第16話 ノスタルジーな風に吹かれて

「ただい」

「おかえりなさい! お疲れ様でした。どうでしたか。新しい子たちは」

「うん。いつも通りにやってくれたよ」


 ただいまを今日も最後まで言わせてもらえなかったが、それが安達家の日常だった。若菜はだいたい安達が帰宅する頃には家におり家事をしている。どんな時も機嫌良く迎えてくれる。

 春の霞んだ日も、茹だるような夏の日も、清々しい秋の日も、痺れるような寒い冬の日も、若菜はいつも変わらない笑顔で「おかえりなさい」を言ってくれる。


 反抗期の息子や娘たちが仏頂面でいたって、同じだった。安達のいういつも通りを家庭内でも貫いてくれた。ただでさえ学校や子どものことは任せきりで、急な出張や演習、派遣で家を空ける。いつから行くとかいつ帰るとか、どこで何をするのかも言わずに出て行く安達を子どもたちは不満がった。週末の予定もドタキャンすることもあったからだ。

 そんな安達と子どもたちの間に立ち、いつも何でもないように不穏な空気を蹴散らす若菜に感謝以外なにがあろうか。


「ねえ、四季さん。今日のお弁当どうでした?」

「とてもおいしかったよ。あ、今日は東二佐と一緒に食べたんだが、同じおかずが入っていたよ」

「東さん、なんて?」

「若菜さんのおかげで、ひよりさんの料理の腕が上がってるそうだ。母親みたいに頼っていて申し訳ないとも」

「あら、嬉しい! ひよりさんは素直だから教えがいあるの。上達も早いのよ〜。今度ね、お菓子も作るの。東さんに負けないくらいうーんと、オシャレなやつを」

「きみも楽しそうで何よりだ」

「楽しいわ。あなたのおかげよ。ありがとうございます」

「俺はなにもしていない。子どもたちのことも全部きみがしてくれて、感謝するのは俺のほうだ」

「まあ! そんなに褒めてくれるなら、食後にデザートつけないと」

「今日はなにかな?」

「ふふ。じゃーん」

「うん? エッグタルトか!」

「昔流行ったわよね。また最近売られ始めたの」

「ああ、懐かしいな。いつも売り切れで、もう自分で作るわって珍しく怒ってたな」

「あははは」


 時代は巡るのだろうか。

 若い頃に流行ったエッグタルトやタピオカミルクティーがまた街に現れ始めた。日本の流行スピードは早く、あっという間に熱したかとも思うともう忘れられた存在になっていく。それと同時に新しいものが次から次へと生まれ、脳内アップデートが忙しい。


「お母さーん。いる? ただいまー」

「凛花か。今日はこっちに泊まりか?」

「そうなの。明日、うちの近くの病院で研修なんだって。だから泊まるらしいわ」

「こりゃ賑やかだな。おい、エッグタルトが危ない。先にひとついただくよ」

「え? ああ。急がないと。四季さんがんば」


「あれ、お父さんもいたの?」と娘から言われ、安達は冷蔵庫の前に立つ娘の横にたった。取られてなるかと目的のエッグタルトを一つ取り出し口に押し込んだ。どうだと得意げな父に娘は不敵な笑みを浮かべた。


「へっへーん。ほら、これ」

「むむっ。それは、まさか……」

「鈴鳴り最中。粒とこしのふた種類……渋めの緑茶によく合う代物。参ったか!」

「くっ……参りました」

「やったー! お母さーん。お父さんに勝ったぁ」


 両親の影響で娘も甘味に目がない。若いだけあっていいアンテナを持っている。


「あら美味しそう。食後にいただきましょうね。あら四季さん、ここにカスタードついてる。子どもじゃないんだから」


 娘の凛花にとられまいと口に押し込んだエッグタルトから、はみ出したカスタードが安達の口の端についていた。それを若菜がティッシュで拭う。


「はー、この二人。いつもラブラブで困っちゃう。わたしおじゃま虫みたい」

「あら、凛花。あなたも早く、お父さんみたいな男性を見つけなさい。毎日が楽しいわよ」

「お父さんみたいな人……どこにもいないわよ。先にお風呂いただきまーす」

「ちょっとお父さんが先よ」

「後からで大丈夫だ。帰る前に一浴びしてきた」

「そうなの?」


 安達の言う一浴びはシャワーを浴びてきたという意味ではない。隊舎の外にある水道の蛇口にホースを繋いで、頭からジャバジャバかぶったにすぎない。

 夏もこの分厚い戦闘服に半長靴と呼ばれるブーツ、それに装備品を装着したは暑いじゃすまない。だからみんな、休憩時には熱中症防止に水をかぶるのだ。


「忘れていた。明日休みになった」

「あら! よかったわね。ずっと忙しそうだったから心配していたの。のんびりしてね」

「若菜さん、なにか予定は」

「とくに無いですよ。どうかしました?」

「そうであれば、その」


 安達は言いにくいことなのか、頭をかいたり顔を撫でてみたりとなかなか続きを発しない。若菜は首を傾げて安達の顔を下から見上げた。


(四季さんたら、照れてるわ)


 若菜は安達を急かしたりしない。にっこり笑みを浮かべてその先の言葉を待っている。すると、ようやく決心がついたのか安達が口を開いた。


「明日、お茶をしませんか。若菜さん」


 何かと思えば、あらたまって言ったのはそんな言葉だった。しかし若菜はパァーッと顔を輝かせて安達の腕にしがみついた。


「もちろんですよ。デートですね! 嬉しい」


 久しぶりに安達から若菜を誘った。退官の日が近いと感じたら、どうしても若菜とデートをしたくなったのだ。まだ二年あると言われるが、もう二年しかない。自衛官人生のほとんどを若菜が支えてくれた。少しずつ二人の時間を増やして、あの頃のように過ごしたい。


 明日は二人が出会った古民家カフェに行こうと決めていた。

 まだ、若菜には内緒だ。




 ◇



「今日は車じゃないんですね」

「うん。たまにはいいかなと思ってね。暑かったか?」

「いいえ。あなたこそ日傘に入らなくていいんでますか?」

「こんなに色黒で日傘に入っちゃ、日傘の営業妨害になるだろう」

「あははは。四季さんったら笑わせないで」


 夫婦生活が長くなればだんだんと距離が離れて、自分の時間が欲しくなったり、すこし相手が疎ましく思えたり、会話が減ったり、だからといって嫌いではないという状態になりがちだ。互いに元気で留守がいいという夫婦は少なくない。しかし、安達たちは違った。子どもたちが家を出てからは特に距離は近く、互いを労い、いるべき場所にいないと心配になるほどだった。

 若菜にとって自衛官である夫はいつも遠い場所にいた。家から職場が近くても、何をしているのか分からない。重要なことになるとなおさら話してはもらえない。いつ出張で、いつになったら帰ってくるのか分からない。そこは安全な場所なのかさえも聞けない。

 夫を見送るときはいつも小さな不安が若菜を襲うのだ。


「今日はどこに行くんです?」

「君もよく知っているお店だよ。ちゃんと今も営業していたよ」

「そんなに古いお店なんですか? どこかしら」

「着くまで内緒だ」

「はい」


 どちらからともなく手を繋いだ。

 年齢を重ねて少し膨よかになった若菜と、顔に傷のある大きな中年男の雰囲気は悪くない。若菜が安達を見上げてにこにこ楽しそうに話をすものだから、すれ違う人たちはつい二人に注目してしまう。

 そして、頬を緩めるのだ。

 若菜を見下ろす安達があまりにも優しい顔をしているから。


「若菜さん」

「はい」

「ここで、お茶をしませんか? もうあの時のメニューはないかもしれないけれど」

「まあ! 四季さん。ここはあの時の?」

「初めて出会ったカフェが名前を変えてそのまま残っていたんだよ」

「嬉しい……あなたと出会った大切な場所、なくなってなかったのね」

「入ろうか」


 若菜は俯いて静かに日傘を閉じた。その横顔に安達はドキリとした。


(あの日の若菜が、そこにいる……)


 そのとき背中から、秋を匂わせる風が吹いた。若菜のスカートの裾をいたずらに揺らして、古民家カフェの軒下を通っていった。懐かしい匂いと、ほんの少しの切ない気持ちをノスタルジーというのなら、二人の間にそれだけの時間が流れたということだ。


 ―― チリリリン


 ドアを開けるとガラスの風鈴が鳴った。


(あの時の風鈴は陶器だったが、ガラスもいいもんだな)


「見て、四季さん。スペシャルセットですって。またこれにしません?」

「うん、そうしよう」


 店に入ると若い女性店員が爽やかな笑顔で迎えてくれる。カウンター席も四人掛け席も空いているのに、彼女は二人を奥の個室へと案内をした。

 靴を脱いで上がる畳の部屋にはあの時と同じ窓があってまた胸の奥が切なくなった。


「お決まりでしょうか」

「スペシャルセットを二つお願いできます? 実はこのお店、ずいぶん昔になるけれど来たことがあるの」

「そうなんですね! 実は祖母の持ち物で、わたしが引き継いだんです」

「そうなのね。何にも変わってなくて嬉しいわ」

「こちらこそありがとうございます。では、スペシャルセットをお二つですね。少々お待ちください」


 若菜はテーブルに腰を下ろすと、懐かしそうな面持ちであたりを見渡した。そんな若菜の顔を見ながら、安達も部屋をもう一度見る。着せられたように不恰好なビジネススーツに、小説から飛び出したようなお嬢さんとのお見合いが、映画の回想のように思い出された。

 全てがここから始まった。

 珍しく若菜も安達も無言で、店員が来るまでそれぞれの想いに浸っていた。





「お待たせしました。スペシャルセットでございます」


 二人の前に置かれたスペシャルセット。若菜はそれを見て「まあ!」と声を上げて、すぐに手で口元を覆った。安達にはその理由がすぐにわかった。店主はおばあさんの店を継いだだけでなく、スペシャルセットの内容もそのまま受け継いでいたのだ。

 入り口で見た時は真新しいメニューばかりだったのに。


「四季さん……同じ」

「うん。同じだ」


 いつも笑顔の若菜の目から涙がポロポロと溢れでて、とうとう両手で顔を隠してしまった。安達はおしぼりの袋を破り広げて、若菜の手首を優しく掴んだ。


「せっかくの可愛い顔が台無しだぞ」

「もう可愛くなんか」

「可愛いぞ。若菜さんは、あの日からずっと可愛いかった。ほっぺなんて、まだまだプルプルだろ?」

「もうやだぁ」


 若菜を泣き止ませるはずが余計に泣かせてしまう。

 でも、年をを重ねた安達は慌てたりしたない。悲しい涙ではないことを知っているから。


(ずっと、いつまでも若菜さんは若菜さんだ)


「お茶にしましょう。若菜さん?」

「はい」

「さあ、涙を拭いて」

「四季さん?」

「うん?」

「かっこいいですよ。四季さんは出会ったあの日から、ずっと。ううん。あの頃よりもずっとかっこいいです。その顔の傷も込み込みです。わたし好みの傷痕です」

「くっ……」


 いつだって若菜の言葉に胸が高鳴り、若菜の笑顔に心が凪いでいく。

 茹で蛸になりながら食べたスペシャルセットは、あの時と同じ懐かしい味がした。




【本編 終わり】

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