第7話 パンナコッタと彼女のほっぺ
片手だけを持て余した安達はどうしたらよいか分からぬまま、若菜の反応を待った。
お昼も近くなり人通りはさらに増えた。たくさんの人が二人を横目で見ては通り過ぎていく。それでも安達は動くことなくじっとしていた。まだ若菜は怖くて顔を上げられないのかもしれない。それなのに急かしてこの場から動こうなんてしたら、あまりにも可哀想だと思っていたのだ。
しばらくして、ようやく若菜が顔を上げた。安達を見上げるような格好で、しかもなぜか満面の笑みだ。
「えっ」
(なっ、なぜ笑顔なんだ……)
てっきり泣いていたり、不安な顔をしていると思っていたのだ。安達の反応は正しい。
「四季さん助けに来てくれたんですね。ありがとうございました。待ち合わせしているって言ってもぜんぜん聞いてくれなくて」
「いや、もっと早くに来るべきだった。今日は会えないかと諦めかけていたから」
「やだ! 諦めたりしないでください。わたし、いつでも飛んできますから。四季さんが会いたいって言ってくれさえすれば」
「そんな、俺なんかのために」
「俺なんかってなんですか。わたしに失礼です」
「すみません」
なぜか安達は若菜に叱られてしまう。若菜はちょっと怒った顔をして、それからまたあの笑顔を見せた。
(だからなんで笑顔なんだ)
安達には若菜の感情がなかなか読めなかった。いつか先輩が言っていた「女の機嫌は山の天気とおんなじだ」を思い出す。
「ねえ。お昼食べに行きましょう? お腹すいちゃった」
「そうですね。そうしましょう」
女心がわからない安達は戸惑いながらも、若菜の手を引いて歩き始めた。すると若菜はまたにっこりと安達に笑いかける。
手を繋ぐことがいつのまにか自然にできるようになっていたことに、安達は気づいていないのだ。
◇
「あ、四季さん。このお店にしましょう。ほら、前にメールでお話ししたパンナコッタ。ランチのデザートについてるの」
「この店ですか。あっ、こんなカジュアルな服装で大丈夫かな。ジャケットくらい着るべきですよね」
安達はまさか今日イタリアンを食べるとは思っていなかったので、ストレッチの効いたチノパンにTシャツ姿。ちなみに足元は言わずもがなスニーカーだ。
「大丈夫です。みて、ジーパンにTシャツの人も入って行ったでしょ? それにほら、わたしだってカジュアルです」
「若菜さんが大丈夫というなら、きっと大丈夫だな」
「はい。大丈夫です」
わたしだってカジュアルと言うけれど、言うほどカジュアルなのかと女性のファッションに疎い安達は若菜の姿を確認した。ロングスカートにふわっとしたカットソー、足元はローカットのスニーカー。
(かわいいじゃないか……)
カジュアルかそうじゃないかなんてどうでもいい。とにかく、いちいち若菜が可愛いことに安達は納得するしかなかった。
若菜が言う通り、かしこまった店ではなかった。大学生くらいのウェイトレスが二人を席に案内して、今日のおすすめメニューを置いていった。
パスタランチ(パスタ、サラダ、スープ、デザート、ドリンク)
ピザランチ(ピザ、サラダ、スープ、デザート、ドリンク)
パスタ、ピザ、デザートは選べるらしい。
「四季さん。ここのデザートにパンナコッタがあるでしょう」
「本当だ。なるほど、いいシステムですね」
「でしょ? うふふ」
安達はパスタランチでデザートはもちろんパンナコッタ。若菜はピザランチに当然のごとくデザートはパンナコッタ。二人して同じデザートにしなくてもよいのに、なぜか他の選択肢はなかった。だって、次はパンナコッタを食べましょうと約束をしたのだから。
「そういえば若菜さん。どうしてあの通りを歩いていたんですか。ご自宅とは方向が違うと思うのですが」
「ああ、それはお得意様にお届けものをしてきたからなんです」
「そうだったんですね」
若菜の家は老舗の醤油屋だ。若菜の兄があとを継いで、今は兄の仕事を手伝っている。ときどき配達に出たりもするようだ。
「あっそうだ。実は新しいお醤油の開発があって、四季さんにもお裾分けがあるんです。ぜひ、試して欲しくて。これ、どうぞ」
「えっ、いいんですか」
小さな和風の紙袋に150ccほどの醤油の小瓶が入っていた。
「実はこれ、アイスクリームにかけるお醤油なんです」
「ええっ、アイスクリームに醤油を⁉︎」
「はい。バニラアイスにかけるのがおすすめです。騙されたと思って、帰ったら試してみてください。そして、感想をお願いします」
「なんと。はい、感想送ります」
若菜が嬉しそうに微笑んだ。それだけで安達は来たかいがあったと心の中で思う。
昨日までの疲れはどこに行ったのか。同僚に絶対に起こすなと念押ししていたくせに、若菜からの何通ものメールを読んだら居ても立っても居られなくなった。
四季さんに、また会いたいです。若菜
このメールが四季の身体にエネルギーを注いだのは間違いない。
若菜がピザを手で取り、口に運んだ。できたてのピザのチーズがいたずらに伸びている。それを若菜は器用に生地に巻き込んで小さな口に持っていく。
自分で選んだ和風パスタの味がわからないくらいに、安達は若菜の仕草に釘付けだ。
「おいしかったですね。パンナコッタも楽しみ。ねえ、四季さんあれで足りたんですか?」
「ええ、問題ないです」
若菜に最後の一切れがどうしてもお腹に入らない。頑張って食べたらパンナコッタが食べられないと困った顔を向けられて、安達はその一切れを食べた。
トマトソースとチーズが口の中で弾けたように広がって、目の前にはあの若菜の笑顔がある。
安達は見つめ返すことができずに、皿を睨みつけたままもっちりとしたピザを咀嚼した。
「お待たせしました。デザートとお飲み物です」
いよいよ、例のパンナコッタを食す時がきた。
真っ白な皿の真ん中にちょこんと存在するプリンほどの大きさの白き塊が、テーブルに置かれるとフルフルっと可愛く揺れた。見た感じはつるんとした表面で、弾力がありそうだ。周りにイチゴソースが添えられている。白と赤の色合いが美しい。
「まあ、可愛らしい。カップに入ってくるかと思ってたんだけど、こんな風にして出してもらえるなんていいお店ですね」
「本格的な気分になりますね」
「ええ。いただきましょう」
「いただきます」
スプーンで掬って、まずはソースなしで食べてみる。口の中にミルクの風味と優しい甘みが広がって、自然と二人の頬が上がった。
今度はイチゴソースをつけてみる。
「いちごの酸味が合いますね。美味しいわぁ」
「ほんとだ。パンナコッタは色々なソースが合いそうだ。ブルーベリーやチョコレートもいける」
「ええ! ええ! 絶対に合うと思う!」
若菜が前のめりになって安達の言葉に賛成した。そして、手で頬を押さえなが美味しいとささやきながら再びパンナコッタを口に運ぶ。目の前でそんなふうに可愛らしく食べられたら、男としてはたまらない。同じようにパンナコッタを口に運びながら、その優しい味と彼女の仕草に振り回されて安達の頭の中は忙しい。
(あなたのほっぺとパンナコッタとどっちが柔らかいのか……くっ、いかん! いかん! パンナコッタに集中しろ!)
触れてみたい、若菜のその頬に。
(集中! 集中!)
「四季さん? お顔が難しくなってる。ダメだった? パンナコッタ」
「いいえ! とても美味しいですよ。この滑らかな舌触りに驚いていて」
「よかった。あのね、パンナコッタってお家でつくることができるんですよ」
「えっ。そうなんですか」
「牛乳と生クリームとお砂糖とお水。そして、ゼラチンさえあれば。スーパーに行けば手に入る材料ばかりでしょ? いつか、作ってあげますね」
「作って……くれる、んですか」
また若菜の口から未来を紡がれる。いつか、がそう遠くない日に思えてしまうほど安達の心は乱された。やるべきことが多いのに、若菜のこともちゃんとしたい。まだハッキリと描くことのできない未来に、少しの苛立ちと、少しの希望が湧いてくる。
「はい。こう見えてもわたし、お料理するの好きなんですよ。毎日頑張る四季さんに、お腹いっぱい食べてもらいたいの。それがわたしの夢、かな? なんてね」
そんなことを夢見てくれるなんて、なんということだ。安藤は心の中で天を仰いだ。
(いいのか、俺で。あなたのそのほっぺに、俺が触れてもいいのか……)
「あ、ダメな感じかしら」
「そんなとこは! まだまだ自衛官として未熟ですが、そんなふうに思ってもらえるなんてとても、嬉しいです」
「じゃあ、いつか食べてくださいね」
「はい」
安達の心に優しい風が吹いて、なにかが芽吹く予感がした。
パンナコッタより、絶対にあなたのほっぺの方が柔らかいですよ。そんな心の声が今にも口から飛び出しそうだった。
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