最終話

 タクシーの後部座席に座り、俺はまんじりとしていた。

 隣には雅さんが、助手席には篠森が座っていて、俺は昂ぶる心臓を押さえながら、何処を見るでも無く、窓の外の景色に目を移していた。世間はもう、すっかり秋の気配だ。

「そうだ達也君」

 得意気な顔で、雅さんは不意に俺の方を向いた。

「慰めになるかは分からないけど、今の君に語りかけたい言葉が見つかったよ」

 雅さんは俺の隣で、先ほど五線譜と、ミとソを書き込んだ紙を広げた。わざわざ、家から持ってきたのだろう。

「君はつまり、自分が鳴らす音が無い事を、才能が無い事だと勘違いしているんじゃないかと思うから、僕なりの解釈をさせてもらうね」

 雅さんは手にしていたペンで、ミとソの下に、その二音をつなぐ様に、シュッと一本、半月の様な線を引いた。

「何ですか?」

「これはね、スラーだよ」

「スラー? 音楽記号ですか?」

「そう。このミとソは、このままだと単独の音だ。繋がりなんか何にも無い。でもこのスラーと言う記号があると、このミとソは、まるで昔からの知り合いだったかのように、仲良く響き出すんだ。僕は、このスラーが、君だと思う」

 手書きの五線譜が、手渡される。

「今回の僕達の事だけじゃない。君はきっと、色んな所で、沢山の人達が繋がる事を手伝ってきたんじゃないか? それを威張ることも、鼻にかける事も無く、ただ謙虚に、誠実に、君が才能があると思う人達をの才能を、沢山の人に届けて来たんじゃないか? 沢山の人達と繋いでくれたんじゃないのか? こんな事、努力だけで出来る事じゃ無いと思う。君の人徳と、人柄と、優しさや温もりや慈しみがあったからこそ、君は沢山の人に受け入れて来られたんじゃないのか? あえて君の言葉を借りるなら、これを才能と呼ばずして、何て呼ぶだろう、って話だよ」

 雅さんの言葉の後ろに、版画家の中村さんの顔が浮かんだ。

 君は君らしくあればいいんだ、そう笑う中村さんの後ろに、それが君の才能なんだから、と言葉が付け加えられた気がする。これは、俺の妄想なのかもしれないけれど、心が引き締まる思いがした。

「君島君、もうすぐ着くから、準備しといてね!」

 助手席で叫ぶ篠森の言葉で、背筋に再び力が入る。

 病院の入り口でタクシーを止め、急いで飛び出す。

「私が払っとくから、あんたは早く行きな!」

「すまん、頼んだ!」

「今度奢れよ!」

 篠森のありがたい恐喝を耳に流し、受付で君島琴の病室を聞く。

「旦那様ですか?」

「はい、そうです」

 受付の看護士さんに案内され分娩室へと向かうと、部屋に入る直前に、室内から赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。消毒などを手早く済ませ、急いで中へと入る。

「琴!」

 叫びながらドアを開けると、疲れきった顔をした琴が、顔の真っ赤な赤ん坊を抱いていた。

「……達也、ジャストターイミーン」

 疲弊しきった様子の琴と、抱かれた赤ん坊を見て、涙腺の決壊を抑え切れなかった。

「へへへ、良く来れたね、仕事中だったんでしょ?」

「ああ、でも、雅さんが、行こうって、言ってくれて。すまん、遅れた……」

「間に合ったじゃん。ほら、抱いてやってよ」

 琴から、産まれたばかりの赤子を受取る。くしゃくしゃの顔に、真っ赤な体、必死に生きようとするその姿に、更に涙が押し出される。

「あぁ、俺の子か、可愛いな、可愛いな……」

 鼻を啜りながら、我が子の顔をまじまじと見る。とても美人な女の子だ。これは将来、モテて仕方が無いだろうと、一瞬でそんな事を考えてしまった自分は、親バカまっしぐらだろう。

 処置が残っているからと言われ、子供を看護師さんに預け、俺は一度病室の外へと出た。廊下に出ると、ベンチに座っていた雅さんが、すっくと立ち上がり、俺の事を強く抱きしめてくれた。

「おめでとう」

「ありがとう、ございます」

「父親になった心境はどうだい?」

「まだ良く分かりません。でも、これからどんな事があっても、あの子を守ろうと、思いました」

「それは結構。ねえ達也君、当然の事を言うけど、君と言うスラーが居なかったら、琴ちゃんとあの子は、どれだけいい音を鳴らしていたとしても出会ってない訳なんだ。僕には才能云々は上手く分からないけど、君は確かに、彼女達にとって、必要な存在だったんだよ。その事に関しては、誇りを持って欲しいな」

「……肝に銘じます」

「所で、あの子の名前はもう決まってるのかい?」

 涙を拭って鼻を啜り、俺は笑った。何だか、とても幸せだった。

「ええ、あの子は音楽を色濃く受け継ぐ血筋に産まれました。でも、琴はそんな中でも、絵の才能がある。この二つの架け橋となってくれるようにと言う想いを込めて、絵に、音と書いて、絵音と名付けようと思ってます。琴と二人で相談して、決めました」

「絵音ちゃんか、いい名前だね。何だか、インスピレーションが沸きそうだよ。いつかこの子の為に、曲を書かせて貰える事になったらいいな」

 雅さんが穏やかに笑っている所に、駆け足で篠森がやって来た。無事に産まれたニュースを聞くと、どさくさに紛れて雅さんに抱きついていた。ちゃっかりしている。

 余談だが、それから数年後、絵音が大きくなるまでを描いたコミックエッセイ、『泣かないで、エネちゃん』がアニメ化された時、主題歌は雅さんの立ち上げたレーベル、MIYABIの新人アーティストが担当する事になった。これもまた、俺と言うスラーが、その繋がりの一端を担っているのかもしれないと思うと、感慨深かった。

 自分の音を鳴らせなければ才能が無いと思っていた俺は、自分の勘違いを深く戒めた。雅さんにとっては、あの時出た『スラー』と言う単語は、単なる思い付きの一つかも知れない。だけど俺にとって、このスラーと言う音楽記号は、大事な人生の指標になった。人と人との間に楔を打てる才能、そう言って貰えた気がした。

 俺自身に誇れる物がある訳では無い。だけれども、俺が繋いだ人達が笑い会っている時、俺はとてつも無く誇らしい気分になる。

 琴が絵音を抱きしめ、二人で笑い合っている時、俺はスラーとしての立場で生まれた自分に、心から感謝をする事が出来た。

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スラ― 泣村健汰 @nakimurarumikan

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