第11話 それは傷に響くほどの衝撃で

 周囲が物音ひとつたてないのでカーテンを引く手も気をつかう。もしかしたら部屋には誰もいないのではないか。それくらい気配がしないのだ。

 カーテンレールが静かに滑ってベッドがあらわになった。安達の右目に飛び込んできたのは深緑色の制服、肩にはやんごとなき飾りがあった。それを見てすぐに上官であることに気がつく。

 安達は慌てて姿勢を正した。


「安達四季三等陸曹、ただいま戻りました!」

「ああ、安達くん? ご苦労さま」


 そのにいたのは方面隊の連隊長を務める近藤一等陸佐であった。左目は厚手のガーゼのせいで視野が狭かったが、気づくことができてよかったとひとまず安堵した。

 おそらく今回の集合訓練の責任者でもある近藤連隊長が、怪我をした隊員たちを見舞っているのだろう。安達はそう理解した。


「わざわざ申し訳ありません。この通り、怪我も大したことありませんのでしたので本日退院いたします!」

「おお、それはよかった。間に合った、間に合った」

「間に合った、のですか?」


 ほぼ初対面の近藤連隊長は連隊長らしからぬ優しい笑みで頷いた。安達の頭の中は疑問符でいっぱいだった。連隊長が言わんとすることを理解しようと頑張っているのだが、さっぱり分からない。


「分からないよね。それから、左目は見えているのかな? ああ、視界が遮られているのか。なるほどなるほど。これは、面白い」

「れ、連隊長。あの?」


 連隊長の口角が怪しげに上がったかと思うと、耳を疑うような言葉を発した。


「きみ、今日と明日は駐屯地には入れないよ。土日はね、訓練後の休養日になっている」

「わたしは帰れないのですか。それは困りました。実家に連絡をしなければ」

「だがしかし心配は無用。こちらのお嬢さんが安達くんを預かってくれるそうだ。よかったなぁ。ぐははは」

「お嬢さんって……」


 近藤は顔を安達から見た左側に向けた。そして、眉をぐっと上げて得意そうにどうだという顔をして見せるのだ。

 安達はつられるがまま、顔を左側に向ける。ガーゼで半分隠れた視界をカバーするように右目もしっかりと向けた。

 なんとそこにはもう一人いたのだ。しかもどう見ても自衛官でもなく、看護師でもなく、でも見覚えのあるこじんまりとしたあの可愛いらしい姿。

 困ったように眉を八の字に下げた萌木若菜が座っていた。


「なっ……あ……わ……」


 安達は驚きすぎたのか単語にすらならない声を発してしまう。それを見た連隊長はさらに声を出して笑うのだ。


「わっ……わかなさん!!!!」


 ようやく出た言葉である。


「さて、安達三曹」

「はっ!」

「いま言ったように駐屯地に戻ることはできない。退院手続きを済ませたのだから病院は出なければならない。分かるね?」

「はい」

「大人しく萌木さんのお世話になりなさい。これは、連隊長命令だ。ではわたしはこれで失礼する」


 近藤はとんでもない命令を安達に下して椅子から立ち上がった。なぜか連隊長の右手には、萌木醤油店の紙袋が握られているが今はそれどころではない。

 安達は反射的に最敬礼で近藤の背中を見送った。


(若菜さんの、実家の醤油……)


 それはさておき、安達は連隊長が去ったというのに下げた頭をなかなか上げられない。なぜならば安達の後ろには若菜がいるからだ。先ほどは驚いて名前を叫んでしまったが、あらためて彼女の存在を確認すると、どんな顔をしたらよいのか分からなくなっていた。


(こんな顔を若菜さんに見せるとは……恐ろしくて顔を強張らせていたじゃないか。なんということだ)


「四季、さん?」

「はい」

「こちらを向いてくれないのですか?」

「いや、その。恐ろしいでしょう、こんな顔では」


 安達は若菜に背中を向けたまま返事をした。

 安達以外の5つのベッドは変わらずカーテンが引かれていて、静かなままだ。


「四季さん。そんなこと言わないで。わたしは誇らしいんですよ。怪我をしても自分の任務をやり遂げたんですもの。もちろん怖いですよ。でも、その顔が怖いんじゃないです。あなたが死んじゃったらどうしようって。それがいちばん怖いです!」


 若菜は少し声をあげて、安達の手を後ろから握りしめた。安達よりは遥かに柔らかくて小さい、それでいてとても温かい手が絶対に離さないと強く握ってくる。

 恐る恐る肩越しに若菜を見た。若菜は俯いたままで、その表情は見えない。


「若菜さん」

「……」

「若菜さん?」

「……」


 若菜は返事をしなかった。その代わりに、握りしめられた手にぽたりと雫が落ちてくる。

 若菜が泣いている!

 安達はそう思った。だからすぐに振り返って床に膝をついて若菜の顔を覗き込んだ。


「若菜さん、泣いているのですか」

「泣いてなんかっ……」


 安達の視線から逃げるように若菜は上を向いた。でも、見えてしまった。その頬にキラリと光る一本の筋を。


「ああ、なんてことだ。俺は本当にダメな男だな。こんなに可愛い人を泣かせるなんて」

「だから、泣いていません」

「若菜さん、俺は簡単に死にませんよ。俺が死んだら救護された隊員がかわいそうだ。それに、あなたがくれたお醤油でバニラアイスが食べられなくなる」


 気の利いた言葉が思いつかない。もっと真っ直ぐに若菜がいるから死ねないと言えばよかっただろうか。しかし、その言葉はやはり彼女には重いのではないか。自衛官は国民のためにこそ存在し、命をかけて職務を全うするものである。家族や彼女は二の次になってしまうから。そんな要らぬことを考えてしまうのだ。


「もう、四季さんてバカなんだから」

「はい。根っからの自衛官なもので」

「真面目で、誠実で、純粋で、それでいて甘いものが大好きな自衛官だなんて。もう、どうしたらいいんでしょうね」

「すみません」


 若菜は握った安達の手を持て余したかのように、指の一本一本を順に触れていった。どの指も太いし皮が厚くて、カサカサしている。手のひらも分厚くて、所々にマメの痕がある。

 この手が私たちを守ってくれる。でも、私だけのものにはならないというもどかしさが若菜の胸を締め付けた。


「ごめんなさい」

「え?」

「わたし、国民のために働く自衛官を独り占めしたいって思ってるの。安達四季三等陸曹さん、あなたのことです」


 安達は若菜の告白に心臓が跳ね上がるような感覚に陥った。急にたくさんの酸素が送られて、血が体中を駆け巡り、急激に体温が上がっていく。額の傷がドクドクと疼くほど、胸のドキドキが止まらなくなっていた。


(若菜さんが、俺を……そんなに!)


 安達は確かに若菜に好意を持ってた。お見合いの流れでこうやって交流を続けられてラッキーだと思っている。けれどその想いは一方通行だとどこかで思っていた。いつか、この交流がなくなるかもしれないという覚悟も頭の隅にあったのだ。



 ◇



 安達は一生懸命に冷静になろうとしていた。若菜のあなたを独り占めしたいという気持ちは驚き以外のなにものでもなかった。こんな得体の知れないずうたいばかりが大きな男を、上品で可愛らしいお嬢さんが求めてくるなんてまさに青天の霹靂だ。

 そして何よりも気になるのは連隊長だ。どうして一端の自衛官のために病院までやって来たのか。そして、明らかに手土産らしき袋を下げて帰った。まさか袖の下で動くような組織ではあるまい。民間人からの寄付や土産は受け取らないことになっている。

 だがしかし、確かに連隊長の近藤は萌木醤油店の紙袋を提げていた。


 ドキドキとザワザワが安達の身体を襲う。


「若菜さん。どうしてあなたは俺を? 叔母の京子が無理にお願いしたんですよね。俺が怪我をしたこともたぶん」

「確かに叔母さまから怪我のことは聞きました。でも、お見合いは違うんです」

「違う、とは」

「わたしからお願いしたんです。どうしても四季さんとお見合いがしたいって」

「ええ! イデデ……」

「大丈夫ですか? とりあえずベッドに」


 傷に響くほどの驚きだった。安達は少し興奮しすぎたのかもしれない。


「いや、ちょっと信じられなくて。なんで俺のことを知っていたんですか。俺は高校を卒業してからほぼ駐屯地の中でしたよ」

「それは……」


 若菜は恥ずかしそうに俯いた。さっきまで泣いていたのに、今は頬が赤くなっている。


「では、お話しますね」

「はい」

「驚かないでくださいね」

「はい」


 若菜は安達に何を話そうとしているのだろうか。

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