第3話


 夜10時。帰宅した俺は、時計を睨みつけた後、妻に一本メールを打った。

『帰ってきた。まだ起きてるか?』

 すると、すぐさま折り返し電話が掛かって来た。ネクタイを外しながら、通話ボタンを押す。

「もしもし?」

『達也、お疲れ様』

「おう。起きてたのか?」

『普通に仕事してたわ』

「あんまり無茶すんなよ」

『こんなん、無茶の内に入んないわよ』

 電話越しにケラケラと笑う琴の声を聞き、心がふと軽くなるのを感じた。

「体調とかはどうだ?」

『心配症ね~』

「そりゃ、心配にもなるだろ」

『大丈夫よ。私もこの子も、そんなヤワじゃないから、達也は安心して、バリバリ仕事してればいいのよ』

「お前だって、もうすぐ予定日なのにバリバリやってんだろ? 少し大人しくしてた方がいいんじゃないのか?」

『暇で暇でしょうがないんだもん。無理はしないから、大丈夫だったら。ね~』

 今、琴はお義母さんに声を掛けたのだろうか。それとも、お腹の子に声を掛けたのだろうか。

「ところで、砧雅さんって知ってるか?」

『きぬたみやび? あれ、どっかで聞いた事あるわ……』

「昔な、お義父さんに弟子入りしてたらしいんだよ」

『ああ、ああ、思い出したわ。雅兄ちゃんね』

「兄ちゃん?」

『そうそう。私と洋が、小学生くらいの時かな? 父さんのとこに出入りしてたの。当時、高校生くらいだったかしらね? どうしたの? 雅兄ちゃんの事なんて』

「今度な、篠森と一緒に、その雅さんにインタビューする事になってな」

『インタビュー?』

「ああ、次にやる、音楽家のコーナー任される事になってな」

『へぇ~、画家の次は音楽家ねぇ』

「なんだよ?」

『なんでもないわよ。やっぱり、達也はそう言うのに向いてるんだなって思ったの。達也相手だと、なんか、色々話しやすいって言うか、思わず色々喋っちゃうような、そんな雰囲気があるのよね~』

「買いかぶり過ぎだよ。まぁ、確かに前回の評判が良かったから、今回もらしいんだけどな」

『ほらぁ』

「ん~、まぁ、頑張ってくるさ」

『達也は真面目だからねぇ。気楽にやりゃいいのよ。そしたらなんとかなるから』

「ん、ありがとう」

『そんじゃ、明日検診だから、そろそろ寝るわ』

「おう、悪いな、遅くに」

『ん~ん、そんじゃ、おやすみ』

 電話を切った後、スーツのままベッドに倒れ込んだ。ふと横を向くと、琴と二人で撮った写真が目に入った。

 琴と結婚をして2年。一緒に暮らして、改めて思う事があった。

 彼女には、才能がある。

 琴本人もとても魅力のある女性だが、それに加え、彼女の描くイラストは、強く人を惹きつける魅力があった。

 今彼女が抱えている仕事は、去年から連載を続けている、『今日も明日も笑いたい』と言うコミックエッセイだ。恥ずかしい事だが、俺と琴の出会いや結婚についてを赤裸々に描いている。篠森と琴がノリノリで立ち上げたこの企画は、徐々に読者からの支持を集めていると言う。書店回りをしても、営業に言っても、君島達也の名を口にすると、「あのタツヤ君ですか」と喜ばれる事が多くなった。もうすぐ発売される一巻は、弱小のうちとしてはかなり頑張ってる部数が、初版として刷られる事が決定している。だが、周りの反応を鑑みるに、すぐに増刷がかかる事は間違い無いだろう。ストーリーは、体験をした俺が言うのもなんだが、ありふれたものだと思う。やはり人気の理由は、琴によるイラストの力が大きいのだろう。

 彼女の才能と努力の素晴らしさを誇らしく思うのと同時に、自分の凡人ぶりが少しだけ嫌になる。そんな劣等感の先にあるのは、父親になる事への、漠然とした不安だった。

 ――俺が、父親か……。

 冷蔵庫から烏龍茶を取り出し飲み込む。酒を含んだ身体に、冷たいお茶が心地いい。

 父親は、生まれてからが父親だとはよく言ったものだ。既に母親の顔をする琴の顔を見る度に、自分の不甲斐なさに焦れてしまう。不必要な焦燥なのだろうが、だからと言って簡単に払拭出来るものでも無い。

 ――気楽にやりゃあいい、か……。

 琴の言葉を反芻しながら、再び烏龍茶を流し込んだ所で、琴から一通メールが来た。

『気楽に気楽に。おやすみなさい』

 こっちの気持ちを見透かしたようなメールに、ふと口角が上がる。おやすみと返し、俺も眠りに就く事にした。

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