後日譚
純真
司祭が唱える祈祷だけが、モザイクも眩い聖堂の壁に反射する。自分を含めて誰一人、それこそまだ五つの末の弟すら一粒の涙も流さぬ葬儀を、ミロスヴァルは乾いた濃紫の眼で見渡した。
疲れ切った双眸の先には、石棺が一つ。春に見送った父の終の寝床よりも小さな棺には、ミロスヴァルたちの母が横たわっていた。
月か星の光を放つ金髪に、矢車菊の青の瞳。何より神話の女神のように気高い顔立ちの、ミロスヴァルは少しも似なかった美しい母。だが幼少期は抱いていた麗しい母への誇りや親愛など、少年の中にはもはや欠片も残っていなかった。
少年の脳裏に焼き付いているのは、父の死に繋がった怪我の経緯を自ら詳らかにした際の、氷よりも冷たい母の双眸だけだった。お前が死ねば良かったのにと言わんばかりの。
――やっと、終わった。
安堵とするには仄暗い、けれども絶望とは違う感情が、厚みを増しつつある胸の中で渦巻いていた。自分の無謀と愚かさのせいで父を喪った際に、張り裂けそうなぐらい心臓に溜っていた、哀しみではなくて。
元々は自分が全て悪いとはいえ、父の葬儀の最中に狂気をきたした母に対してミロスヴァルが望んでいたのはただ一つ。父の後を継いでグリンスク大公となった長兄の負担とならぬように。まだ幼い弟たちの心を暴言でこれ以上抉らないうちに、死んでほしい。本当に、ただそれだけだった。ミロスヴァルは毎日毎晩、母の死を神に祈っていた。
少年は、紛れもない実母の死を真剣に願い、父が息を引き取ってしばらく経ったある晩は剣を握りさえした。だのに結局は自分を産んだ女を斬り捨てなかったのは、犯す罪の恐ろしさに踏みとどまったためではない。
長い祈祷の終わりに轟いた、ただ一つの啼泣。乳母の胸の中で故人を悼むかのように泣き叫ぶ赤子――ミロスヴァルたちの妹が、母の腹に宿っていたと明らかになったため。母はあれほど熱望していた娘を生み落として身罷ったのだ。どこからどこまでも母そっくりの、父も望んでいたという子を。
長兄によって父の亡骸から引き剥がされ、館の一室に軟禁された母は、完全に正気を失っていた。父を死に追いやったミロスヴァルはともかく、他の兄弟がどんなに正気に戻ってくれと縋っても、虚ろな瞳でもういない父を探し、父に対する愛の言葉を囁くばかり。
――私が愛するのはそなたのみ。そなたが隣にいてくれるのなら、前の家族も、子供らも必要ない。だからどうか、遊牧民相手の戦などもう止めて、戻って来てほしい。
氷の華を思わせる貌の下に秘めていた、よくもまあと呆れるほどの熱を吐露しつづける女から、弟たちは次第に遠ざかっていった。幾ら発狂したとはいえ、自分たちを産んだ女が自分たちなど塵同然だと囁く様は、進んで目の当たりにしたいものではない。
やがて懐妊が――父の忘れ形見が胎内にいると明らかになった際、母は満面の笑みを浮かべたのだという。今度の子こそ娘に違いない。この子が生まれればロスティヴォロドはきっと戻ってきてくれる。そしてずっと私と共に生きてくれるはずだ、と。
まだ母が元に戻るやもとの一縷の希望を捨てきれておらず、母と医師の会話に聞き耳を立てていた末の弟は、滂沱の涙を流しながら長兄の胸に飛び込んだ。ぼくたちが女の子じゃないから、母さまはぼくたちのことがいらないんだ。もしかして父さまもそうだったの、と。
長兄や次兄、乳母や控えていた奴隷たちまでもが言葉を尽して末弟を説得し泣き止ませようと試みる最中、ミロスヴァルはただただその場で呆けていた。小さな弟の涙も、母の狂気も、父の死も、全てはミロスヴァルの行動が引き起こした結果だ。つまりミロスヴァルが弟を嘆かせているも同然なのに、なんと慰めたらよいか分からなかったから。
こんな時、父ならば弟を上手く宥め、笑わせられたのだろう。母を除く周囲の者は皆そんなことはないと言ってくれるが、生きるべきは自分ではなくて父だったのだ。
これで本当に妹が生まれたら末の弟があまりにも哀れだから、その前に母を殺そう。それだけが兄弟たちに対してできる償いだと決心し、抜身の剣を片手に母の許に忍んでいった晩。丁度母の御機嫌伺いに来ていた長兄は、一目でミロスヴァルの目的を察したのだろう。
それだけは駄目だ。母上はともかく腹の中の弟か妹まで殺したら、お前はずっと苦しむことになる。父上も悲しむだろう。
長兄に抱きしめられて諭された瞬間、ミロスヴァルの頬もまた大粒の涙で洗われた。諸悪の根源は他ならぬ自分自身なのに。
「のう。そなたが大きくなったら、私が晴着を仕立ててやるからの。そして、この母と父と共に庭園を散策してもよいな。この母が花冠を作ってやるからの。そなたは私とロスティヴォロドの娘なのだから、どんな高価な布も花も、きっと似合うはずだ」
大声で泣き叫ぶミロスヴァルと長兄を振り返りもせず、母はまろみを帯びた腹を愛おしげに撫で、決して訪れぬ幸福な未来の情景を語りかけていた。ミロスヴァルがトラスィニに帰る頃になっても、ずっと。年齢が年齢だから、出産の最中に自分が危うくなるかもとは考えもせずに。
とうとう陣痛が訪れた際は、母はにこやかに微笑んだらしい。これでやっとロスティヴォロドに逢える、と。だが、大量の血潮を失いつつも待望の女児を産んでも、父は母の許に戻ってこなかった。神ならぬ者が、生者と死者を隔てる河を越えられるはずがないのだから、当然のことだ。
しかし母は、これでも父が戻って来ないと悟ると、あれほど待ち望んでいた娘への興味すら失ったらしい。フィアルーシャと、妹に父方の祖母の名を付けたのも長兄だった。
泣き喚く赤子をあやしもせず、監視の目もするりとかいくぐって父を探しに行った母は、聖堂のほど近くで息絶えていたという。四十近くの産後間もない身体で、雪が舞い息も凍る夜半を外套もなしに彷徨ったのだ。死なない方がどうにかしている。
母の死を知らせに来た使者と共に、ミロスヴァルがどうにかグリンスクまで辿り着いた頃も、半ば凍り付いた状態で発見されたという亡骸は生前の麗しさを留めていた。
赤子を産めば正気を取り戻すかもしれないとの望みは、霜か薄氷さながらに踏み砕かれた。
息子たちのあえかな希望と共に永遠の眠りについた女を収めた棺は、父の柩の隣に安置された。これで、母は満足なのだろう。それこそ気が狂うほど焦がれた父と天上で再会して、喜んでいるのかもしれない。だが、ミロスヴァルは何一つ納得できそうになかった。
ミロスヴァルはともかく他の息子たち、熱望していたはずの娘すらも、母は結局は不要な存在と切り捨てた。そんな自分勝手な女を、父はどうして側に置き続けたのだろう。グリンスク大公である父ならば、たとえ美貌で劣ろうとも、もっと気立ての良い女を娶れただろうに。
「んな思いつめんなよ」
かつての自室で胸を塞がせる物思いに溺れていると、朗々とした声が沈みゆく意識を引き上げてくれた。
「……兄貴」
すぐ上の兄は氷の青の双眸を、あの時の母の瞳よりもよほど温かく、陽気に微笑ませている。次兄の相変わらずの様子は、少年の胸に吹き荒ぶ吹雪の勢いをやや和らげてくれた。
「俺が思うに、お袋の心はとっくに死んでたんだよ。親父が死んだときに、一緒に」
ぐいと差し出された器の中身を、確かめもせずに干す。一思いに嚥下した液体は酒なのだろう。風味など感じられなかったが、冷え切った身体はほんのしばし温まった。
「で、お袋はフィアルーシャを産むために、身体だけは生きていた。で、それも終わったから、身体の方も死んだ。ただそれだけだ」
だからお前は、自分のせいでお袋も死んだなんて、もう考えるな。
頭の中を埋め尽くしていた自責をずばりと言い当てられ、少年はしばし呼吸すら忘れた。
「……でも、俺が血気に逸って敵を深追いしてなかったら親父は今でも生きてて、でフィアルーシャは親父とお袋の愛情に包まれて育てられたはずだ。それが……」
自分は、赤子の妹からも幸福を奪った。声にならぬ声で己を詰るミロスヴァルを、次兄はからからと笑い飛ばした。
「もしそうだったとしてもそれはそれで、ある程度大きくなった俺たちはともかくチビ共は苦しんだだろうな。母さまはどうして僕たちを可愛がってくれないの、どうしてフィアルーシャばっかり、って」
はっとして仰いだ次兄の面は朗らかだったが、双眸は遠い遠い幼い日を見つめているようだった。次兄もまた、母に対しては思うところがあったのだろう。長兄自身は気付いていないだろうが、母は最初の子であり、また出来が良い長兄には他の子供たちよりもあからさまに関心を寄せていた。その長兄と我が身を比べて煩悶した夜が、次兄にもあったのかもしれない。
「フィアルーシャには兄貴がいるし、なんなら俺たちもいるだろ? だから、何も心配いらねえよ。兄貴ならきっと、フィアルーシャとチビたちを立派に育ててくれるさ」
だからお前は、お前の役目を果たすことだけ考えてればいい。お前なら、親父が言ったような頼れる公に、きっとなれる。
次兄が激励の言葉と共に差し出してきた手を握る。染み入るぬくもりは、酒でも温められなかった心を温めてくれた。それでようやく、ミロスヴァルは立ち上がれた。それでも次兄は、ミロスヴァルの手を離さず歩み続けた。ミロスヴァルが無意識に避け続けていた部屋に辿り着くまでは。
「お前も俺も、もうすぐ任地に戻んなきゃなんねえだろ? だから、今の間にじっくり目に焼き付けとこうぜ」
次兄に促され、ようやく直視できた妹は、生まれてまだ一月ほどの赤子ながら母に瓜二つだった。成長したら息を呑む美貌の娘になるのは間違いない。母がそうだったように。
「それにしても、お袋に似てるな」
「そうだな」
「ツラはともかく、中身は似なきゃいいけどな。あんな面倒な女になったら、将来結婚する男が可哀そうでならねえだろ?」
兄に釣られて、久方ぶりに声を上げて笑うと、すやすやと眠っていた妹は長い睫毛を震わせた。無垢な泣き声が耳を劈く。泣き喚く赤子を慌てて抱き上げると、小さな小さな妹はぱっと微笑んだ。大輪の花のごとき、それでいて清らかな笑顔を、ミロスヴァルは決して忘れないだろう。
約束の刃 田所米子 @kome_yoneko
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