪路でも走行できることが、消防庁が保有するものよりも優れていると言われている。


 安達はこの日、各駐屯地から隊が集合して行う野営訓練に同行していた。防衛省が管理している演習場で行うものである。

 実際の戦闘状況を想定して訓練は行われた。

 さまざまな部隊や小隊がそれぞれの任務を遂行するために各隊と連携しながら動くのだ。


 偵察小隊が前進し情報収集を行い、通信小隊が通信確保のために機材を担いで前進。その間も敵が潜んでいないから索敵活動が行われている。

 持ち込んだ車両や装備が敵から見つからないように偽装作業を行い、敵に撃破された車両の回収訓練、伏撃対処行動などそれはもう目まぐるしい。


 この日も計画通りに訓練は進んだ。まさに戦場にいる感覚を肌に叩き込むために、上官の目は鋭く光っていた。安達は持ち込んだ装備品を管理しながは、訓練を見守っていた。

 その時、無線が入る。


「こちら、偵察小隊。本部、応答願います。送れ」

「こちら本部。送れ」

「隊員一名が負傷。意識あり、歩行が困難。送れ」

「了解。看護官をそちらに送る。位置はどこか。送れ」


 安達は荷物を背負った。位置情報を確認したら、すぐに走れるように。


「了解。朽ちた木に足を取られたらしい。車両は途中までしか進入できない」

「分かりました」


 救急小隊と共に安達もアンビに乗り込んだ。車両は途中までしか進入できないので、数名でタンカで救出することになった。


「ここまでしか行けない。あとは頼んだぞ」

「了解っ」


 救護バッグを担いだ安達と、タンカを持った4名の衛生隊員は藪をかき分けながら要救護者の元へ前進した。急勾配な山肌を登ると、偵察小隊を発見。


「こちらです!」


 手を上げたのを確認してその方向へ進んだ。安達は怪我をした隊員が自力で座っていたのを確認し、安堵した。


(これなら処置をしたらすぐに搬送できるだろう)


 前日まで雨が降っていたため、足元はぬかるんでいる。まさに足元を滑らせる危険な場所であった。


「大丈夫ですか!」

「はい。左足がかなり痛みますが……」


 偵察用のバイクは勾配の下にあった。おそらく、バイクと倒木が接触し転倒したのであろう。他の隊員は無事であるとのことで、任務続行でその場を去った。


「出血確認……出血なし」


 無線でアンビで待機している医官に連絡をした。現場の状況と隊員の状態を伝えると、医官から指示が帰ってきた。


「骨折の可能性もありますので足を固定します。それが終わったらアンビに運びます」

「はい。すみせん」


 安達が応急処置をしている間、それを補助する者と周囲の警戒をする者に別れた。例えここが安全な日本の土地で訓練だとしても、何が起こるかは分からないのだ。野生動物に遭遇することもあれば、突然の崩落、落石も考えられるのだから。


「よし、これで大丈夫」


 その時だった。


「危ない! 倒れるぞ!」


 安達の耳に仲間の叫び声と、黒い影が頭上にあることに気づいた。


(危ない!)


 大きな何かが走るような音と何かが破れて引き裂けるような音が、湿気を含んで安達たちを襲ってきた。


「逃げろー!」

「おい! 大丈夫かー! 応援要請しろー!」


 昼間なのに、世界が暗転した。




 ◇



 自衛隊病院の一室で、2名の現役隊員が仲良く並んでベッドに横たわる。一人は左脛骨けいこつの骨折全治二ヶ月、もう一人は額が切創せっそうして全治二週間。


「巻き込んでしまい申し訳ありませんでした」

「いや。あれは仕方のないことでしょう。予測するのは困難でした。それに、我々の落ち度もあります。素早く安全な場所に移動すべきでした」

「それをいうなら我々も同じです。強引に前進すべきではなかったです」

「お互い体を張って学んだということでしょうな」

「ですね」


 骨折をしたのは救護要請を受けて救出した偵察小隊所属の真鍋二曹。額に傷を負ったのは救護に当たっていた安達である。

 安達が真鍋の応急処置を済ませ、運び出そうとした時にすぐ側にあった木が倒れてきたのだ。その木は腐っており長雨にあたったのも原因で、根っこからボッキリと折れてしまったのだ。その木が安達と真鍋の上に倒れてきた。安達は咄嗟に出した腕で避けたものの、折れた木の破片が運悪く跳ね上がり、安達の額に当たった。

 幸い腐っていたため、中身はスカスカで重みはそれほどなかったため大事には至らなかったのだ。


「それにしても安達三曹。あなた強靭な人ですよね。俺、こんな風に助けられるなんて思ってもみませんでしたよ。いやぁ、小隊長の顔が忘れられません」

「どんな顔をしていたんです? なんせ血が吹き出して前が見えなかったもので」

「それでよく俺を背負って帰りましたね……」


 ある意味、伝説になるかもしれない光景であった。

 衛生隊員が「危ない」と叫んだ時はすでに遅く、安達と真鍋の上に木が倒れた。もうだめだと全員が覚悟した時、安達は真鍋を片手で支えたままもう片方の腕で受け止めて朽ちた木を粉砕した。

 しかし無傷ではいられなかったのだ。


『大丈夫か!』


 と隊員が聞くと「大丈夫だ」と振り返った安達の顔を見て隊員は「ひっ」と息を呑んだ。破片が安達の顔に直撃したのだろう。額から血が流れていた。損傷した場所が場所なだけに出血に勢いがあり、顔半分が血だらけだった。


『おい! 止血しろ! サラシを出せ!』


 安達自身も仲間に応急処置を施されるもなかなか血は止まらない。ぐるぐるに巻かれた包帯がみるみる赤く染まっていく。

 それはもう言葉には言い表せないほどの迫力であった。

 倒木のせいで持ってきたタンカは泥まみれで破損。どうしたものかと無線で指示を仰いでいるときに安達は立ち上がった。


『急いで戻りましょう』

『え、ええっ』


 安達は骨折した真鍋を背負い、ぬかるんだ山道をずんずん歩いて降りていく。その足取りはしっかりしたもので、むしろ安達を補助しながら歩く他の隊員の方がおぼつかなかった。

 医官が待つ救急車アンビに辿り着いたときの彼らの表情といったら。目を剥いて口をあんぐりと開けて全員がほんの一瞬フリーズしたのだから。


「真鍋二曹は軽かったですよ。もう少し体重を増やした方がいいかもしれませんね」

「安達三曹、あなたには敵いませんよ。本当に頭が上がりません。こいつが治ったら飯でも奢らせてください」

「気になさらずに。これが私の仕事ですから」


 ここは戦場か⁉︎

 誰しもがそう錯覚しそうになる光景だった。救助に向かった衛生隊員が、泥にまみれてボロボロになって帰ってきた。しかも一人は顔から血を流している。その血塗れの隊員が、要救護者を背負っていたのだ。


「しかし、顔の傷。一生残るかもしれませんよ。俺、それだけが申し訳なくて」

「ああ傷痕ですか。男ですからこれくらいなんの影響もありませんよ。大丈夫です」

「いや、彼女さんがそれ見たりしたら……」

「あ……」

「うわぁっ。いらっしゃったんですよね! すみせん! ほんとどうしようかな俺! イデデデ……」


 自衛隊に入った時から怪我は想定内であった。保険にもしっかりと加入しているし、問題はない。しかし、想定外のことがあった。

 そう、若菜のことだ。


「まあ、大丈夫ですよ……たぶん」


 ただでさえ顔が怖いと言われてきたのに、よりによってその顔に縫合した痕をつけてしまうなんて。しかもしばらくは傷痕が引き攣って、余計に怖い顔になるかもしれない。


(さすがにこれでは、若菜さんも……)


 包帯が取れた時、鏡に映る自分の顔はどうなっているだろうか。その顔を見た時、若菜はどんな反応をし何を言うだろうか。

 それだけは全く予測できない緊急事態であった。


 ベッドの横にあるチェストの上に、携帯電話が置いてある。


(二週間だしな。とりあえず退院してから考えるとしよう。この傷もその頃には少しはマシになっているだろう)



 ◇◇



「若菜さん? 四季の叔母の京子です。ええ、元気ですよ。ありがとう。ところで若菜さん、お知らせがあるの。落ち着いて聞いてね……」

「えっ! 分かりました。ご連絡ありがとうございます!」



 まさか叔母の京子が若菜に知らせているということを安達は知るよしもなく、大人しくベッドで目を瞑る。


 のんびり構えた安達に予期せぬ事態が降りかかる⁉︎ 血相を変えて若菜がやってくるまであと24時間。

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