番外編 青き日々
第17話 大好き
「四季さん! お帰りなさい!」
「若菜さん、ただいま戻りました」
3ヶ月にも及ぶレンジャー訓練が終わり、無事に安達は銀色に光るレンジャー徽章を手に入れた。途中、意識を失いそうになりかけたり、死ぬかもしれないと諦めかけたこともあった。その度に安達の心を奮い立たせたのは脳裏に浮かぶ若菜の笑顔だった。
安達の中にいる若菜はいつだって笑っている。春の日差しのように柔らかい笑顔で、傷ついた身体を包み込んでくれるようだった。
あの笑顔を守りたい。
己の帰る場所はあそこしかない。
帰りたい。
若菜の隣へ。
背負った背嚢は雨に濡れて40キロ以上の重さになっている。立ち止まったら終わりだ。倒れたらもう二度と立ち上がることはできない。同僚たちもかなり辛いのだろう。腰の曲がった年寄りのように地面を睨みながら脚だけを動かしている状態だ。
その脚を動かしているのは、駐屯地で待つ自分たちの部隊が知らせるゴールはもうすぐだというけたたましい爆竹音であった。手を叩きながら、声を張り上げながら、部隊旗を振りながら「がんばれ!」「あと少しだ!」と背中を押した。
そこでようやく頭を上げた。
これまで指導してくてた助教や家族の出迎えがそこに見える。
その中に若菜もいたのだ。幻覚ではない、あの笑顔が手を広げて安達に向かって走ってきた。
「四季さん、よかった。無事に帰ってきてくれてありがとう。うわぁぁん……」
「わっ、若菜さん!」
土と雨と汗とで安達の身なりは最悪だった。顔面偽装のドーランも今どんなふうになっているかもわからない。自分は麻痺しているが、確実に臭いはずだ。それなのに若菜は躊躇することなく、安達の胸に飛び込んできた。そして、わんわんと声を上げて泣いているではないか。
「泣いているのか⁉︎ 若菜さん」
「ごめんなさいっ。笑顔で待つって決めていたのに……四季さん見たら笑えなくて。こんな、にっ……ううっ。ぼろぼろで……」
「ごめん。ぼろぼろな上に、かなり臭い……たぶん」
「えっ? もう! こんな時になにいってるのよ」
「でも、臭いだろ」
「ふっ、ふふふ」
若菜が笑った。
目から沢山の涙をこぼしながら、柔らかい笑顔を安達に見せた。
安達は思った。
この笑顔を見たくて、この3ヶ月あまりを耐え抜いたのだと。
安達は右手を戦闘服に押しつけてゴシゴシ擦った。そして、汚れていないか指の腹を目で確かめてから若菜の頬へそれを伸ばした。
それはもう恐る恐るである。嫌がられるかもしれないという不安と、ようやくその頬に触れられる資格を得たという自信が入り混ざった感情だ。
「若菜さん」
安達の4本の指先が震えながら若菜の頬に触れた。若菜は少し上を向いて、そっと目を瞑った。
(ああ……)
言葉にならなかった。
柔らかいものと思っていた若菜のほっぺは、安達の思う柔らかいとは違っていた。張りがありどちらかと言えば硬いほっぺに、プリンでもないパンナコッタでもない例え用のない弾力がある。
それは男のものとはまるで違う。
「四季さん」
「は、はい」
「やっと触ってくれましたね」
「あっ! すみません。俺の手、汚かった」
安達は我にかえり慌てて若菜の頬から指を離した。すると若菜が安達の手を追いかけてしっかりと掴んだ。そして、にっこりと微笑んだ。
「四季さん。言ってくれません? プロポーズ」
「わ! 若菜さん!」
「お利口さんにして待っていたんですわたし」
まさかの若菜からプロポーズを催促されてしまう。微笑む若菜の瞳は笑っていなかった。安達はいつも若菜を気遣い、自分の欲求を押し殺していた。もしかしたら自衛官だからという立場がそうさせていたのかもしれない。それを若菜は見抜いていた。だからいつも、若菜から安達のその抑圧された壁を突破するのだ。
「わたしに、プレゼントをください。あなたは自分のことを汚れているとかいうけれど、それは違います。わたしにとってその汚れは、わたしたちを守ってくれる盾に見えます。だけど、そのお仕事が終わったらわたしだけのものになってください。わたし、わがままなんです」
いつの間にか周りの騒めきが消えていた。そこにはまるで、安達と若菜の二人しかいないのではないかと思えるほど静かである。
安達はこんなに自分のことを理解してくれる人は他にいないと思った。家族にだって敵わないと。
(もう、大丈夫だ。今の俺なら、絶対に彼女のことも守ることができる)
安達は深呼吸をした。そして、若菜の前に跪いた。
「若菜さん。俺と、結婚してください!」
「四季さん! 喜んで!」
その時、静かだった周囲が一気に湧いた。
「「「よっしゃー! 安達ぃぃ!」」」
「「「おめでとーう!!!」」」
静かだったのは、みんなが安達と若菜の行方を固唾を飲んで見守っていたからだった。しかし、その歓声に驚いた安達は背負った荷物が前に滑ってしまい地面に突っ伏した状態だ。
見た目は完璧なる土下座であった。
体力は底をつき、自力ではもう頭を上げられない。
「四季さん? もう顔を上げて? 四季さん?」
「若菜さん。すまないこの状態で。君の答えが聞こえなかった。俺のプロポーズは」
「四季さん! 大好き。わたしはあなたのお嫁さんになります!」
「ありがとう」
このあと仲間に荷物をおろされて、ようやく安達の肩の荷は全て降りた気がした。
しばらくは土下座プロポーズという不甲斐ない言葉が隊内を歩き回ったが、安達は嬉しそうに笑っていた。
◇
「ねえ、四季さん。このソファーどう思います?」
「うん? 君が気に入ったのならそれでいいよ」
「冷蔵庫なんですけど」
「君が使いやすいものを買おう」
「洗濯機は」
「君はどれがいいの?」
とうとう駐屯地から出る安達は、若菜との新居の家具や家電を選び始める。新居は駐屯地からすぐの官舎である。
「四季さんのこだわりはないんですか?」
「僕のこだわりは若菜さんの生活のしやすさだよ」
「そんなのつまんないじゃないですか……じゃあ、四季さん。この食器棚はどうです?」
「そうだな。これは少し高さがありすぎるんじゃないのかな。いちばん上は君には届かないと思う。場所をとってもいいから、脚立のいらない高さにしたほうがいい」
「だったら、四季さんに取ってもらいます。この食器棚、この間取りにぴったりなんですもの。だめですか?」
安達は若菜の首を傾げる可愛らしい仕草に思わずそれにしようと言いそうになる。しかし、そこはグッと堪えて首を横に振った。
なんでもいい。君の好きなものを、君の使いやすいものをと言いながら、この食器棚は譲れなかった。
「あら、もしかしてこれが四季さんのこだわりかしら?」
眉を上げながら、若菜は安達に問いかける。すると安達は大きく首を縦に振った。
「俺のこだわりと言えばそうかもしれないな。もちろん俺は家のこと全部を若菜さんに押し付けるつもりはない。手伝えることはするし、高いところの物だってとってあげるさ。でもね、若菜さん。いつも俺が君のそばにいるとは限らないんだ。分かってもらえるかな」
安達はいつだって若菜のそばにいたいし、なんだって手伝いたい。若菜がしてということは全て答えたいと思っている。気持ちの上ではだ。
しかし、どんなに安達自身が思っていても叶わないことがある。それは一般のサラリーマンよりも難しいだろう。
「自衛官はね、いつどんな時に呼び出されるか分からないんだ。それを断ることはできない。大事な家族を置いて俺たちは出動する。それはいつも突然だし、いつ終わるのかも分からない。任務の内容も行き先も告げることができない。つまり、若菜さんをひとりぼっちにしてしまう時間が長くなるかもしれないということだ」
「四季さん。そのことは、わたしなりに覚悟しています」
「うん。ありがとう。だからこそ、若菜さんが一人でも生活に支障がないように家を整えたいんだ。俺がいなくても食器が取れる。俺がいなくてもメンテナンスができる。俺がいなくても」
「四季さん!」
若菜は安達にそれ以上は言わせないように抱きついた。安達の気持ちが痛いほど若菜の胸を貫いたのだ。本人の口から俺がいなくてもを言わせてしまったことに、若菜は苦しくなった。
「ごめんなさい。わたしが自分で気づくべきだったわ。四季さんにそんなこと言わせるなんてまだまだダメね」
「違うよ若菜さん。君はいつだって俺のことを想ってくれている」
「いいえ。わたしは自衛官の妻になるんですもの。もっとお勉強しないと」
「すまない。本当ならこんな心づもりなんて、させたくないんだ」
「四季さん」
「うん」
「大好きですよ」
「若菜……俺も、大好きだ」
安達がそういうと、若菜がパアッと明るく笑った。その笑顔の眩しさに安達はつい目を細める。
「四季さんが、若菜って! 初めてよ! 嬉しいっ」
「ああ、それはっ。その」
「ずっとその呼び方でお願いします!」
「はい」
こうして萌木若菜は、安達若菜へと前進したのだ。
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