第7話
「そうなんだ、お姉さんの。じゃあ、どっちにしろお姉さんと貴女は、よく似てるんだね」
「どう言う意味でしょう?」
「だって、確かによくよく見れば、君とS嬢は本当にそっくりだもん。お姉さんか、一度会ってみたいなぁ」
本気で信じ始める雅さんを前にして、俺は喉の奥から笑いが込み上げて来るのを、必死に堪えていた。
「篠森、謝るなら早い方がいいんじゃないか?」
笑いをなんとか抑えながら、小声で篠森に話しかける。返事の代わりに、今度は軽めではあるが、グーパンチが飛んで来た。
「えっと~、雅さん、誤魔化せないみたいなので謝ります。はい、あのS嬢は確かに、私がモデルです。すいません」
篠森の声から、若干気落ちしたような素振りが見てとれる。
S嬢は、普段の篠森よろしく、かなりがつがつしたキャラクターとして描かれている。企画を立ち上げた段階で、篠森のキャラクターを忠実に書くか、それとも篠森のセルフイメージに近いキャラクターに仕上げるかで、毎日毎日バシャバシャと水を掛け合うような会議を繰り返した。結局は本人に忠実なキャラクターにすると言う事に落ち着いたのだが、琴と俺と編集長の三人がかりで、篠森の起こす高波を押し返すのには骨が折れた。
尚、S嬢のキャラクターも方々でそれなりに人気なのだが、それによって篠森が何かしらの恩恵を受けたと言う話しは届いて来ない。
騙された当の雅さんはと言えば、更にテンションをもう一段跳ね上げた。思わず立ち上がり、篠森の手を強く握る。
「じゃあ、君のお陰であの連載が始まったんだね! うわぁ、なんか感動だな! これからも頑張ってね。よかったら、今度食事でもどうかな? 達也君や琴ちゃんも一緒にさ。色々話聞かせてよ!」
「勿論です! 先生のスケジュールもすぐに抑えます!! いつにしましょう!!!」
突然齎された恩恵に、篠森の鼻の穴が広がる。唇の端が思わず上がってしまうのも抑えきれないようだ。
「その話は、また後程。インタビューに戻らせて頂いても宜しいでしょうか?」
思わず間に入り、制止を試みる。俺の言葉で、どうやら雅さんは我に返ってくれたようだった。篠森の手を離し、再び椅子に腰を下ろし、コーヒーを一口啜った。
「ああ、ごめんごめん。いやぁ、嬉しいな。こんなに楽しいインタビューは初めてだよ。クラシックの連中はお固くてさぁ、僕とは水が合わない連中が多くてさ。あ、ここの部分使わないでね?」
「はい、分かってます」
「あー、よかった。何でも喋るから、後でS嬢のサインも頂戴ね」
ピアノだけでは無い。他人とは違う、確固たる自分の世界を持っていて、それを表現出来る力がこの人にはあるのだろう。この天衣無縫な振舞いも、雅さんの魅力の一つなのだと感じた。時折、琴に同じような印象を抱く事がある。
これが、才能のある人間から醸し出される、特有の匂いだとでも言うのだろうか。
この魅力を、凡愚の自分がどれだけ伝えられるだろう。俺は胸の奥で密かに、褌を締め直した。
琴と初めて出会った日の事を思い出す。あの夜は、向こうのコンディションが一目で最悪だと判った。
「あー、えっとー、イラストラーターやってます、小早川琴です。正直、徹夜の仕事明けで、くっそ眠いんれ、途中私が寝ちゃったとしれも、許しれください」
イラストラーターと言う謎の職業を名乗った彼女は、呂律の回らない口調のままとりあえず手元に届いたビールを一息で半分程呷った後、開始10分でスヤスヤと寝息を立て始めた。
参加者が驚く中、幹事の篠森が慌ててフォローを入れる。
「皆ごめんね。彼女、私が担当してる先生なんだけど、ちょっとここ最近無茶なスケジュールになっちゃってね。それで、昨日の昼からついさっきまでぶっ続けで仕事しててさ。打ち上げがてらに来て貰ったんだけど、やっぱ無理だったみたいね」
頭数を揃える為に必死だった篠森に拝み倒され、無茶なスケジュールも省みずに律儀に約束を守ったのだと聞いたのは、婚約した後の事だ。それにしても、いくら疲れて居たとはいえ、初対面の面子が多い中、あそこまで熟睡出来るものかと、その豪胆ぶりに感嘆した。
一次会ではそのまま目覚める事は無かった彼女は、そのまま帰るのかと思いきや、どうやら二次会にも参加するつもりらしかった。
「先生、本当に大丈夫? 全然寝てなかったのに、無理してない?」
居酒屋の出口で、彼女達の会話が漏れ聞こえてくる。
「大丈夫だったら、そもそもあんたが誘ったんでしょ?」
「だって、こんなにスケジュール拗れるって思わなかったし」
「たっぷり寝させて貰ったからもうバッチリよ。それに、打ち上げがてらなんでしょ? このまま帰ったら何の為に来たか分かんないじゃない、今日の払いはそっち持ちなんでしょ? じゃあもうちょっと飲み食いさせなさいよ」
「先生のそう言う所、好きなのよね~」
「そう言う所って、どう言う所よ」
「頑丈な所と現金な所」
「おお、気が合うね、私も私のそう言う所大好き」
篠森と随分仲が良いんだなと眺めながら、ふと、男の目を気にしがちな篠森が楽しそうに女性と話している姿を新鮮に感じ、彼女、小早川琴先生に興味を持った。
都合のついたメンバーで流れ込んだ二次会は、あちらのお客様からバーボンが届きそうな雰囲気の、隠れ家的なバーで行われた。俺は改めて篠森に紹介して貰い、小早川先生に名刺を渡した。
「こいつ、私の同僚の君島君、仕事は出来るけど、面白味はそんなに無い男」
「そんな紹介の仕方があるか」
「こちら、私が担当してる、小早川琴先生。君島君も絵は良く知ってるでしょ?」
「ああ、良く知ってるよ」
「どうも、小早川です。すいません、ちゃんと挨拶もせずにいきなり寝ちゃって。大分限界だったみたいで」
「それじゃ、私ちょっと向こうに用があるから、後は二人でごゆっくり。先生、楽しんでね。君島君、先生に変な事するなら、ちゃんと許可取ってね」
ギラリとした薄気味の悪い笑みを浮かべ、篠森は手を振りながらソファ席に座っているグループへと混ざって行った。
「今日のあの子の狙いは誰なんですかね?」
「ああ、あのソファの真ん中の、スーツの彼ですよ」
篠森の本日のターゲットを、こっそりと指差す。
「あ、本当だ。隣陣取りましたね。今度は撃沈しないといいんですけど、その後が荒れるから」
「篠森との付き合いは長いんですか?」
「そうですね。私、あの子以外に担当着いて貰った事無いんで」
「一度もですか? うちでイラスト描かれて、随分経ちますよね?」
「まぁ、私もあの子が良くて、あの子も私を離さないって言ってるので、まだ暫くはこのまんまだと思いますよ。それにしても、あの子もあのがっつき癖さえ無くせば、もうちょっとモテそうなもんだと思うんですけどねぇ」
「同感です」
「君島さんもそう思いますか? あ、ひょっとして狙われてる系ですか?」
「いや、俺は幸い、あいつのお眼鏡には引っかからなかったみたいで、仲の良い同僚させてもらってます」
「それはそれは、あの子には悪いけど、幸運ですよ」
「ええ、本当に」
篠森には悪いと思いつつ、二人で彼女を見守る事で、共通の会話が生まれた。
そして、彼女との会話を重ねる最中、不意に彼女の後ろに、彼女の生み出したイラストやキャラクターが垣間見える瞬間があった。その都度、まるで星を飲み込んだかの様に輝きを増していく彼女の姿が、俺には眩しく映った。
素敵な人だ、もっと、この人の事を知りたいと、そう思った。
多少の酒も入っていたし、雰囲気にも酔っていた。それは事実だろう、だが、様々な要因が折り重なる状況に置かれた事自体を、運命と位置付けるなら、俺は運命によって、琴に想いを寄せるように仕向けられたのだろう。
ロマンチックな言い方を敢えてするなら、一目惚れだった。
「小早川先生、もしよければ、今度また、会えませんか?」
カシスオレンジを啜る為に傾けていたグラスが止まり、ゆっくりと戻っていく。
「いいですよ、締め切りのやばくない日でしたら、いつでも。またみんなで集まりましょうか」
彼女は、昨日通りかかった野良猫が可愛かった事を報告するような口調で、俺の人生で初めての口説き文句を、サラリと受け止め、ふんわりと流されてしまった。
どうやら、しっかりと言葉にしなければ真意は伝わらなかったようで、後日の集まりで、改めて二人っきりでのデートのお誘いをさせて貰った。その時には、漸くと言うか今更ながらにと言うか、無事にしっかりと意図が伝わったようで安心した。
「あの、君島さん、もしかして、私の事口説いてます?」
顔を赤くしながらそう笑う琴に、俺は照れ臭くも深く頷きを返した。
そう、君は気づいていなかったかもしれないけれど、俺は初めて会った時から、君の事を口説いていたんだよ。
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