第14話 それを成し遂げたときには!

 安達にとって、無機質な隊舎が自分の場所だった。国から支給された制服の袖に腕を通し仕事をする。昔ながらのコンクリートの建物と広い運動場は、学校の延長線にいるような感覚だった。

 違うのは学校以上に厳しい規則と、外の世界との常識の違い。そして同期という存在と彼らとの絆の強さだろう。

 民間のことは分からないが、安達の周りにいる男たちは変わり者と言われる人間が多かった。変わり者でなければ務まらない仕事なのだと思っている。


 そんな安達の世界を一人の女性が変えようとしていた。その女性はいつも朗らかで優しくて、安達の大好きな甘味と共に夏の終わりに突然現れた。

 その女性は安達の手に余るほどで、いや、単に安達が女性の扱いに慣れていないだけだろうが、思いの外ぐいぐい安達の陣地を占領していったのだ。


『状況終了! 安達三等陸曹、負け!』


 安達は不本意ながらも敵の前進を止めることができなかった。負け、を宣告される。


「はっ!」


(夢か……)


 安達は昨晩、若菜の部屋に宿泊したのだ。

 ベッドに寝てください、いや床で結構、というありきたりな押し問答をしたのを思い出す。

 安達はこれだけは譲らないと何とか押し切って、若菜がベッド、安達はフローリングに布団を敷いて寝た。

 床は硬いと心配されたが、訓練では身ひとつ、木の影や草むらの中で仮眠をとったりすることを伝えると、若菜は辛うじて安達が床に布団を敷いて寝ることを受け入れた。

 朝露に濡れることなく、虫に刺されることなく、かつ寝返りを打つたびに甘い香りがするなんて、安達にとっては天国であった。

 ただ一つ、男として具合が悪いのは手を伸ばせば届くほど近くに若菜がいることくらいだ。


(俺は耐えられる男でよかった)


 など、自分を褒めてやるくらい本能がぐらついたのは仕方がない。

 時計は午前6時半。

 休みだと分かっていても早く目が覚めてしまうのは、職業柄かそれとも若菜のせいか。まだ静かにしていようと、安達は再び目を閉じた。



 ◇



 次に目覚めた時、味噌汁のいい匂いが安達の鼻腔をくすぐった。


(しまった、二度寝がすぎた……)


 そんなことを思いながら瞼を開ける。


「四季さん。おはようございます」

「うわっ。若菜さん!」


 安達の顔を覗き込みながら若菜がにっこりと笑った。その顔の近さに安達は硬直した。一晩を耐え抜いたというのに、目と鼻の先に若菜の顔がある。

 世の中は非情である。そんな言葉を安達は心の中で悶絶した。


「朝ごはんできたんですけど、食べられそうですか」

「はっ、はい!」

「よく眠れましたか? やっぱりフローリングにお布団は硬すぎるでしょう」

「そんなことは。とてもよく眠れましたよ」

「それならいいですけど……」


 なぜか若菜は不服そうに口を引き結んだ。

 何か気に障るようなことをしただろうか。昨夜は眠りにつくギリギリまでいろんな話をして盛り上がっていたではないか。恋愛に疎い安達がどんなに考えたって分かるはずがない。

 男の本能を理性で殺して無事に迎えた朝は、若菜にとっては不満だったということに。


「あの、何か気に障るようなことをしたでしょうか」

「四季さん」

「はい」

「もう少しわたしたち、恋人らしくしません?」

「恋人、らしく」

「例えば、わたしより年上の四季さんはわたしに敬語を使わない。いつまでも敬語だとちょっと寂しいかな」

「なるほど。では、敬語はなしで」

「それから……」

「それから? 俺にできることなら、なんでも」

「四季さんはわたしのこが好きですか?」

「す、好きっですよ。だから、お付き合いを申し込んだんですよ」

「敬語」

「あ、すみません。いや、あ、ごめん」

「だったらほら、あるじゃないですか。恋人同士でしかしないことが」

「恋人同士でしか、しない、こと……えっ」

「わたしに魅力がないのかなーって。やっぱりちょっと子どもっぽいかしら。うちの家系はみんな小柄で、幼く見えるというか。女性として、見れないのかなぁ……なーんて。あ、ご飯が炊けました。食べましょう」

「ちょっと、待ってくれ」

「ひゃっ」


 安達は考えるよりも先に、体が動いた。気づいたら若菜の腕を掴んで自分の膝の上に乗せていたのだ。

 いつになく安達の顔つきは怖かったかもしれない。ただでさえ強面すぎると同期や後輩たちから言われているのに、そこに感情が乗るとさらに怖くなる。それに加えて額に傷が。


「魅力がないとか、幼いとか、そんなことは決してない。昨晩から今朝にかけて俺がどれくらい我慢したと思っているんだ」

「が、がまん?」

「俺は今朝も自分の理性と忍耐力を褒めていたくらいだ。意味が分かるかい? 若菜さん」

「えっと。それは、わたしをそういうふうに見てくれていたということですか?」

「みたらし団子を食べているときも、夕飯を食べているときも、ずっと」

「ずっと……?」

「あなたに触れたかった」


 安達は自分が感情を抑えていたせいで、若菜を不安にさせてしまったことを反省していた。仕事がら突然音信不通になるし、何をしているかを詳しく話せない自分が若菜に相応しいのかどうかを悩んだ。

 しかし、それは若菜には杞憂だったのかもしれない。


「本当はもっと」

「そのもっと、していいのに……」


 膝の上に可愛らしく乗っかった若菜から、そんなことを言われるとさすがの安達も理性がぐらぐらと揺れる。抱きしめて、口づけて、そして……


(ダメだ! そんな欲を満たすためにここに来たわけではないだろ! 俺にはまだ成すべき事がある)


 安達は掴んでいた手をゆっくりと開いた。若菜の細い腕に痕がついていないか気になった。


「どうして離してしまうの。わたしはいいのに」

「若菜さん。俺にはまだやらなければならい事があるんです。訓練をして試験を受けて、手に入れなければならない徽章きしょうがある」

「手に入れなければならない、徽章?」

「はい資格みたいなものです。それを手にする事ができたら、俺の願いを聞いてくれますか」

「四季さんのお願いならなんでも聞くわ。でもその試験て、とんでもなく難しい気がするのはわたしの思い違いかしら」

「そうですね。体力と精神力を試されるものになります。それも並大抵のものではダメです。その徽章を手にした先に、若菜さんがいると思えばやれる気がする」

「四季さん」


 安達は若菜をゆっくりと立たせた。これ以上触れていると何をしでかすか分からないからだ。

 大事な人だから、もっともっと大事にしたい。

 そして、彼女を守れる強い男になりたいから。今よりもずっと、強く逞しくなりたい。


「腹減ったなあ。若菜さんの朝ごはん、食べさせてください」

「もう敬語にもどってる!」

「あっ……」

「四季さんらしいから、許します。でも、美味しいご飯を作ったわたしにご褒美をください」

「どんなご褒美が……なっ⁉︎」


 立ち上がったはずの若菜が膝をついて安達の両肩に手を置いた。あっという間に距離が近づいて頬に温かくて柔らかな感触が残った。

 そして、若菜は人差し指を安達の鼻のてっぺんに乗せてこう言った。


「あなたが欲しい徽章ってなんですか?」


 たった一本の、か弱い指先が鼻に乗せられただけなのに、安達は身動きが取れなくなった。間近に迫る若菜のくるんとした瞳が、安達の心を覗き込む。


「教えてください」


 両手を上げて負けましたとしたいくらいだ。正夢になってしまったことに安達は焦った。


「レンジャー、徽章」

「レンジャー徽章。分かりました。応援します」

「ありがとう」


 手負いの衛生兵が敵陣とは知らずに誘い込まれ、あれよあれよと相手の術にハマっていく。

 もう白旗をあげても間に合うまい。いや、白旗などあげるわけがない。


 戦いが終わったあと、またここに帰ってきたいと思ったから。



 ◇



「レンジャー訓練に入ったら、また音信不通になるかもしれない。一応は自由時間があるはずだが、どれくらい自由に使えるのかが分からない」

「寂しいけれど大丈夫。ときどきメールはします。お返事はいらないから、身体を休めるのを優先にして」

「うん」

「だって、レンジャー徽章が手に入ったら我慢しないんですもんね? 思い切り恋人らしいことができるのよね? わたしがんばります」

「ああ、合格した暁には……え⁉︎」


 にこにこ笑顔でとんでもないことを言う若菜。もしかしたら安達よりも理性で色々なことを我慢しているのかもしれない。


「ふふふっ。とにかく、怪我を早く治さないとね。たくさん食べてね。四季さん」

「は、はい」


 恐るべし、萌木若菜。老舗醤油店の娘さん。

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