葬送 Ⅱ

 女が歩を進めるたびに寡婦の証たる黒衣の裾が、同じく哀しみの色した面紗がふわりと揺れる。

 波のごとく騒めく俗人たち。彼らが纏う哀悼の色とは対照的な、穢れなく眩い光の象徴たる白に身を固めた聖職者たちもまた、面に浮かべる色は同じだった。葬送の場に集った者たちはいずれも、故人の魂の安息のための祈祷を中断している。そうして、大公が眠るにはいささか質素にすぎる拵えの棺のほど近くで、膝を折った女を注視していた。

「ロスティヴォロド」

 恋に恋する乙女のごとく頬を薄紅に染め亡き夫を呼ぶ女は、旬の果実めいた瑞々しい笑みを浮かべている。美しいが作り物のよう、まるで生気を感じられぬと囁かれていた大公妃とは、別人であるかのごとく。けれども冷え切っているだろう面を愛おしげに撫でる指先は、男を知らなければ発せられぬ艶めかしさを漂わせてもいた。

 蛇のごとく、蔦のごとく亡骸の肌の上で這う細い指が、伸びた鬚に覆われた頤をそっと持ち上げる。

「私も、そなたを愛しているのだ」

 狂気に至ったからこそ穏やかに凪いだ矢車菊の青の双眸を、女は誰よりも何よりも愛おしい存在に向け続ける。七竈か房酸塊さながらに紅く艶やかな生者の唇と、蒼ざめかさついた死者のそれ。二つの唇が重なり合ったのは、身じろぎ一つせず息を殺して狂態に見入る観衆の前でであった。

「そうだ。そなた、出立の日に戻ってきたら抱かせろと申しておったろう?」

 ただ触れ合うだけの朧な接吻では足りぬというのか。桃色に滑る舌でもって亡骸の歯列をこじ開けんとし、けれども命を喪った肉体ゆえの硬直に隔てられた女は、柳の眉を幽かに寄せた。先ほどの愛の言葉だけでは足りぬのかと問いたげに。けれども、致し方なしとの苦笑を臈長けた花容に咲かせながら。拒絶されたからこそ彼への愛を吐露することができるのを喜んで。

「私もそなたを、そなただけを愛しているのだぞ」

 白い繊手が亡骸の上衣の前に滑り込むに至って、己が母の痴態から目を背けていた少年が――錯乱した女の三番目の息子が、沈黙を保ったままほっそりとしなやかな後ろ姿まで歩を進める。

「そなたがいてくれるのなら――そなたが私を愛してくれているのなら、そなた以外には他に何もいらぬ。子供らとて、そなたに比すれば塵芥よ」

 けれどもしなやかな脚は、濡れた唇から放たれた刃に貫かれたのか。戦慄く指は女の肩に触れもせぬうちにぴたりと止まった。

「本当は、ずっと前から分かっていたのだ。父上たちは、弱いから亡くなっただけなのだと。だから、そなたが私の父上たちを殺したことを気にする必要は一切ない」

 ――私たちの間には、ただ愛があればよい。そうであろう?

 濃密な愛撫にも、蕩ける睦言にも一切の反応を返されぬというのに、夫の身体を掻き抱く女の笑みは幸福そのものであった。晴眼であるはずの深い青の瞳に映っているのが、彼女の夫が未だ健在であり続ける、まやかしの世界であるからこそ。

 女はただ重いだけの肉塊と化した、かつては己を幾度となく掻き抱いた腕を取る。そうして自ら肌蹴させた胸に、生ある時とはまた違う硬さの指を触れさせた。

 二つの頂は既に硬く尖り、脚の間の園はしっとりと潤っていたが、それも夫を恋い慕えばこそだった。真白の丘の薄紅の蕾に冷たい指先が掠めた途端、上ずった声が漏れたのも。女の魂を長きに渡って捕らえていた氷の獄は、待ち望んだ愛の炎によってついに融かされたのだ。

「そなたが望むのなら、私はこれからまた幾らでも子を、そなたが欲した娘を産もうぞ」

 だがそれには、そなたの協力がなくてはならぬのだ。

 女はうっとりと囁いて、生前の逞しさを辛うじて残した胸板に頬を摺り寄せ唇を這わせ、白魚の指でもって鍛え抜かれた腿の間を撫で摩った。眼前で繰り広げられる光景のあまりのおぞましさに、ついに蹲って嘔吐した我が子の方を振り返りもせず。

「だからもうこんな馬鹿な真似はやめよ。早く起き上がって私を抱いて、そしてもう一度愛していると言ってくれ」

 まだ澄んで高いものも、声変わりを終え雷鳴のごとく低くなったものも様々な絶望の叫びと啼泣が轟く。咽び泣きに背を向け愛を語り請い続ける女の笑顔は、輝かんばかりに美しかった。亡き夫が見た、彼女のどの貌よりも。

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